資治通鑑梁紀十三 高祖武皇帝 大同三年 537年

正月:宇文泰の奇策と小関出撃

  • 春正月、梁の武帝は南郊を祀って大赦した。
  • 東魏の高歓は蒲坂に軍を進め、三つの浮橋を造って黄河を渡る構えを見せた。
  • 西魏の宇文泰は広陽に軍を置き、これは三方面から自軍を牽制し、竇泰を西へ入れようとする策だと見抜いた。
  • 諸将の多くは近くの敵を捨てて遠くの竇泰を襲う危険を説いたが、宇文泰は、高歓がこれまで潼関を二度攻めても自軍が灞上から出なかったことを踏まえ、今回も西魏が守勢に回ると高歓は油断していると判断した。
  • 蘇綽・達奚武も賛成し、族子の宇文深も、軽兵で小関から潜出して竇泰の躁急さを衝くべきだと進言した。宇文泰はこれを「我が心と同じ」と喜び、隴右防衛を装ってひそかに東進した。

竇泰の敗死

  • 癸丑の朝、宇文泰軍は小関に至った。竇泰は急報を受け、風陵から馬牧沢へ出て迎撃した。
  • 宇文泰はこれを大破し、竇泰は自殺した。首は長安へ送られた。
  • 高歓は黄河の氷が薄く、救援に赴けなかったため、浮橋を壊して退いた。
  • 殿軍を務めた薛孤延は、一日に十五太刀を受けてやっと命を全うしたという。
  • 宇文泰も軍を引き揚げた。本文であえて「丞相泰」と記しているのは、東魏側の竇泰と区別するためである。

高敖曹の上洛攻略

  • 高敖曹は商山方面で転戦しながら進み、上洛を攻めた。
  • 郡人の泉岳・泉猛略兄弟と、順陽人の杜窋らは内応を謀ったが、洛州刺史・泉企が察知して泉兄弟を殺し、杜窋は高敖曹のもとへ逃れた。
  • 高敖曹は杜窋を郷導として攻城し、流れ矢を三本受けるほどの重傷を負いながらも戦い続け、ついに城を落とした。
  • 泉企は「力が尽きただけで、心服したのではない」と言い、高敖曹は杜窋を洛州刺史に据えた。
  • 高敖曹は傷が重く、弟の高季式に刺史をやらせたいと言ったところ、高歓はただちに高季式を済州刺史に任じた。
  • その後、高敖曹は藍田関へ入りたかったが、高歓は竇泰敗死後の動揺を理由に撤退を命じた。
  • 高敖曹は兵を見捨てず戦って全軍を率いて帰還し、泉企とその子・元礼を伴った。
  • 途中で元礼は父の密命に従って逃亡し、弟の仲遵とともに土豪を結集して杜窋を殺し、西魏は元礼に洛州刺史職を世襲させた。

二月〜三月:梁・東西魏の政務

  • 二月、梁の武帝は籍田を耕した。
  • 梁では何敬容を中権将軍、蕭淵藻を左僕射、謝挙を右光禄大夫とした。
  • 西魏では槐里で神璽が見つかったとして大赦した。
  • 三月、東魏は七帝の神主を新廟へ遷し、大赦した。
  • 同月、西魏の斛斯椿が死んだ。胡三省は、彼は爾朱氏と高歓の間で智略を振るったが、関中に入って宇文泰と並ぶ立場になると、実権がなく、その才略も振るえなかったと評する。

五月〜六月:西魏の昇進と高歓の瑞石

  • 五月、西魏は広陵王欣を太宰、賀抜勝を太師とした。
  • 六月には扶風王孚を太保、梁景叡を太傅、広平王贊を太尉、武川王盟を司空とした。
  • 同じころ、高歓は汾陽の天池で、自然の文様が「六王三川」と読める奇石を得た。
  • 陽休之は「六」は大王の字にあたり、「三川」は河洛伊、あるいは関中の涇・渭・洛を指し、大王が天下、ひいては関洛を有する瑞兆だと解した。
  • 高歓は、世間が自分を反逆者だと騒ぐのに、こんなことを聞けばなおさら疑われるとして、口外を厳禁した。
  • 杜弼が折にふれて受禅を勧めると、高歓は杖で追い払った。胡注は、高歓の志は曹操の「周文王たらん」と似たもので、すぐに魏を奪う意図ではなかったと見る。

