資治通鑑梁紀十六 高祖武皇帝 太清 元年 547年

春正月 日食と荊州の人事

  • 正月朔日に日食が起こり、欠け方は鉤のようで、完全には隠れなかった。
  • 荊州刺史の廬陵威王蕭續が死去した。諡号の「威」は、勇猛で果断であったことによるものとされた。後任には湘東王蕭繹が、荊州刺史・荊雍など九州諸軍事都督として任じられた。
  • 蕭續はふだん貪欲で、臨終に際して中録事参軍の謝宣融に金銀器千余件を持たせて朝廷へ献上した。武帝がその蓄財の多さに驚いて問いただすと、謝宣融は、これでもまだ多いくらいであり、王の過失を君主に知らせるため、死後だからこそ隠さなかったのだと述べた。これにより武帝の怒りはやわらいだ。
  • もともと蕭繹が荊州刺史だったころ、わずかな落ち度を蕭續が朝廷に報告したことがあり、この一件で両王の関係は断絶していた。蕭繹は蕭續の死を聞くと、室内に駆け込んで喜び、履き物を踏み破るほどだったという。兄弟の情がまったくなかったことを示す逸話である。

東魏の高歓死去と侯景の離反

  • 丙午、東魏の実力者・勃海王高歓が五十二歳で死去した。
  • 高歓は、心中を見せない沈着な人物で、機略に富み、軍政に厳正で、人材登用にも実務能力を重んじた。身分の低い者でも使える者は抜擢し、名声ばかりで実質のない者は用いなかった。旧功臣を大切にし、敵国で節義を守った者も多く赦したため、文武ともによく従った。
  • 世子の高澄は父の遺言により喪を秘し、陳元康だけが事情を知った。
  • 侯景は以前から高氏と不和であったため不安を抱き、辛亥、河南の地を拠点に反旗を翻して西魏へ通じた。潁州刺史司馬世雲も城を挙げてこれに呼応した。
  • 侯景は豫州刺史高元成・襄州刺史李密・広州刺史暴顕らを誘い出して拘束し、さらに西兗州をだまし討ちしようとしたが、刺史邢子才が見抜いて捕縛し、諸州へ警告文を出したため、侯景は東方諸州を奪えなかった。胡三省は、侯景の変を見抜き、その奸計を公にしたのは邢子才ひとりであり、文士でも辺境防衛の柱となりうると評している。
  • 東魏の諸将は、侯景の離反は崔暹が権貴を弾劾して将兵の恨みを買ったせいだとして、彼を処刑して侯景をなだめるよう高澄に迫った。
  • しかし陳元康は、外征中の数将の歓心を買うために無辜の者を殺せば法の根本が崩れるとして諫め、晁錯の前例を挙げて慎重を求めた。高澄はこれを受け入れ、崔暹を殺さず、司空韓軌を討伐軍の指揮に当てた。

梁・魏の祭祀と法制

  • 辛酉、武帝は南郊を祭って大赦を行い、甲子には明堂でも祭祀を行った。
  • 三月、西魏では宮刑に当たる罪人について、今後は肉体刑を科さず官奴婢に没する方針が出された。

