資治通鑑梁紀十四 高祖武皇帝 大同 五年 539年
正月・梁朝の人事
- 正月乙卯、尚書左僕射・蕭淵藻が中衛将軍となり、丹陽尹・何敬容が尚書令、吏部尚書・張纘が僕射となった。
- 張纘は張弘策の子であった。
- 晋宋以来、宰相は文雅をもって自らを高く保つのが通例だったが、何敬容だけは文飾よりも実務を重んじ、日暮れまで休まず簿書にあたったため、当時の風潮からは俗吏として軽んじられた。
- 徐勉・周捨の死後、外朝では何敬容、内省では朱异が権勢をふるった。
- 何敬容は質朴で統治秩序の維持を自任したのに対し、朱异は帝意をうかがって取り入り、三十年にわたり賄賂を広く受け、耳目を欺いた。邸宅・調度・飲食・音楽女色はいずれも当時きわめて華美で、休暇の日にはその屋敷に車馬がひしめいた。王承・王稚・褚翔だけは通わなかった。
郊祀と東西両魏
- 丁巳、御史中丞で礼儀を司った賀琛は、南北郊および籍田への往還には輦を用い、車輅は用いないよう奏請し、認められた。宗廟祭祀では引き続き玉輦を用いることとなった。
- 辛酉、東魏は孫騰を司徒とした。
- 辛未、梁の武帝は南郊を祭った。
- 西魏の宇文泰は行台に学校を置き、丞郎・府佐のうち徳行と聡明さに秀でた者を学生とした。昼は政務に当たり、夕方に学習させたため、実務と経伝の照応を通じて学問を進めさせた。
東魏の施政と西魏皇后
- 東魏の高歓は、徐州刺史・房謨、広平太守・羊敦、広宗太守・竇瑗、平原太守・許惇らの清廉で有能な治績を称える書を諸刺史に送り、地方官を励ました。
- 夏五月、東魏は高歓の娘を皇后に立て、翌日大赦した。
- 西魏は李弼を司空に任じた。
- 秋七月、扶風王・元孚が太尉となった。
- 九月、東魏は畿内から十万人を徴発して鄴城を拡張し、四十日で工事を終えた。
- 冬十月、新宮完成により東魏は大赦し、元号を興和に改めた。
- 西魏は陽武門外に紙筆を置き、政治の得失を自由に上書させた。
暦法・州制・東西の制度整備
- 十一月、東魏は王元景・魏収を梁へ派遣した。
- 東魏では正光暦の誤差が大きくなっていたため、校書郎・李業興に改修を命じ、甲子を元とする興光暦を作って施行した。
- 梁では朱异が、州の数が増えすぎて規模の大小が不揃いになったとして、州を五等級に分ける案を奏上し、採用された。
- 上位二十州、次位十州、その次八州、さらに二十三州、下位二十一州と定められたが、南方・西方の開拓や異民族地域の編入に伴い、実際には土地を持たず名目だけの州も多かった。
- 辺境の鎮戍では、兵の数は少なくても将帥の地位を重く見せるため郡を多く立て、一人が二、三郡を兼ねることもあった。その結果、州郡は増えても戸口は減少し続けた。
- 西魏では、西遷以来失われていた礼楽制度を、周恵達・唐瑾らに命じて旧制を取捨しながら整備させ、このころからようやく形を備え始めた。