東魏使節の来梁

  • 東魏は兼散騎常侍・李諧を梁へ派遣し、盧元明・李業興を副使とした。
  • 秋七月、李諧らが建康に着くと、梁武帝は引見して問答し、その応対の流麗さに感服した。
  • 武帝は退出する彼らを見送りながら、左右に「今日やっと強敵に会った。北方には人材がいないとお前たちは言っていたが、彼らはどこから出てきたのか」と語った。
  • 当時、鄴で風流を称されたのは李諧・李神儁・盧元明・王元景・楊遵彦・崔贍らであった。
  • 南北通好の時代であったため、両国とも優秀な人物を使者・接伴に立て、人材の盛衰を競った。梁使が鄴に来れば都人が群がって見物し、東魏使が建康に来た場合も同様だった。

独孤信・楊忠の帰北

  • 独孤信は北へ帰ることを願い出た。父母は山東にいたが、彼は「君に仕える者は私親を顧みて二心を抱くべきではない」と答えた。
  • 梁の武帝はその義を認めて厚く礼送した。
  • 独孤信も楊忠も長安に至って謝罪し、西魏は独孤信に三荊平定の功を認めて驃騎大将軍・侍中・開府儀同三司を加え、旧官爵も保持させた。
  • 宇文泰は楊忠の勇を愛して帳下に留めた。

八月:恒農攻略と河東諸城の帰附

  • 宇文深は宇文泰に恒農を取るべきだと勧めた。
  • 八月丁丑、宇文泰は李弼ら十二将を率いて東魏を攻め、于謹を前鋒として盤豆を落とし、ついで戊子に恒農へ至り、庚寅これを陥として陜州刺史・李徽伯を捕えた。
  • 左丞の楊檦は、自分の父がかつて邵郡白水令だった縁を生かして現地豪傑を説得したいと願い出た。宇文泰はこれを許し、楊檦は王覆憐ら土豪とともに邵郡を挙げて帰順させた。
  • さらに東魏の諸城・堡塁にも密使を送り、一月ほどで多くが西魏に靡いた。
  • 東魏の司馬恭は正平に拠ったが、裴邃が攻めると葉城へ逃走し、宇文泰は楊檦に正平郡事を行わせた。

長干寺阿育王塔の舎利顕現

  • 梁の武帝は長干寺の阿育王塔を修造させ、その際、仏の爪・髪・舎利が出現したとされた。
  • 辛卯、武帝は寺へ行幸して無礙会を開き、大赦した。
  • 胡注は、阿育王塔の由来、慧達が長干里で舎利を発見した故事、今回の掘出物の形状や色、舎利・爪・髪の容器構造に至るまで、きわめて詳しく記している。

九月:柔然侵攻と高歓の施政論

  • 九月、柔然は西魏のために東魏の三堆を侵した。高歓がこれを撃つと、柔然は退いた。
  • 行台郎中の杜弼は、文武百官の貪汚を正すべきだと高歓に求めた。
  • 高歓は、今は関西の宇文泰が人心を誘い、また江東には礼楽を重んじる梁武帝がいて中原士大夫の憧れを集めているため、厳しく綱紀を正せば勲将は西へ、士人は南へ流れ、国家が立ちゆかなくなると説いた。少し待て、自分も忘れてはいないというのである。
  • また出兵前にも杜弼が「まず内なる賊を除くべきだ」と言うと、高歓は武装兵を道の左右に並べて彼を通らせ、恐怖に震える杜弼に対し、戦場を潜り抜けた勲臣を平人と同列に論じるなと諭した。