侯景、梁へ帰順を申し出る

  • 西魏は侯景を太傅・河南道行台・上谷公とした。
  • 庚辰、侯景は行台郎中丁和を梁へ送り、高澄との対立を理由に、函谷関以東・瑕丘以西の十三州をそっくり梁へ献じたいと願い出た。青州・徐州方面も簡単に平定でき、さらに燕・趙へ進出できると説いた。
  • 梁の廷議では、尚書僕射謝挙らが、ここ数年東魏と和好が続き辺境も安定している以上、反臣を受け入れるのは得策でないと主張した。
  • だが武帝は、侯景を得れば北方平定の好機になるとして積極姿勢を見せた。
  • もともと武帝は正月乙卯に、中原の牧守たちが領地を持って次々帰順してくる夢を見ており、中書舎人朱异はこれを天下統一の吉兆と持ち上げた。丁和が、侯景もまさにその日を選んで決断したと伝えると、武帝はいっそうその夢を信じた。胡三省は、国を治められぬまま妖しい夢を信じたこと自体が梁滅亡の兆しだと厳しく評している。
  • 武帝は一方で、梁は今まで傷一つない金の甌のような国家であり、侯景の土地を受け入れて騒乱を招くのは危険ではないかと迷った。
  • 朱异は、侯景が魏の半土を差し出してくるのは天意と人の助けがあってこそであり、拒めば今後の帰順者の望みを絶つと説いた。武帝はついに受納を決断した。
  • 壬午、侯景を大将軍・河南王とし、河南北諸軍事都督・大行台に任じ、鄧禹にならって現地で自ら命令を出せる特権も与えた。
  • 平西諮議参軍周弘正は以前から数年後に兵乱が起こると語っていたが、侯景受け入れを聞くと、乱の始まりはここにあると嘆いた。

春三月 藉田と同泰寺の捨身

  • 丁亥、武帝は藉田を耕した。
  • 庚子、同泰寺に行幸し、かつて大通年間に行ったのと同じく、自らの身を寺へ「捨てる」儀礼を行った。
  • 甲辰、司州刺史羊鴉仁・兗州刺史桓和・仁州刺史湛海珍らに三万の兵を与え、懸瓠へ向かわせて糧食輸送と侯景支援を担当させた。

東魏・西魏の対応

  • 西魏は大赦を行った。
  • 東魏の高澄は、諸州で動揺が広がることを恐れて自ら巡察に出た。晋陽には段韶を残して軍務を委ね、趙彦深には高歓の遺した施政条目を段階的に実施させた。出発に際し、高澄は趙彦深の手を握って涙を流し、幼い弟たちを託した。
  • 四月壬申、高澄は鄴に入朝し、東魏主と宴した。その席で高澄は立って舞った。胡三省は、父の喪を秘したまま死肉も冷えぬうちに歓楽にふけったことから、その最期も長くないと見る者がいたと解説している。

夏四月 太清へ改元

  • 丙子、群臣が寺へ捨てられた武帝を金銭で「贖い出す」儀式を行った。捨身から三十七日後のことで、この長期にわたり政務が仏事で空転したことを胡三省は強く非難している。
  • 丁丑、武帝は宮中へ戻り、大赦を行って太清と改元した。
  • 甲午、東魏は兼散騎常侍李系を梁へ使者として送った。彼は李繪の弟である。

五月 侯景、潁川に退いて西魏へ救援を求める

  • 東魏は大赦を行い、さらに多くの要職を任命した。
  • 高澄は武衛将軍元柱ら数万を昼夜兼行で進ませ、侯景を奇襲させた。潁川北で侯景軍はこれを破ったが、梁の羊鴉仁らの援軍がまだ着いていなかったため、侯景は潁川に退いて守勢に入った。
  • 韓軌らは潁川を包囲した。侯景は恐れて、東荊州・北兗州・魯陽・長社の四城を西魏に差し出すので救援してほしいと求めた。胡三省は、この「北兗州」は史書の誤記で、実際は北荊州のことではないかと考証している。
  • 西魏の于謹は、侯景は兵に通じ狡猾で変心しやすく、爵位を厚くして様子を見るべきで、すぐ救援兵を出すべきではないと述べた。
  • これに対し荊州刺史王思政は、機会を逃せば後悔するとして、歩騎一万余りを率い魯陽関から陽翟へ向かった。
  • 宇文泰は侯景に大将軍兼尚書令を加え、太尉李弼・儀同三司趙貴ら一万を派遣した。
  • 侯景は梁へ弁明文を送り、梁の援軍がまだ来ず、死傷が増えて急を救うためやむなく関中に援助を求めたのであって、西魏に本心から帰したのではないと説明した。自分は高氏にも宇文氏にも安住するつもりはなく、四州を敵への餌にして時間を稼ぎ、現に押さえている地はすべて梁へ帰属させるつもりだと述べ、懸瓠・項城・徐州・南兗州を受け取るため、梁も国境に重兵を置いて呼応してほしいと要請した。
  • 武帝は「大夫は国外では専断も許される」として、侯景の現場判断を不問に付した。胡三省は、この返書の甘さによって侯景は梁君主の底を見抜いたのだとみている。

