春:北魏の北辺反乱が拡大
- 春正月辛丑、北魏主は南郊で祭祀を行った。
- 三月、北魏は臨淮王彧に北討諸軍を統率させ、破六韓拔陵の討伐に当たらせた。
- 夏四月、高平鎮の民である赫連恩らが反乱を起こし、敕勒の首長胡琛を高平王に擁立して、高平鎮を攻め、破六韓拔陵に呼応した。北魏の盧祖遷はいったんこれを撃破し、胡琛は北へ逃れた。
懐朔・武川の危機と賀拔勝
- 衛可孤は懐朔鎮を長期にわたって包囲したが、外部からの救援は届かなかった。
- 楊鈞は賀拔勝を臨淮王彧のもとへ急報の使者として送り出した。賀拔勝は十数騎の決死隊を募り、夜陰にまぎれて包囲を突破した。追ってきた賊も、彼が賀拔氏の勇名ある人物だと知ると深追いしなかった。
- 賀拔勝は彧に、懐朔が陥ちれば武川も危険になり、賊の勢いは倍増して手が付けられなくなると説いた。彧は出兵を約した。
- 勝は再び包囲を破って帰城し、さらに武川の様子を探るよう命じられたが、すでに武川は陥落していた。急いで懐朔へ戻った時には、そこもまた潰滅しており、勝父子は衛可孤に捕らえられた。
五月:五原・白道で北魏軍敗北
- 五月、臨淮王彧は五原で破六韓拔陵と戦ったが敗れ、この敗戦の責任を問われて官爵を削られた。
- 安北将軍の隴西・李叔仁も白道で敗れた。
- 賊勢は日ごとに強まり、北魏主は群臣を顕陽殿に集めて対策を問うた。吏部尚書元修義は重臣を派遣して恒州・朔州方面を防衛すべきだと進言した。
- 北魏主は、前年に李崇が六鎮を州へ改める案を出したのに従わず、その後に反乱が起こったことを認めつつも、責任を曖昧にしたうえで、名望の高い李崇を再び派遣しようとした。
- 蕭宝寅らがこれに賛同し、李崇も老病を理由に辞退しつつ、恩に報いて罪を償うためならば北行すると述べたため、壬申、北討大都督に任じられた。崔暹・広陽王深もその指揮下に入った。
司馬光の評
- 司馬光は、李崇の「鎮を州に改める」建議は、災いを未然に防ぐ優れた策だったのに、北魏朝廷は採用せず、反乱後には逆に李崇へ責任を転嫁したと批判している。
- さらに『詩経』を引き、善言に耳を貸さず国を誤らせた君主の愚を嘆いている。
六月:梁の北伐開始と関中・隴右の動揺
- 六月、梁は豫州刺史裴邃に征討諸軍を統率させ、北魏への攻勢に出た。
- そのころ北魏では、破六韓拔陵の反乱以後、二夏・豳州・凉州でも群盗が蜂起していた。
- 秦州刺史李彦は苛酷な刑政で人心を失い、六月、薛珍らが州門を破って李彦を殺し、莫折大提を盟主として擁立した。大提は秦王を称し、北魏は元志を討伐に派遣した。
- また南秦州では、崔遊が豪族の楊松柏兄弟を降伏させた後、宴席で皆殺しにしたため、部内の人々はみな猜疑心を抱いた。李彦が殺されると、崔遊も自分の危うさを悟って逃げようとしたが果たせず、住民の張長命・韓祖香・孫掩らに殺され、城は莫折大提に呼応した。
- 莫折大提は配下の卜胡に高平を襲わせ、鎮将赫連略と行台高元栄を殺させた。
- まもなく大提が死ぬと、子の念生が天子を称し、百官を置き、天建と改元した。
秋七月:西方討伐の失敗と白道大敗
- 七月甲寅、北魏は元修義を西道行台として、諸将を率いて莫折念生討伐に当たらせた。
- だが北辺では、崔暹が李崇の命令に背いて白道で破六韓拔陵と戦い、大敗して単騎で逃げ帰った。
- そのため抜陵は全力で李崇を攻撃し、李崇は抗しきれず雲中へ退いて対峙するほかなかった。