高歓の鮮卑・漢人統御術

  • 高歓は軍中で、鮮卑には「漢民はお前たちのために耕し織っているのだから虐げるな」と言い、漢人には「鮮卑はお前たちの客分で、賊を防いで安寧を与えているのだから憎むな」と説いた。
  • 胡三省は、夷夏を混用するなかで、高歓にはこれを撫御する術があったと評している。

高敖曹と諸将の不和

  • 鮮卑たちはおおむね漢人を軽んじたが、高敖曹だけは恐れられていた。高歓が軍に命令を下すとき、ふだんは鮮卑語でも、高敖曹が列しているときだけは漢語に言い換えた。
  • 上洛から戻った高敖曹は再び軍司大都督となり、七十六都督を統べた。
  • 高歓は侯景を西道大行台とし、高敖曹・任祥・劉貴・堯雄・万俟洛らとともに虎牢で兵を整えさせた。
  • その際、高敖曹は北豫州刺史・鄭厳祖と握槊に興じていて、劉貴の召しに応じず、使者を枷にかけてそのまま斬ってしまった。
  • 翌日には、河川工事で溺死者が多いとの報告に対し、劉貴が「一銭漢が死んだだけだ」と言ったため、高敖曹は激怒して刀で斬りかかり、劉貴は陣営へ逃げ帰った。
  • 高敖曹は兵を集めて攻めようとしたが、侯景・万俟洛がなだめてようやく収まった。
  • 高敖曹が相府へ行った際、門番に入場を拒まれると、弓で射たこともあったが、高歓はとがめなかった。

閏月:武陵王紀の出鎮

  • 閏月甲子、梁は武陵王紀を都督益・梁など十三州諸軍事・益州刺史とした。これは後の兄弟間争いの伏線となる。

十月:沙苑の戦い

  • 東魏の高歓は二十万を率いて壺口から蒲津へ向かい、高敖曹には河南道三万を与えた。
  • 西魏は関中飢饉のため兵が一万人に満たず、恒農に五十日余り糧を置いていたが、高歓が河を渡ると聞いて関中へ引き返した。
  • 高敖曹は恒農を包囲した。
  • 高歓の右長史・薛琡は、関中の飢えを利用して諸道を塞ぐだけで野戦を避け、麦秋になれば西魏は自然に飢え死ぬので、黄河は渡るべきでないと進言した。
  • 侯景は二軍に分けて前後相継がせるべきだとしたが、高歓は従わず、自ら蒲津を渡った。
  • 宇文泰は王羆に華州防衛を命じると、王羆は「老羆が道に伏しているのに、貉の子など通れるものか」と豪語した。
  • 高歓は馮翊城下で王羆に降伏を勧めたが、王羆は「この城は自分の墓だ。死にたい者は来い」と叫び、ついに高歓は攻略を諦めて洛水を渡り、許原西に布陣した。
  • 宇文泰は渭南に至り、未到着の諸州兵を待たず、三日分の糧だけを持たせて軽騎で渭水を渡らせ、自らは輜重を渭南から西へ沿わせた。
  • 壬辰、沙苑で両軍は六十里を隔てて対峙した。宇文深は、高歓は河北を固めるなら容易には倒せないが、今回は竇泰を失った怒りにまかせた遠征であり、「忿兵」であるから一戦で擒にできると論じた。
  • 宇文泰は達奚武を偵察に出し、武は敵兵の服装に紛れて夜警を装い、軍号や陣情を探り尽くして帰った。
  • 癸巳、高歓が会戦に出ると、李弼は「平地では敵わない。東十里の渭曲を先に占めるべきだ」と進言した。宇文泰はこれに従い、背水の陣を敷き、李弼を右拒、趙貴を左拒とした。葦の中に兵器を伏せ、鼓声で一斉に起つよう命じた。
  • 晡時、東魏兵が渭曲に至ると、斛律羌挙は、葦深く泥濘で戦いにくいから長安を衝くべきだと提案したが、高歓は侯景らの強気もあってそのまま戦わせた。
  • 東魏兵は西魏兵の少なさを見て争って突進し、隊列を失った。
  • 両軍が交わると宇文泰は鼓を鳴らし、于謹ら六軍が正面から戦い、李弼は鉄騎で横撃した。東魏軍は真っ二つに分断され、大敗した。
  • 李弼の弟・楊檦は小柄ながら勇猛で、敵は「この小児を避けよ」と叫んだ。耿令貴は殺傷があまりに多く甲裳が血で真っ赤になった。
  • 彭楽は酒に酔って深く突入し、腹を刺されて腸が出たが、それを押し込んでさらに戦った。
  • 高歓は再戦のため点呼を命じたが、営中は空で、兵は散っていた。
  • 斛律金が「もう兵は用をなさない、早く河東へ」と勧め、鞭で馬を打ってようやく高歓を退かせた。
  • 高歓は夜に黄河を渡り、船が遠かったため、槖駝にまたがって船へ移る始末だった。
  • 東魏は甲士八万人を失い、鎧仗十八万を捨てた。
  • 宇文泰は黄河畔まで追ったが、李穆の「今なら高歓を捕えられる」との進言には従わず、主力を帰農させた。戦場には柳を植え、武功を記念した。
  • 侯景は、高歓に精騎二万を与えれば長安を直撃できると願い出たが、婁妃は、景が功を立てれば返ってこない、宇文泰を失っても侯景を失うのは損だと止め、高歓も取りやめた。
  • 西魏では宇文泰を柱国大将軍に進め、李弼ら十二将もそれぞれ爵位・食邑を増された。

