資治通鑑陳紀一 高祖武皇帝 永定元年 557年

春正月 北周の即位と制度整備

  • 北周では宇文覚が天王として即位し、天に告げ、百官の朝賀を受けた。父を文王、母を文后と追尊し、大赦を行い、魏の恭帝を宋公に封じた。国制では夏暦を用い、服色は黒を尊んだ。
  • 李弼を太師、趙貴を太傅・大冢宰、独孤信を太保・大宗伯、宇文護を大司馬とし、軍政・朝政の中枢を整えた。王琳には司空・驃騎大将軍を授け、王通を左僕射とした。
  • 北周は祖先祭祀を整え、円丘・方丘・社・太廟などを順次祭った。宇文氏は自ら神農の後裔と称し、神農を郊祀に配し、始祖や文王もそれぞれ祀った。市門税も廃止された。
  • 太廟では鄭玄の説を採って五廟制を立て、太祖と二昭二穆を基本とし、功徳のある先祖には別に祧廟を立てて廃絶しない方針とした。
  • 元氏の王后が立てられた。彼女は西魏文帝の娘で、晋安公主であった。

春 二月 蕭勃の挙兵と嶺南方面の戦い

  • 南安城主の馮顕が北周へ降ろうとし、宇文貴は郭彦に兵を与えて迎えさせた。郭彦はそのまま南安を占拠した。
  • 吐谷渾が北周の凉州・鄯州・河州を侵したが、于翼は「騎掠が目的で深入りはしない」と見て大軍を動かさず、数日でその予測通り敵は退いた。
  • 梁の旧将欧陽頠は、かつて東衡州刺史だったが、蕭勃に従っていた。二月、蕭勃は広州で挙兵し、欧陽頠・傅泰・蕭孜らを前軍とし、余孝頃もこれに合流した。
  • 陳霸先は周文育に討伐を命じた。余孝頃は豫章、傅泰は蹠口城、欧陽頠は苦竹灘に拠ったが、熊曇朗は表向き欧陽頠と組みつつ、黄法氍とも通じて双方を出し抜き、欧陽頠を敗走させてその軍資を奪った。
  • 周文育は兵船不足を焦僧度に補わせ、豫章に柵を築いて持久した。食糧難に際しても退かず、周廸と連絡して補給を確保したうえ、退却を装って敵を油断させ、間道から芊韶に進出して欧陽頠・傅泰・余孝頃の中間を遮断した。
  • 周文育は欧陽頠を捕え、ついで傅泰も擒にした。蕭孜と余孝頃は敗走し、蕭勃の軍勢は大きく崩れた。

二月末から三月 北周の権力闘争

  • 北周では趙貴と独孤信が、宇文護の専権に不満を抱いた。趙貴は宇文護を殺そうとしたが、宇文盛の密告で露見し、趙貴は入朝の際に捕らえられて処刑された。独孤信も官を免ぜられた。
  • その後、于謹が太傅、侯莫陳崇が太保、宇文護が大冢宰、賀蘭祥が大司馬、達奚武が大司寇となり、宇文護の権勢はいっそう固まった。
  • 宇文護は名望の高い独孤信をあからさまに誅するのを避け、自害を強いた。
  • またこの頃、北周は魏恭帝を殺して、元氏の旧主を完全に排除した。

三月 蕭勃の最期

  • 周文育は欧陽頠・傅泰を建康へ送り、陳霸先は旧知であった欧陽頠を赦して厚遇した。
  • 王琳は湘州・郢州刺史に任じられた。
  • 蕭勃は南康で敗報を聞き、軍中は大いに動揺した。まもなく徳州刺史陳法武と前衡州刺史譚世遠に攻められ、殺された。

夏四月 陳政権の財政・対外関係

  • 四柱銭を鋳造し、小銭二十枚分の価値とした。その後、価値を十枚分に改め、細小の私鋳銭の流通を禁じた。
  • 北斉は和親を求めて使者を送った。
  • 曲江侯蕭勃の旧部蘭敱が譚世遠を殺したが、軍主夏侯明徹に討たれた。
  • 李宝蔵は懐安侯蕭任を奉じて広州に拠った。

四月から五月 石頭・広州平定

  • 蕭孜と余孝頃は石頭に二城を築き、水上に船艦を並べて抵抗した。陳霸先は侯安都を周文育の援軍として派遣した。
  • 侯安都は夜陰に乗じて敵船を焼き、周文育と挟撃して蕭孜を降し、余孝頃を新呉へ逃亡させた。
  • 陳霸先は南方で名望のある欧陽頠を再び衡州刺史に任じ、嶺南討伐に向かわせた。欧陽紇が先に始興を取り、欧陽頠が着任すると諸郡は次々と降り、広州も平定され、嶺南はおおむね平らいだ。

五月 北周の言論抑圧

  • 北周の齊軌は「軍国の政は天子に帰すべきで、権門に握られるべきではない」と薛善に語ったが、宇文護に知られて殺された。薛善は逆に宇文護の配下へ取り込まれた。

五月から六月 王琳との対決へ

  • 余孝頃は陳の丞相府に使者を送り、降伏を願い出た。
  • 王琳は召命に応じず、舟艦を大いに整備して陳霸先を攻める構えを見せた。
  • 六月、陳霸先は侯安都を西道都督、周文育を南道都督とし、兵船二万で武昌に会して王琳を討たせた。