- 広陽王深は、六鎮の人々が長く不公平な待遇を受けて不満を募らせ、しかも朝廷が辺境を軽んじ、賄賂政治が横行した結果が今回の反乱だと上奏した。さらに、李崇が早くから州への改制を求めたのは先見の明によるものだったのに、朝廷が認めなかったことを厳しく指摘した。
- しかし北魏主はこの上奏を深刻には受け止めなかった。
- 崔暹は召還されて廷尉に繋がれたが、賄賂によって重罰を免れた。
東益州・凉州・秀容など各地の乱
- 七月丁丑、莫折念生の都督楊伯年が仇鳩・河池の二戍を攻めたが、東益州刺史魏子建が伊祥らを派遣して撃破し、多数を斬った。
- 東益州では、住民の多くが勇敢で、しかも秦州・南秦州の反乱民と同族であったため、将佐たちは先に武器を取り上げるべきだと主張した。だが魏子建は、追い詰めれば内外で挟撃されるとしてこれを退け、慰撫と配置転換で離反を防いだ。
- 魏の凉州では、幢帥の于菩提らが刺史宋穎を拘束して州を挙げて叛いた。
- 八月庚寅、梁の成景雋は北魏の童城を奪った。
- 北魏では、李苗が上書して、隴右の賊は持久戦に弱いので、正面決戦を避け、別動隊で背後を衝くべきだと論じた。朝廷は彼を統軍として淳于誕とともに梁・益方面へ派遣した。
- しかしその間に莫折念生の弟・高陽王天生が隴へ進出し、甲午、元志は隴口で敗れ、岐州へ退いた。
- さらに東西の敕勒も相次いで破六韓拔陵に附いた。
六鎮改制と酈道元の派遣
- 丙申、北魏主はようやく李崇・広陽王深の意見を思い出し、州鎮の軍戸・貫籍のうち罪による配属でない者を民に戻し、六鎮を州へ改めた。懐朔鎮を朔州とし、旧朔州は雲州と改称した。
- さらに酈道元を大使として六鎮慰撫に派遣したが、すでに六鎮はほぼ全域が反乱状態で、実行できなかった。
- 当時、洛陽へ移住した代人が官途で冷遇されていたが、六鎮反乱が起こると、元乂は彼らを伝詔役などに用いて懐柔した。山偉が元乂を称える上申をしたため、元乂は彼を抜擢した。
爾朱栄の台頭
- 秀容では乞伏莫于が兵を集めて郡を攻め、太守を殺した。丁酉には南秀容の牧子・万于乞真が太僕卿陸延を殺した。
- 秀容の酋長である爾朱栄がこれを討って平定した。彼は爾朱羽健の子孫で、祖父代勤・父新興の代から部民の信望を集め、莫大な牧畜資源を有していた。
- 爾朱栄は英断と統率力にすぐれ、ひそかに大志を抱いて私財を散じ、勇士や豪傑を集めた。侯景・司馬子如・賈顕度・段栄・竇泰らも彼のもとに集まった。
秋:梁の淮南攻勢
- 戊戌、莫折念生の都督竇双が盤頭郡を攻めたが、魏子建が竇念祖を派遣して撃破した。
- 九月戊申、成景雋は睢陵を奪った。
- 戊午、北兖州刺史趙景悦が荆山を包囲した。
- 裴邃は騎兵三千で寿陽を奇襲し、壬戌の夜に関門を斬って突入し、外郭を攻略した。長孫稚がこれを防いで一日九戦したが、梁軍の後続蔡秀成が道に迷って到着せず、裴邃は退いた。
- 梁の別将は淮陽を攻め、北魏は酈道元・河間王琛に寿陽救援を命じ、安楽王鑒には淮陽救援を命じた。
- 西方討伐では、元修義が病により指揮不能となったため、壬申、蕭宝寅が西道行台大都督となって莫折念生討伐を引き継いだ。
- 凉州では宋穎が密かに吐谷渾王伏連籌へ援軍を求めた。伏連籌が自ら来援すると、于菩提は城を棄てて逃げ、斬られた。だが城民は再び宋穎を刺史に推した。
- 河間王琛が西硤石に進んで渦陽の包囲を解き、荆山も救った。青冀二州刺史王神念は琛に敗れた。
冬十月:梁軍の連勝と北魏の苦境
- 十月戊寅、裴邃と元樹は建陵城を落とし、辛巳には曲沭戍も奪った。