六月 梁軍・西魏軍の進出と侯景の両属

  • 戊辰、鄱陽王蕭範を征北将軍とし、漢北の征討諸軍事を総督させて穰城攻撃に向かわせた。これは西魏の荊州方面を牽制し、侯景を支える意図があった。
  • 東魏の韓軌らは、李弼・趙貴ら西魏軍が近づくと、乙巳、潁川包囲を解いて鄴へ撤退した。
  • 侯景は李弼・趙貴との会見で二人を拘束してその軍を奪おうとしたが、趙貴が警戒して会わなかった。逆に趙貴は侯景を軍営へ誘って捕えようとしたが、李弼はそれを止めた。胡三省は、侯景を取っても河南をすぐには兼併できず、ただ東魏の害を除くだけになると李弼が判断したからだと説く。
  • 羊鴉仁は長史鄧鴻を汝水まで進めた。李弼は軍を長安へ返したが、胡三省は、東魏軍の撤退後に梁軍が到着したため、もし西魏軍が残れば梁・西魏が汝潁の間で無益に戦うところだったと見ている。
  • 王思政は潁川に入城した。侯景は表向きは周辺攻略を装い、懸瓠へ出て駐屯した。これは後に王思政の潁川保持が東魏に没収される伏線となった。
  • 侯景はさらに西魏へ兵を求めた。宇文泰は韋法保・賀蘭願徳らを援軍として出した。
  • だが大行台左丞王悦は宇文泰に、侯景は高歓とは同郷の情から始まり、最後は重臣にまで上った人物であり、高歓が死ぬやすぐ背いたのだから、その野心は大きく、決して人の下には立たないだろうと警告した。徳を背く者が朝廷に忠節を尽くすはずはなく、援助すれば後世の笑いものになると論じた。
  • 宇文泰は侯景を入朝させようとした。侯景は本心では西魏にも背くつもりで、韋法保らを厚遇して味方につけようとしつつ、外面では親密を装った。
  • 裴寛は韋法保に、侯景は必ず入朝を拒み、口先だけで信用させようとするから、むしろ伏兵して斬るか、少なくとも十分に備えよと忠告した。韋法保はこれをもっともと思い、自衛に努めた。
  • 王思政も侯景の偽りを見抜き、賀蘭願徳らをひそかに呼び戻して諸軍に配し、侯景配下の七州十二鎮を押さえた。
  • 侯景は果たして入朝を拒み、宇文泰に手紙を送り、自分は高澄と並び立つのも恥であり、まして宇文泰の弟分のように扱われるつもりはないと述べた。胡三省は、宇文泰に見抜かれたこと、また梁が侮りやすいことを知ったため、西魏と手を切って梁への接近を決意したのだと解している。
  • 西魏は、此前後に侯景支援へ送った軍を引き揚げ、侯景配下の任約だけが千余人を率いて侯景の側へ降った。
  • 宇文泰は侯景に授けていた官位を王思政へ移そうとしたが、王思政は河南諸軍事都督だけを受け、他は辞退した。

七月 高歓の喪発表と梁の州郡再編

  • 丁丑、高澄は晋陽へ戻り、ここで初めて高歓の死を公表した。
  • 西魏では長楽武烈公若干恵が死去した。
  • 丁酉、東魏主は高歓のために哀悼の礼を行い、漢の霍光に準じる殊礼をもって相国・斉王を追贈し、九錫を備えた。翌日、高澄は大丞相・都督中外諸軍・録尚書事・大行台・勃海王となったが、辞退の上表を出した。
  • 壬寅には太原公高洋に軍国の事務を代行させる詔が出された。
  • 庚申、羊鴉仁は懸瓠へ入城した。
  • 甲子、梁は懸瓠を豫州、寿春を南豫州、合肥を合州と改めた。胡三省は、晋宋以来の豫州治所の変遷と、南北対立の中で州郡の名称や治所がたびたび入れ替わった経緯を詳しく説明している。
  • 羊鴉仁を司・豫二州刺史として懸瓠に鎮させ、西陽太守羊思達を殷州刺史として項城に置いた。殷州は東魏の北揚州を改称したものだった。

