資治通鑑梁紀十四 高祖武皇帝 大同 九年 543年

東魏武定改元と高仲密の叛乱

  • 正月壬戌、東魏は大赦し、元号を武定に改めた。
  • 東魏の御史中尉・高仲密は、かつて吏部郎・崔暹の妹を妻にしたが、のちに離縁したため崔暹と不和になった。
  • 高仲密は御史の人選に親戚や郷党を多く用い、高澄が改選を命じると、崔暹が自分を陥れようとしていると疑って恨みを深めた。
  • 後妻の李氏は美貌と才知を備え、高澄がこれを見て悦び、迫ったが拒まれた。李氏は衣を裂かれたことを高仲密に告げ、高仲密はいよいよ高澄を怨んだ。
  • やがて高仲密は北豫州刺史として虎牢に出されると、密かに叛意を固めた。高歓は疑って奚寿興を派遣し軍事を監督させたが、高仲密は酒宴の席で壮士に奚寿興を捕らえさせた。
  • 二月壬申、高仲密は虎牢をもって西魏に降り、西魏は彼を侍中・司徒とした。

高歓・高澄父子と崔暹

  • 高歓は高仲密の叛乱の原因が崔暹にあるとして殺そうとしたが、高澄は崔暹を匿って必死に助命した。
  • 高歓は「命だけは乞うてやるが、痛い目には遭わせる」と言い、高澄は陳元康に崔暹が杖刑を受けないよう取りなさせた。
  • 陳元康は「いま天下を大将軍に託そうとするのに、大将軍が崔暹一人すら守れないのでは他人はどう思うか」と高歓を諫め、崔暹は救われた。
  • 永安戍にいた高季式は、高仲密の密書を受け取るとすぐ高歓に知らせ、高歓は旧情に変わらぬ待遇で迎えた。

河橋・邙山の大戦

  • 西魏の宇文泰は高仲密に呼応して諸軍を率いて出征し、李遠を前駆として洛陽に至り、于謹に柏谷を攻略させて落とした。
  • 三月壬申、西魏軍は河橋南城を包囲した。
  • 高歓は十万の兵を率いて黄河北岸に到着し、宇文泰は瀍水上流から火船を流して河橋を焼こうとした。
  • しかし東魏の斛律金は張亮に小艇百余を与え、長鎖で火船を留めて岸へ引き寄せ、橋を守り切った。
  • 高歓は渡河して邙山に拠り、数日進まなかった。宇文泰は輜重を瀍曲に置き、夜に邙山へ登って奇襲を図った。
  • 斥候が「賊は四十里余り先で朝食も簡素にして急行している」と告げると、高歓は「そのうち渇ききる」と言い、正面陣を整えて待った。
  • 戊申の黎明、両軍は遭遇した。東魏の彭楽が数千騎で右翼をなして西魏軍北端を突き崩し、そのまま西魏営に突入したため、一時は叛いたと誤報されて高歓も怒った。
  • だがやがて勝報が届き、彭楽は西魏の王侯・将帥ら多数を捕えた。東魏軍は優勢となり、西魏を大破、三万余の首級を挙げた。
  • 高歓は彭楽に宇文泰の追撃を命じた。彭楽が窮地の宇文泰に迫ると、宇文泰は「今日ここで私が死ねば、明日お前も生きてはいまい。早く帰って戦利品を収めよ」と言いくるめた。彭楽は金帯一袋だけ奪って帰り、高歓に報告した。
  • 高歓は勝利を喜びつつ宇文泰を逃がしたことに激怒し、彭楽を地に伏せさせて頭を打ち、刃を振り上げて何度も斬ろうとした。彭楽が「五千騎あればまた取りに行ける」と言っても怒りは収まらず、絹三千匹をその背に積んで賜った。
  • 翌日再戦すると、西魏は中軍を宇文泰、左軍を趙貴、右軍を若于恵らが率いたが、東魏軍がこれを大破した。高歓は馬を失ったものの、赫連陽順が馬を差し出して逃がした。
  • 尉興慶は矢を百本帯びて殿を務め、戦死した。高歓は事が済めば懐州刺史にすると約していた。
  • 西魏側の賀抜勝は高歓を戦列の中に見つけ、十三騎で槊を持って追撃したが、あと一歩で逃した。劉洪徽・段韶の射撃で足止めされ、高歓は辛うじて脱出した。
  • 耿令貴もただ一人で敵中に何度も突入し、その前に立つ者が次々と斬られた。彼は「賊を除くためだからやむをえない」と語った。
  • ただし西魏の左軍五将が不利になったため東魏軍は息を吹き返し、宇文泰も再び戦って敗れ、日暮れとともに西へ退いた。
  • 独孤信・于謹は散兵をまとめて殿軍を攻撃し、西魏軍全体の壊滅だけは防いだ。
  • 若于恵は夜、下馬してまず食事をとらせてから旗と角を整えて徐々に退いたため、東魏軍は伏兵を疑って深入りできなかった。