- 掃虜将軍彭宝孫は琅邪・亶丘を攻略し、裴邃も狄城・甕城を落として黎漿に進んだ。
- 壬寅、東海太守韋敬欣が司吾城をもって梁に降った。甲辰、曹世宗は曲陽と秦墟を攻略した。
- 北魏は盧同を営州へ派遣して就徳興を慰撫させたが、徳興は一度降ってまた叛き、盧同はたびたび敗れて帰還した。
- 朔方の胡族が反乱し、夏州刺史源子雍を包囲した。城内は食糧が尽き、馬皮を煮て食うほどであったが、将兵は離反しなかった。
- 子雍は糧を求めて東夏州へ向かおうとし、子の延伯に統万を守らせた。途中で胡帥曹阿各拔に捕えられたが、密かに城へ励ましの書を送った。
- 延伯は父の安否を案じつつも、公を優先して守城を続け、城内の士気を保った。子雍は捕虜となっても礼遇され、逆に胡人へ利害を説いて降伏を勧めた。阿各拔の死後、その弟桑生はついに子雍に従って降った。
- 子雍は北海王顥に賊を討てる見込みを具申し、兵を与えられて先鋒となった。九十日の間に数十戦して東夏州全域を平定し、統万へ糧を送って二夏を救った。
李崇の失脚と武川豪傑の活動
- 広陽王深は、六鎮も高車二部もすべて叛いている現状では決戦は不利であり、精鋭を選んで恒州の要害を守るべきだと上奏した。李崇もこれに同調して平城へ退いた。
- 李崇は、雲中は白道の要衝であり、ここを失えば并州・肆州も危ういとして、費穆を留めて守らせるよう求めた。
- 賀拔度拔父子と武川の宇文肱は郷里の豪傑を集め、衛可孤を襲って殺した。度拔はほどなく鉄勒との戦いで死んだ。宇文肱は宇文逸豆帰の末裔である。
- 李崇は国子博士祖瑩を長史に用いたが、広陽王深は祖瑩が首級を水増しし軍資を横領したと訴え、祖瑩は免職、李崇も罷免・削爵された。以後、広陽王深が軍政を専らにした。
十一月:岐州陥落、各地で反乱継続
- 十一月戊申、莫折天生が岐州を陥落させ、元志と刺史裴芬之を捕え、莫折念生のもとへ送り殺させた。
- 念生は卜胡らを涇州へ侵入させ、平凉東で薛巒を破った。
- 丙辰、彭宝孫は東莞を攻略した。壬戌、裴邃は寿陽近くの安城を攻め、丙寅には馬頭・安城が降った。
- 高平の人々は卜胡を殺して胡琛を迎えた。
- 北魏は楊昱を北海王顥の軍監として派遣し、豳州を救わせた。豳州の包囲は解かれた。
- 蜀賊の張映龍・姜神達が雍州を攻め、雍州刺史元修義は一昼夜で九通もの救援文書を送ったが、都督李叔仁は出兵をためらった。楊昱は長安が陥ちれば大軍は瓦解すると判断し、叔仁とともに進撃して姜神達を斬り、賊を散らした。
十二月:三関攻略と南秦方面の回復
- 十二月戊寅、荆山が北魏に降った。
- 壬辰、北魏は京兆王繼を太師・大将軍・西道都督として莫折念生討伐に当たらせた。
- 乙巳、梁の李国興は平靖関を攻め、楊乾は武陽関、さらに壬寅には峴関も奪った。李国興は郢州を包囲したが、裴詢と蠻酋の田朴特が協力して守り、北魏の援軍が到着すると梁軍は撤退した。
- 北魏の汾州でも諸胡が叛き、章武王融が討伐に当たった。
- 魏子建は南秦の諸氐を慰撫して次第に帰服させ、六郡十二戍を回復し、韓祖香を斬った。北魏は子建を兼尚書・行台としてそのまま東益州刺史に留め、梁州・巴州・益州・東益州・秦州・南秦州なども彼の節度下に置いた。
- 莫折念生は兵を凉州へ差し向け、趙天安は再び刺史を拘束して呼応した。
- この年、梁では侍中・太子詹事の周捨が罪により免職され、散騎常侍の朱异が機密を掌握した。軍事計画、人事異動、朝廷儀礼、詔勅まで彼が取り扱い、武帝はその文才・事務能力ゆえに重用した。