八月 梁、東魏への大規模遠征を決定

  • 乙丑、武帝は東魏への大規模遠征を命じた。
  • 当初、南豫州刺史貞陽侯蕭淵明と、南兗州刺史南康王蕭会理に諸軍を分担させる案が出た。淵明は蕭懿の子、会理は蕭続の子である。
  • 武帝は当初、鄱陽王蕭範を元帥にしようと考えたが、休暇で外出していた朱异が急いで参内し、蕭範は豪胆で人心を得るが、残虐で、民を慰撫する器ではないと止めた。さらに、武帝がかつて北顧亭から江右に反逆の気があると語ったことを持ち出し、宗室が主導権を握る危険をほのめかした。胡三省は、朱异が鄱陽王を疑って侯景を疑わなかったことを痛烈に批判している。
  • 朱异は、会理ならば臆病で無策だから安全だと勧めた。武帝は不快に思いつつも聞き入れた。
  • しかし会理は皇孫であり都督でもあることを鼻にかけ、淵明以下の諸将とまともに応対しなかった。そこで淵明らはひそかに朱异へ訴え、会理を召還させた。最終的に淵明が都督となった。
  • 辛未、高澄は鄴に入朝し、大丞相を固辞したため、大将軍のまま他の職権だけを保った。
  • 甲申、高歓はひそかに漳水西岸の成安鼓山石窟寺近くへ埋葬された。工人は秘密保持のため皆殺され、のち斉が滅んだ後、その事を知る工人の子が墓を暴いて金を盗んで逃げたという。胡三省は、秘密の埋葬も結局は無益だったとみる。
  • 戊子、梁の武州刺史蕭弄璋が東魏の磧泉・呂梁の二戍を攻め落とした。

東魏主と高澄の不和、宮廷陰謀

  • このころ、侯景が北帰する気を見せているとの密告が高澄に届いた。侯景の将蔡道遵も、侯景は少し後悔しており、母妻子が鄴にいることもあって帰参の余地があると伝えた。
  • 高澄は侯景に書を送り、一門は無事であり、帰れば生涯豫州刺史とし、愛妾や子も返し、旧臣の処罰もしないと約した。
  • 侯景は王偉に返書させ、いまや梁と西魏の二国を引き込み北伐の旗を掲げている以上、中原回復は自力で行うのであり、恩賞を乞うつもりはないと答えた。王陵は母を人質に取られても漢へ帰り、漢の高祖も父が楚に囚われても平然としていたではないか、妻子など問題ではなく、殺しても役に立たず、殺さなくても害はない、自分の一族が相手の手中にあることは自分にはもう関係ない、と言い放った。
  • 戊子、梁は侯景を録行台尚書事にも任じた。
  • 東魏の静帝は容姿・体力に優れ、文雅な風もあり、孝文帝を思わせると評された。しかし高澄は深くこれを猜疑していた。
  • 高歓の時代は、静帝に対する礼は一応保たれていたが、高澄の専権が強まると、崔季舒に帝の動静をことごとく探らせるようになった。胡三省は、「中書黄門郎」という肩書を、宮中近侍と詔勅実務の両面から静帝監視のために兼ねさせたものだと説明している。
  • 高澄は崔季舒への手紙で、静帝を「痴人」と呼び、その様子を報告させた。
  • 静帝が鄴東で狩りをしたとき、監衛都督烏那羅受工伐が「天子よ、走らせるな」と後ろから呼び止めたので、高澄は激怒した。宮中を守るための監衛都督が、実は君主監視のために置かれていたことを胡三省は指摘している。
  • さらに高澄は酒席で大杯を捧げ、「臣澄が陛下に酒を勧めます」と、君臣の礼を無視した馴れ馴れしい態度をとった。
  • 静帝は怒りに耐えかね、「古来亡びぬ国はない。朕は生きていて何になろう」と言った。高澄は激昂し、崔季舒に命じて静帝を三度殴らせ、そのまま立ち去った。翌日には崔季舒を使者として見舞わせ、静帝も詫びて絹百匹を与えた。胡三省は、無礼者は早晩身を滅ぼすと評している。
  • 静帝は侍講の荀済に心情を見抜かれ、荀済は元瑾・劉思逸・華山王大器・淮南王宣洪・済北王徽らと、高澄誅殺を計画した。
  • 偽って荀済に講義開始日を問う勅を出し、宮中で土山を築き、地道を掘って千秋門へ通じさせたが、門番が異音を聞いて高澄へ密告した。
  • 高澄は兵を率いて宮中へ入り、帝の前で拝礼もせず座り込み、何ゆえ自分の父子に背くのか、父子は社稷の功臣ではないかと問い詰め、さらに胡夫人や李嬪を殺そうとした。
  • 静帝は正色で、自古君に逆らうのは臣であって、君が臣に逆らうということはない、王こそ反逆しようとしているのに、なぜ自分を責めるのか、自分が王を殺せば社稷は安んじ、殺さねば滅亡は間近い、自分の命も惜しまぬのだから妃嬪などなおさらだ、と言い切った。
  • 高澄は床を降りて叩頭し、泣いて謝った。胡三省は、どれほど悖逆でも、この道理の前には高澄も屈したと見る。
  • その夜は酒宴のまま深更に及び、高澄は退出した。三日後、静帝を含章堂へ幽閉し、壬辰、荀済らを市で煮殺した。