高歓の進退と恒農防備

  • 宇文泰は関中へ入って渭上に駐屯した。
  • 高歓は陝まで進んだが、封子繪や陳元康は、今こそ大勝に乗じて関中へ進み、魏太祖が漢中勝利の後に蜀を取らなかった失敗を繰り返すなと説いた。
  • しかし諸将は、野に青草がなく人馬が疲弊しているため遠追いは危険とし、高歓も結局従わず、劉豊生に数千騎を率いさせて宇文泰を追わせたのみで、東へ帰った。
  • 宇文泰は王思政を玉壁から呼び寄せて虎牢に置こうとしたが、到着前に敗報が伝わったため、恒農防備を命じた。
  • 王思政は城に入ると門を開け、衣を解いて寝て見せ、将士を落ち着かせた。数日後、劉豊生が城下に来たが、王思政を恐れて攻めずに引き返した。
  • その後、王思政は城郭や楼櫓を修め、農地を開き、刍粟を蓄えて、恒農に本格的な守備体制を築いた。

西魏の褒賞と兵力拡充

  • 宇文泰は敗戦の責を負って自らの降格を願ったが、西魏の皇帝は許さなかった。
  • この戦いでは諸将の多くが目立った戦果を挙げられず、耿令貴・王胡仁・王文達が特に功を立てた。宇文泰は雍・岐・北雍三州をくじで分け与えようとし、あわせて彼らの名をそれぞれ豪・勇・傑に改めて功を顕彰した。
  • あわせて関隴の豪右を広く募って軍旅を増強した。

虎牢回復と高澄の私徳の乱れ

  • 高仲密は叛乱前に冀州の豪傑へも内応を呼びかけていたが、高隆之が急行して慰撫したため、大きな騒乱にはならなかった。
  • 高澄は高隆之へ、高仲密に従って西へ逃れた者の家族を没収して見せしめにせよと秘密裏に命じたが、高隆之は「すでに恩命で慰撫した以上、後から処罰すれば民に対する不信となる」として高歓に上申し、中止させた。
  • 夏四月、梁では謝挙が尚書僕射となった。
  • 清水氐の李鼠仁が西魏敗戦に乗じて反乱したが、趙昶が弁舌で諸酋長を説き伏せ、李鼠仁を帰順させた。梁道顕の叛乱も同様に鎮め、豪帥四千余を華州に移住させた。
  • 宇文泰は虎牢へ潜入させた間者に、守将・魏光へ堅守を命じる偽書を侯景に奪わせ、侯景は逆に「速やかに退け」と書き換えて放った。魏光はこれを信じて夜中に逃げ、侯景は高仲密の妻子を捕えて鄴へ送った。
  • こうして北豫州・洛州は再び東魏の支配に戻った。
  • 五月壬辰、東魏は虎牢奪回を祝い、高仲密の家だけは赦さず、他の死罪以下を減免した。
  • 高乾・高昻・高季式の功労により、高仲密一族の連座も軽減された。
  • 高仲密の妻・李氏は本来死罪だったが、高澄は盛装して彼女の前に現れ、ついに自分のものとした。
  • 乙未、侯景は司空となった。

年末の諸事

  • 秋七月、西魏は大赦し、王盟を太傅、広平王・元賛を司空とした。
  • 八月乙丑、東魏は斛律金を大司馬とした。
  • 東魏は李渾らを梁へ派遣した。
  • 冬十一月、東魏の君主は西山へ狩りに出て、乙巳に帰宮した。
  • 高澄は侍中辞任を願い、東魏主は弟の高洋にその職を代えさせた。
  • 高歓は肆州北山に長城を築き、西は馬陵、東は土墱まで延ばし、四十日で工事を終えた。
  • 西魏の諸牧守が宇文泰に謁すると、宇文泰は河北太守・裴侠だけを別に立たせ、「天下第一の清慎奉公の官だ」と称えた。群臣は誰もこれに匹敵すると言えず、裴侠は「独立君」と呼ばれた。