資治通鑑梁紀 高祖武皇帝 普通 元年 520年

改元と日食

  • 春正月乙亥朔、梁は元号を普通と改め、大赦を行った。
  • 丙子、日食があった。

梁の人事と馮道根の死

  • 己卯、臨川王宏を太尉、揚州刺史・金紫光禄大夫王份を尚書左僕射に任じた。王份は王奐の弟である。
  • 同日、左軍将軍・豫寧威伯馮道根が死去した。
  • 武帝はこの日に宗廟の春の祭祀を行っており、退出後に道根の死を聞くと、吉凶同日のため祭祀後でも問題ないかを朱异に問うた。朱异は、衛の献公が柳荘の死を聞いて祭服のまま弔問した故事を引き、道根も王室に功があるのだから臨喪すべきだと答えた。武帝はただちにその邸へ赴き、深く哀悼した。

高句麗への冊封使と北魏の拘束

  • 高句麗の世子・高安が使者を遣わして入貢した。
  • 二月癸丑、梁は高安を寧東将軍・高句麗王に封じた。
  • そこで江法盛を使者として衣冠・剣佩を授けさせようとしたが、北魏の光州兵が海上でこれを捕え、洛陽へ送った。

清河王懌と元乂・劉騰の対立

  • 北魏の太傅・侍中・清河王懌は、容貌も優れ、胡太后に寵愛されたが、才幹があり政務を補佐して多くを正したため、声望が高かった。
  • 侍中・領軍将軍元乂は、門下を押さえ禁兵も握っていたが、太后の寵を頼みに驕慢で、懌が法で抑えるたびに怨みを募らせた。
  • 衛将軍・儀同三司の劉騰も内外に権勢をふるい、吏部がその弟を郡守にしようとしたとき、懌が資序不当として差し止めたため、これもまた恨みを抱いた。

宋維の誣告と元乂の陰謀

  • 龍驤府長史宋維は宋弁の子で、懌の推薦で通直郎となったが、軽薄で徳行がなかった。元乂は富貴を約して宋維を抱き込み、司染都尉韓文殊父子が反乱を企て、懌を立てようとしていると告発させた。
  • 取り調べの結果、反逆の事実はなく懌は解放され、宋維は本来なら誣告の罪を受けるはずだった。
  • だが元乂は「今これを罰すれば、後に本当の反逆があっても誰も告発しなくなる」と太后に説き、宋維を昌平郡守へ左遷するだけで済ませた。
  • そのうえ元乂は、懌がやがて自分の障害になると恐れ、劉騰とひそかに結んでさらに大きな陰謀を進めた。

七月丙子の政変と清河王懌の死

  • 秋七月丙子、胡太后が嘉福殿にあり前殿へまだ出ていない時、元乂は幼帝を奉じて顕陽殿へ移し、劉騰は永巷の門を閉ざして太后を外へ出さなかった。
  • 懌が入ってくると、元乂は含章殿後でこれを迎え、懌が「お前は反乱か」と詰めると、元乂は「反逆者を縛ろうとしているだけだ」と言って宗士や直斎に懌を拘束させた。
  • 劉騰は詔と称して公卿を集め、懌が大逆だと議決させた。誰も元乂を恐れて異議を唱えず、ただ僕射游肇だけが強く不可を主張し、署名を拒んだ。
  • その夜、元乂と劉騰は議書を持って入り、まもなく帝の許可を得たとして、懌を殺害した。
  • あわせて太后の詔を偽造し、自分が病気なので政務を帝に返すと称して、太后を北宮宣光殿へ幽閉した。宮門は昼夜閉ざされ、内外の連絡も断たれ、帝さえ自由に会うことができなかった。
  • 太后は食膳も満足に与えられず、「虎を養ってついに自分を噛ませた」と嘆いた。
  • 元乂は中常侍賈粲に帝の側で書を扱わせ、密かにその言動を監視させた。
  • 以後、元乂は高陽王雍らとともに輔政の形を取りつつ、外は元乂、内は劉騰が分担して権力を専らにし、刑賞・政務は大小を問わず二人の裁断に帰した。百官は彼らを恐れて足跡を重ねるように慎み、朝野は懌の死に意気を失った。胡人の中には顔を切って泣いた者が数百人に上った。
  • 游肇も憤死した。