荀済の最期

  • 荀済は若いころ江東にいて学識と文章で知られ、武帝とは布衣時代からの旧知であったが、その大志を知りつつも服さず、いずれ盾の上で墨を磨って檄文を書くことになるだろうと語っていた。
  • 武帝は即位後、荀済が才あっても風俗を乱し反逆を好むとして用いなかった。のち荀済が、武帝の仏教崇拝と塔寺建立の浪費を諫める上書をすると、武帝は激怒して朝臣の前で斬ろうとしたが、朱异の密告で荀済は東魏へ逃れた。
  • 高澄が中書監となって荀済を侍読に用いようとしたとき、高歓は自分は彼を愛しているからこそ用いないのであり、宮中へ入れれば必ず禍を起こすと止めていた。高澄は請い続け、ついに許されたが、果たしてその通りになった。
  • 捕らえられた荀済は、年老いてなお気概だけは衰えていない、自分は天子を擁して権臣を誅しようとしたのだと言い切った。高澄は一度は助命も考えたが、荀済が「詔を奉じて高澄を討ったのであって、どうして逆なのか」と答えたため、東市で焼き殺された。
  • 高澄は、温子昇も元瑾らの陰謀を知っていたのではないかと疑い、ちょうど完成したばかりの高歓碑文の作者である彼を晋陽の獄に入れ、食も粗末なまま死なせ、死体を道ばたに捨て、一家を官奴婢とした。
  • ただし太尉長史宋遊道だけは温子昇を収葬した。高澄は宋遊道に対し、これまで君は党派に偏らぬので欠点かと思っていたが、今こそ真に故旧を重んじ節義ある人物と分かったと語った。胡三省は、節義に殉ずる士は必ずしも身を滅ぼすとは限らないこともここに見えるとしている。

九月 寒山の堰と梁軍の敗北

  • 辛丑、武帝は蕭淵明に命じて寒山で泗水を堰き止め、彭城へ水攻めを仕掛けさせた。彭城を取ったうえで侯景と挟撃する構想だった。
  • 癸卯、蕭淵明軍は彭城から十八里の寒山に進み、流れを断って堰を築いた。侍中羊侃が工事を監督し、二十日足らずで完成した。羊侃は、完成直後に水勢を利用して彭城を攻めるべきだと勧めたが、淵明は従わなかった。諸将が軍議を求めても、淵明は「臨機応変に」としか答えられなかった。

