資治通鑑梁紀十三 高祖武皇帝 大同二年 536年

正月:東魏の夏州急襲

  • 春正月、西魏は南郊を祭り、配祀を神元皇帝に改めた。
  • 甲子、東魏の高歓は自ら一万騎を率いて西魏の夏州を急襲した。四日間火を起こして食事する余裕もないほどの強行軍で、城には矟を束ねて梯子とし、夜襲で入り込んだ。
  • 刺史・斛抜俄弥突を捕らえたが、そのまま任用し、都督張瓊に守備を任せ、部落五千戸を移して東魏へ連れ帰った。

曹泥・劉豊の再叛

  • 西魏の霊州刺史・曹泥は、その婿で涼州刺史の普楽劉豊とともに再び反乱を起こし、東魏へ降った。
  • 西魏軍は城を囲み、水攻めしたが、城上に四尺ほど水没しないところが残った。
  • 高歓は阿至羅三万騎を動かして霊州へ向かい、西魏軍の背後へ回り込んだ。西魏軍は撤退し、高歓は曹泥・劉豊を迎え出し、残った五千戸も引き抜いて帰還した。
  • 劉豊は南汾州刺史に任じられた。

梁の皇基寺造営と冤罪事件

  • 梁の武帝は、父の文皇帝のために皇基寺を建立しようとし、良材を広く求めた。
  • 曲阿の弘氏が湘州で巨木を買い集めて東へ運んでくると、南津校尉・孟少卿は武帝に媚びようとして、弘氏を強盗と偽って殺し、材木を没収して寺に充てた。

二月:梁の籍田、そして高澄の入朝

  • 二月、梁の武帝は籍田を耕した。
  • 東魏の渤海世子・高澄は十五歳で大行台・并州刺史だったが、鄴に入って朝政を補佐したいと願い出た。
  • 高歓は当初許さなかったが、主簿の孫搴が取りなしたため、丁酉に高澄は尚書令・領軍・京畿大都督として入朝した。
  • 当初は若年を理由に軽く見られたが、実際には法の運用が厳格で事務処理も迅速であり、朝廷の内外を震えさせた。
  • 崔暹を左丞・吏部郎として抜擢し、側近として重用した。

孫搴の死と魏収・陳元康の登用

  • 司馬子如と高季式が孫搴を招いて酒宴を開いたところ、孫搴は大いに酔ってそのまま死んだ。
  • 高歓はみずから弔問し、司馬子如に代わる人材を求められると、まず魏収が推されて主簿となった。魏収は魏子建の子である。
  • のち高歓は、文書処理に物足りなさを感じ、さらに陳元康を召して大丞相功曹に任じ、機密を掌らせた。
  • 陳元康は軍国多事の中で記憶力と事務能力を発揮し、趙彦深とともに「陳趙」と称された。高歓は特に陳元康を深く信任した。

三月:陶弘景の死

  • 三月、丹陽の陶弘景が死んだ。
  • 博学多芸で養生術にも通じ、もとは南斉に仕えて奉朝請となったが、官を辞して茅山に隠れた。
  • 梁の武帝とは早くから親交があり、即位後も礼遇は厚かった。国家の吉凶・用兵などの大事には、必ずまず意見を求め、一月のうちに何度も使者が往復したため、人々は彼を「山中宰相」と呼んだ。
  • 臨終に際して、清談ばかりで武備を失った世相を憂える詩を残した。胡三省は、後の侯景の乱がその言葉どおりになったと見る。

四月・五月:梁と東西魏の人事、諫言

  • 四月、梁は元法僧を太尉とした。
  • 尚書右丞・江子四はたびたび上封事して政治の得失を論じた。
  • 五月、武帝は「宮中の雨漏りは上にあっても、それを知るのは下にいる者だ」として、江子四らの奏上を受けて、民を害する問題を速やかに調査・是正するよう命じた。
  • 同月、東魏の高盛が死去し、西魏の越勒肱も死去した。

万俟普らの東魏奔赴

  • 西魏の秦州刺史・万俟普は、その子で太宰の万俟洛、豳州刺史・叱千宝楽、右衛将軍・破六韓常ら三百人とともに東魏へ奔った。
  • 宇文泰は軽騎で千里余り追ったが及ばず、引き返した。

七月:賀抜勝らの帰北

  • 梁は西魏から来た降将の賀抜勝らを厚遇していたが、勝らは北帰を望んだ。
  • 史寧は賀抜勝に対し、梁朝では朱异の発言力が強いから、十分に結んでおくべきだと勧めた。勝はその助言に従った。
  • 梁の武帝は賀抜勝・史寧・盧柔らの帰国を許し、自ら南苑で見送った。賀抜勝は梁への恩義を忘れず、その後は南を向いた禽獣を見ても射なかったという。
  • 一行は襄城まで来たところで、東魏の侯景が軽騎で遮断しようとしたため、船を捨てて山道から逃れ、多くの従者が凍え飢えて死んだ。
  • 長安に着くと、賀抜勝らは謝罪したが、西魏文帝は「天子流離は天命であって、おまえの罪ではない」と慰めた。
  • 宇文泰は盧柔を従事中郎に任じ、蘇綽とともに機密をつかさどらせた。

九月〜十月:東魏の南侵と梁の撃退

  • 九月、東魏は侯景を兼尚書右僕射・南道行台とし、諸軍を督して侵攻させた。
  • 西魏では扶風王孚を司徒、斛斯椿を太傅とした。
  • 十月、梁は大挙して東魏を討とうとした。
  • しかし東魏の侯景が兵七万で楚州に侵入し、刺史の桓和を捕えた。さらに淮水方面へ進んだが、南北司二州刺史の陳慶之がこれを破り、侯景は輜重を捨てて逃げた。
  • 十一月、梁は北伐軍を解散した。

西魏の祖廟改称と東魏の講和申し入れ

  • 十一月、西魏は始祖神元皇帝を再び太祖、道武皇帝を烈祖と改めた。
  • 十二月、東魏では并州刺史・尉景を太保とした。
  • 壬申、東魏が使者を送って梁に講和を求め、梁はこれを許した。

清河王元亶の死と東魏の再西征

  • 東魏の清河文宣王・元亶が死去した。毒殺説もあったが、史料上は薨去として扱われている。
  • 丁丑、高歓は諸軍を率いて西魏を攻め、高敖曹を上洛方面、竇泰を潼関方面へ進めた。
  • 癸未、東魏は咸陽王坦を太師とした。
  • この年、西魏の関中は大飢饉となり、人肉食が横行した。