洛陽・河東・河南の争奪

  • 高敖曹は高歓敗報を聞き、恒農の包囲を解いて洛陽へ退いた。
  • 己酉、西魏の宮景寿らが洛陽へ向かったが、東魏の韓賢に敗れた。韓賢はその後、州民韓木蘭の乱を平定したものの、戦死者の遺体を検分中に潜んでいた賊に足を断たれて死んだ。
  • 西魏は再び馮翊王季海・独孤信に歩騎二万を与えて洛陽へ、高李顕には三荊方面へ、賀抜勝・李弼には蒲坂方面へ進ませた。
  • 高歓の西征中、蒲坂の敬珍は族兄の敬祥に、高歓には逐君の罪があり、帰路を断つのは千載一遇だと説いて挙兵した。
  • 沙苑敗戦後、敬祥・敬珍は高歓軍を邀撃して多くを斬獲し、その後、猗氏など六県十余万戸を率いて西魏に帰附した。宇文泰は敬珍を平陽太守、敬祥を行台郎中とした。

蒲坂開城と河東平定

  • 東魏の蒲坂守将・薛崇礼に対し、族弟の薛善は、高歓には君を逐った罪があり、国恩を受けた自分たちがなお固守すれば城陥後に逆賊として辱めを受けると説いた。
  • 薛崇礼が決断できないでいるうちに、薛善は一族とともに関門を斬って西魏軍を入れた。崇礼は逃げたが捕らえられた。
  • 宇文泰は蒲坂へ進み、汾・絳一帯をあらかた平定した。
  • 開城に与った薛氏の者には爵位が賜られたが、薛善と弟の薛慎は、逆を離れて順に帰すのは臣子の常道であって恩賞を受けるべきではないとして、固辞した。
  • 東魏の晋州担当・封祖業は城を棄てて逃げたが、薛脩義が洪洞まで追って守城を勧めた。祖業は応じず、薛脩義は晋州に戻って防備を固めた。
  • 西魏の長孫子彦が来攻すると、薛脩義は門を開いて伏兵を置き、虚実を測れない子彦を退かせた。
  • 高歓は薛脩義を晋州刺史とした。河東の諸薛はそれぞれ東西両陣営に分かれて働いた。