冬十一月 東魏の救援軍出動

  • 西魏の丞相宇文泰は魏主とともに岐陽へ狩りに出た。
  • 東魏の高澄は、高岳を彭城救援に向かわせ、当初は潘楽を副将にしようとした。
  • しかし陳元康は、潘楽は機変に乏しく、侯景に対しては慕容紹宗こそ適任であり、これは高歓の遺命でもあると述べた。高澄は慕容紹宗が離反を疑うのではと心配したが、陳元康は自分が以前から彼と信頼関係を築いているから大丈夫だと請け合った。
  • 乙酉、慕容紹宗を東南道行台として高岳・潘楽とともに出征させた。
  • 侯景は韓軌を「豚の腸でも食うような男が何をする」と軽んじ、高岳についても兵は精強でも本人は平凡と見たが、慕容紹宗の来援を聞くと鞍を叩いて恐れ、なぜ鮮卑にこんな人物を派遣する知恵があるのか、高歓は本当に死んだのかとまで言った。
  • 高澄は廷尉卿杜弼を軍司兼行台左丞として従軍させるにあたり、政治の要点を問うた。杜弼は、天下の大事は賞罰に尽き、褒賞一つで天下を喜ばせ、処罰一つで天下を恐れさせる、その二つを誤らなければ政治は整うと答えた。高澄はこれを高く評価した。

寒山決戦

  • 慕容紹宗は十万を率いて槖駝峴に拠った。羊侃は、遠来の敵をすぐ撃つべきだと蕭淵明に勧め、翌朝も再び出戦を促したが、淵明は動かなかった。羊侃はやむなく自軍だけを堰の上へ移した。胡三省は、元帥の命なく勝手に陣を移すのは軍法上許されないが、羊侃は淵明が必敗だと知って自軍を保全しようとしたのだろうと見ている。
  • 丙午、慕容紹宗は彭城城下へ着き、歩騎一万で郭鳳の営を猛攻した。矢は雨のように降り注いだが、蕭淵明は酔って起き上がれず、諸将も救援に出なかった。
  • 北兗州刺史胡貴孫は、譙州刺史趙伯超に、我々は戦うために来たのではないのかと問い、独力で部下を率いて東魏軍に突撃し二百級を斬った。しかし趙伯超は数千を擁しながら救わず、敵勢が盛んなので戦えば必敗だ、軍を保って早く帰るべきだと言って撤退した。
  • 侯景は以前から梁軍に、敵を追っても二里以上は深入りするなと警告していた。慕容紹宗は戦いの前、梁兵は軽捷で勇敢だから持ちこたえられないかもしれない、そこで自分はわざと退いて南人を誘い込み、そこを背後から叩くと将卒一人一人に言い聞かせていた。
  • 実際に東魏軍が敗走を装うと、梁軍は侯景の忠告を無視して深追いし、東魏将卒は慕容紹宗の作戦どおり一斉に反撃した。
  • 梁軍は大敗し、蕭淵明・胡貴孫・趙伯超らは捕虜となり、死傷は数万人にのぼった。羊侃だけは陣を整えて徐々に退き、軍を保った。
  • 武帝は昼寝中に敗報を受け、文徳殿に出ると「わが国も晋のようになるのではないか」と嘆いた。胡三省は、夷狄に都を奪われた西晋の故事を踏まえた言葉だとする。