秋七月 北斉の蝗害と諫言

  • 北斉では河南・河北に大蝗が発生した。魏郡丞崔叔瓚は、長城建設や三台造営など時宜を失した大規模土木が災いを招いたのだと答えたため、高洋の怒りを買い、辱めを受けた。

八月から九月 梁元帝の遺骸返還と陳王の加封

  • 北周は梁元帝の棺と、諸将の家族千余人を王琳へ返還した。
  • 陳霸先は太傅・黄鉞・殊礼を加えられ、さらに相国・総百揆となり、陳公に封じられて九錫を受け、陳国として百司を置くまでになった。

九月 北周・宇文護と孝愍帝の対立

  • 北周の孝愍帝は剛毅な性格で、宇文護の専権を憎んだ。李植・孫恒・乙弗鳳・賀抜提らは、宇文護がいずれ臣節を失うと説いて帝を焚きつけた。
  • 孝愍帝は後園で武士に逮捕の訓練までさせ、宇文護誅殺を謀ったが、張光洛の密告で計画は漏れた。
  • 宇文護はまず李植・孫恒を地方へ出して党羽を分断し、その後、賀蘭祥・尉遅綱らと協議して先手を打った。宮中へ兵を入れて乙弗鳳らを捕らえ、宿衛兵を解散させ、帝を旧第に幽閉した。
  • 公卿を集めて宇文覚を略陽公へ降し、岐州刺史の寧都公宇文毓を迎えて立てることを決めた。公卿はこれを宇文氏一門の家事として従った。
  • 李遠は子の李植を弁護しようとしたが、略陽公との対質で李植自身が「至尊のため、社稷を安んじるための計画だった」と口を滑らせたため、結局李植も李遠も死に追い込まれた。李遠の弟李穆だけは、以前から李植の危うさを見抜いていたため連座を免れた。
  • 一か月ほどののち、宇文護は幽閉した略陽公を殺し、元皇后を尼とした。

秋九月から冬十月 北周新帝即位と陳の受禅

  • 寧都公宇文毓が長安に着き、天王として即位した。
  • 十月、陳公は陳王へ進封された。
  • 辛未、梁敬帝は陳王に禅譲した。
  • 陳王は中書舍人劉師知に命じて沈恪を率兵入宮させ、梁主を別宮へ移そうとしたが、沈恪は梁氏に仕えてきた身としてこれを忍びず、死を覚悟して命令を辞退した。陳王はその心情を嘉して無理強いせず、王僧志に代えさせた。
  • 乙亥、陳王は南郊で皇帝位に即き、大赦して永定と改元した。梁敬帝は江陰王に、梁太后は太妃に、皇后は妃に降された。

冬十月 陳の新体制

  • 蔡景暦は秘書監兼中書通事舍人となり、当時の政務はほとんど中書省に集められた。二十一局を置いて尚書省の諸曹に対応させ、国政の機要を統括した。
  • 陳の武帝は鍾山で蔣帝廟を祀り、ついで杜姥宅に保管されていた仏牙を公開し、無遮大会を催して自ら礼拝した。
  • 父の陳文讃を景皇帝として追尊し、母董氏を安皇后とした。先夫人の銭氏を昭皇后、世子の陳克を孝懐太子と追立て、章氏を皇后とした。律令整理のため刪定郎も置いた。

十月から十一月 王琳との決戦と大敗

  • 侯安都が武昌に着くと、王琳の将樊猛は城を捨てて逃げた。周文育も豫章から合流したが、梁から陳への易姓を知った侯安都は、「いまや戦いに大義名分がない」と嘆いた。
  • 侯安都と周文育は並列指揮で不和があり、郢州攻略を急いだが、王琳本隊が弇口に現れると、安都は郢州を捨てて沌口へ向かった。
  • 漢曲に沈泰を残し、沌口で王琳と相対したが、風のため進撃が妨げられ、数日後の決戦で侯安都・周文育らは大敗した。
  • 侯安都、周文育、徐敬成、周鉄虎、程霊洗らは王琳に捕えられた。周鉄虎は屈せず殺され、他の将は大きな鎖でつながれて王琳の船中に幽閉された。沈泰は軍を率いて逃げ帰った。
  • 王琳は湘州の軍府を郢城へ移し、さらに樊猛に江州を襲わせた。

十一月 陳皇族の封建

  • 陳の武帝は兄の子陳蒨を臨川王、陳頊を始興王に立てた。すでに死んでいた弟の子熊曇朗についてはそれを知らず、遥かに南康王に封じた。

十二月 蜀江方面・閩中・北周の地方経営

  • 譙淹が蜀地から水軍七千と老弱三万を率いて東下し王琳に帰そうとしたが、北周の賀若敦・叱羅暉らに破られ、斬られた。
  • 陳は蕭乾を閩中に派遣して豪族を説得した。熊曇朗・周廸・留異・陳宝応らが連携し、閩中でも豪帥が各地に砦を築いていたが、蕭乾の説諭により多くが降った。乾は建安太守に任じられた。
  • 北周では席固に代えて令狐整を豊州へ送り、まず恩威で州府を掌握させたうえで正式に刺史とし、武当地域へ州城を移して短期間で城府を整えた。席固の旧部は多くが令狐整のもとに留まりたがったが、朝制に従って許されなかった。
  • 北斉では長城の内側にさらに重城を築いた。
  • 高洋は「高氏を亡ぼす者は黒衣」との術士の言を信じ、兄弟の上党王渙を疑って捕えた。さらに永安王浚に対しても以前からの遺恨を深めていた。