独孤信の洛陽進出と河南の帰附

  • 独孤信が新安に至ると、高敖曹は黄河を北へ渡った。
  • 独孤信は洛陽に迫り、東魏の洛州刺史・広陽王湛は城を棄てて鄴へ逃げたため、独孤信は金墉城を占拠した。
  • 孝武帝西遷の際、裴寛は弟たちに「天子が西にある以上、自分は東へ高氏に附くべきではない」と語って大石嶺に逃れていたが、独孤信が洛陽に入ると姿を現した。
  • 当時の洛陽は荒廃し、人々は離散しており、名士では柳虯が陽城、裴諏之が潁川にいただけだった。独孤信は二人を徴して、柳虯を行台郎中、裴諏之を開府属とした。
  • 東魏の潁州長史・賀若統は刺史の田迄を捕えて城を挙げ、西魏へ降った。西魏都督・梁迴がそこに入った。
  • また鄭偉は陳留で挙兵し、東魏梁州刺史・鹿永吉を捕え、崔彦穆は滎陽を攻めて太守・蘇淑を捕えた。劉志とともに西魏へ降った。
  • 宇文泰は鄭偉を北徐州刺史、崔彦穆を滎陽太守とした。

十一月:潁川救援戦

  • 十一月、東魏の任祥は堯雄・趙育・是云宝らを率いて潁川を攻めた。
  • 宇文泰は宇文貴・怡峯に歩騎二千を授けて救援させた。
  • 宇文貴らが陽翟へ着くと、敵はすでに潁川城の三十里内に迫っており、しかも任祥が四万で続いていたため、諸将は交戦不利と見た。
  • しかし宇文貴は、敵は自軍を少数と見て油断しているから、先に潁川へ入り背城の陣を敷けば、意表を突いて必ず勝てると主張した。
  • 果たして堯雄らを大破し、趙育は降伏、士卒一万余を捕えたが、ことごとく解放した。
  • 任祥は敗報を聞いて進めず、宛陵に退いて守ったが、宇文貴・怡峯はさらに追撃して大敗させた。
  • 是云宝は自州の刺史・那椿を殺して州ごと西魏へ降り、宇文貴は開府儀同三司に進んだ。

韋孝寛の豫州攻略と外交

  • 杜陵の韋孝寛は東魏の豫州を攻め落とし、行台の馮邕を捕えた。韋孝寛は名を叔裕といい、字で通行した。
  • 丙子、東魏は万俟普を太尉とした。
  • また司農の張楽皐らが東魏へ聘使として赴いたが、本文には官名の脱落がある可能性を胡注が指摘している。

十二月:蓼塢敗戦と東荊州の守戦

  • 十二月、西魏の楊白駒は東魏の陽州刺史・段粲と蓼塢で戦って敗れた。
  • 西魏の荊州刺史・郭鸞は東魏の東荊州刺史・慕容儼を攻めたが、慕容儼は二百日余りにわたり昼夜防戦し、機を見て出撃して郭鸞を大破した。
  • 河南の諸州は多くが失われたが、東荊州だけは守り抜かれた。
  • 河間の邢磨納、范陽の盧仲礼・盧仲裕兄弟らは海辺で兵を挙げ、西魏に呼応した。

高季式の私兵討賊

  • 東魏の済州刺史・高季式は、部曲千余人と馬八百、鎧仗完備の私兵を有していた。
  • 濮陽の杜霊椿らが一万人近くを集めて盗賊となり、城を攻め野を掠めると、高季式は騎兵三百だけで一戦してこれを捕らえた。
  • さらに陽平の路文徒らも撃ち、ことごとく平らげたため、遠近は粛清された。
  • ある者が、畿内の郡で賊は済州境を侵してもおらず、詔命もないのに私兵を遠征させて、もし敗れれば罪を得るだろうと言うと、高季式は、国家と安危を共にする身で賊を見て討たぬのは不忠だ、急襲して無備を衝けば必ず勝てる、と答えた。
  • たとえそれで罪を得ても悔いはないと述べた。