十二月 東魏の檄文と侯景の再起

  • 甲子朔、郭鳳は潼州を捨てて逃げた。
  • 東魏は軍司杜弼に命じて梁へ檄文を書かせた。その内容は、梁が侯景という不臣の徒を受け入れて和好を破ったことを責め、梁主は軽薄・虚飾・仏事偏重によって政治を壊し、災異と怨嗟を招いており、いずれ骨肉の争いと国家崩壊に至るだろうと断じるものだった。胡三省は、この檄文が後の梁室の禍乱をほぼ言い当てていると評している。
  • 侯景は譙城を攻めたが落とせず、退いて城父を攻めてこれを取った。
  • 壬申、侯景は王偉らを建康へ送り、鄴では文武が協議して侯景とともに高澄討伐を図ったが事が漏れて、高澄は東魏主元善見を金墉に幽閉し、元氏六十余人を殺した、河北の人心はみな元氏復立を望んでいる、と武帝に訴えた。元氏の一人を立てれば、梁には滅びた宗統を継がせる名声が生まれ、侯景には立功の実が立つ、河北河南は梁の属国のようになり、その男女は梁の臣妾同然になると説いた。武帝はこれを信じた。胡三省は、杜弼のいう「甘言で身の置き所を図る」そのままだと批判している。
  • 乙亥、武帝は太子舎人元貞を咸陽王とし、兵力を添えて北へ帰そうとした。東魏主が渡江して来れば即位させるつもりで、儀仗も皇帝副車に準じて与えた。元貞は元樹の子である。

東魏軍と侯景の渦陽対陣

  • 捕らえられた蕭淵明は鄴へ送られ、東魏主が閶闔門でこれを受けたのち責めて放し、晋陽へ送った。高澄は彼をたいへん厚遇した。これはのちに淵明を利用して和議を進め、侯景を孤立させる布石となる。
  • 慕容紹宗は侯景を攻め、侯景は輜重数千車・馬数千・兵四万を率いて渦陽へ退いた。慕容紹宗は十万・旗甲赫々として進軍した。
  • 侯景は使者に、ここへ来たのは客を送るためか、それとも勝負を決するためかと問わせた。慕容紹宗が勝敗を決すると答えると、順風を利用して陣を布いた。
  • 侯景は逆風では戦わず、風がやむのを待って出撃した。慕容紹宗は、侯景は奇策が多く、敵の背後を衝くのを好むから備えよと命じたが、侯景は短甲に短刀を持つ決死兵を東魏陣へ突入させ、視線を低くして人の脛と馬脚だけを斬らせた。東魏軍はこれに崩れた。胡三省は、これこそ必死の兵であり、慕容紹宗が敗れたのも当然だとし、のち侯景が陳霸先と戦うときも同じ戦法を用いたと指摘している。
  • 慕容紹宗は落馬し、劉豊生は生け捕り同然の重傷、張遵業は捕虜となった。紹宗と豊生は譙城へ逃れた。
  • 禆将の斛律光と張恃顕が紹宗を責めたが、紹宗は自分は多くの戦をしてきたが、侯景ほど討ちにくい敵は見たことがないと答えた。二人が自分でやってみせると言うので出陣を許したが、渦水を渡るなと戒めた。
  • 斛律光は水北から騎射を浴びせると、侯景はおまえの父とは旧知の仲で、おまえは自力で水南へ渡れないのか、慕容紹宗に止められているのだろうと挑発した。光は答えられず、侯景の部下田遷の射撃で馬を射抜かれ、さらに矢を受けて退いた。張恃顕は捕らえられたが、のち解放された。
  • 慕容紹宗は、今どうだ、まだ自分を責めるかと斛律光に言った。
  • 一方、段韶は渦水を挟んで陣し、ひそかに上風側から火を放った。侯景は騎兵を率いて水中へ入り、出て後退したため、草が湿って火は燃え広がらなかった。胡三省は、斛律光の勇や段韶の知略はいずれも不首尾に終わったが、東魏の士気はなお衰えていなかったため、慕容紹宗はその後の機会を捉えてついに成功したのだ、と戦局を総括している。

西魏の善政と侯景の窮迫

  • 西魏の岐州は長く戦乱に苦しんでいたが、刺史鄭穆が赴任した当初三千戸だったところを、撫育安定に努めた結果、数年で四万余戸にまで増やした。考課は諸州第一とされ、宇文泰は彼を京兆尹に抜擢した。
  • 侯景は慕容紹宗と数か月にわたり対峙したが、ついに兵糧が尽き、司馬世雲は慕容紹宗へ降伏した。侯景の破綻の形勢はここで決定的となった。