梁の水害と北魏の改元

  • 己卯、江・淮・海がいずれも氾濫した。
  • 辛卯、北魏の主は元服して大赦を行い、元号を正光と改めた。

元熙の挙兵と鎮圧

  • 北魏の相州刺史・中山王熙は、父の元英以来の名望があり、弟の元略・元纂とともに清河王懌に厚遇されていた。懌の死を聞いて鄴で兵を起こし、元乂と劉騰の誅殺を求める上表を出した。
  • 元纂は鄴へ逃れ、十日後、長史柳元章らが城人を率いて騒擾を起こし、熙の側近を殺し、熙・元纂および諸子を高楼に監禁した。
  • 八月甲寅、元乂は尚書左丞盧同を遣わして鄴の市中で熙とその子弟を斬らせた。
  • 熙は文雅と義気があり、死に臨んで、太后の恩に背くことができず、君親がこの有様では大義を立てずにいられなかったが、才力足らず捕えられた、各人は国と身のため名節を励めと、故知へ書き送った。人々はこれを哀れんだ。
  • 熙の首が洛陽へ届くと、旧友たちは恐れて見ようともしなかったが、刁整だけはその死体を収めて葬った。
  • 盧同は元乂の意を迎えて熙の党与を厳しく追及し、楊昱も百日に及ぶ取り調べを受けたのち、ようやく任所へ戻ることができた。

元略の南奔

  • 元略は河内の故人・司馬始賓のもとへ逃れ、始賓とともに葦筏で孟津を夜渡りして屯留の栗法光宅に至った。
  • その後は西河太守刁双のもとへ匿われ、長く潜伏したのち、ついに南朝へ奔った。梁は彼を中山王に封じた。
  • 元乂は刁整が元略を逃がしたと誣告し、その子弟ともども捕えたが、御史王基らの弁明で免れた。

韋叡の死

  • 甲子、梁の侍中・車騎将軍・永昌厳侯韋叡が死去した。
  • 当時は武帝の崇仏の影響で士民がこぞって仏教に傾いていたが、韋叡だけは大臣として俗に迎合せず、平生どおりに振る舞った。

柔然の内乱

  • 九月戊戌、北魏では高陽王雍を丞相とし、内外を総摂させて元乂とともに庶務を裁かせた。
  • 柔然では、伏跋可汗の妃・地万が左道をもって幼子祖惠を「天上から呼び戻した」と称し、可賀敦となって国政を乱した。
  • 成長した祖惠が、実はずっと地万の家にいただけで天には上っていないと母に語ったため、侯呂陵氏は伏跋へ真相を告げたが、伏跋は信じなかった。
  • 地万は逆に祖惠を讒言して殺し、これに怒った侯呂陵氏側が地万を殺害した。伏跋は報復を図ったが、阿至羅との戦いに敗れて帰ると、侯呂陵氏と大臣たちは伏跋を殺し、その弟阿那瓌を可汗に立てた。
  • しかし十日で族兄の示発が数万を率いて攻め、阿那瓌は敗れて弟乙居伐とともに北魏へ逃れた。示発は侯呂陵氏と阿那瓌の弟二人を殺した。

汝南王悦の阿諛と清河王の遺児虐待

  • 清河王懌が殺されても、汝南王悦は少しも元乂を恨まず、桑落酒を贈って機嫌を取った。
  • 冬十月乙卯、北魏は悦を侍中・太尉とした。
  • 悦は懌の子・元亶に対して遺品の服玩を要求し、思うように差し出させられないと、杖で百回打たせて死にかけさせた。

阿那瓌の入魏

  • 柔然の阿那瓌が北魏へ来ようとすると、魏主は京兆王継・崔光らを順次迎えに出し、厚く慰労した。
  • 阿那瓌は顕陽殿で引見され、宴席では親王の下に座を与えられた。退出間際に上啓して、自分は国難で逃れてきた、本国の臣民は散り散りになっているので、兵を借りて帰国し、叛逆者を討ち、残民を率いて魏に奉事したいと訴えた。中書舎人常景がこれを取り次いだ。

阿那瓌の待遇と四館四里

  • 十一月己亥、北魏は阿那瓌を朔方公・蠕蠕王に封じ、衣服・軺車・禄恤・儀衛を親王並みに与えた。
  • 当時の洛陽には、南朝からの帰降者を金陵館、北方からの帰降者を燕然館、東方を扶桑館、西方を崦嵫館に置き、それぞれ帰正里・帰徳里・慕化里・慕義里に住まわせる制度があった。阿那瓌も燕然館に処された。
  • 阿那瓌はたびたび帰国を求めたが、朝議はまとまらなかった。そこで元乂に金百斤を贈ると、帰還が認められた。
  • 十二月壬子、懐朔都督に精鋭騎兵二千を選んで護送させ、国境の情勢を見て対応するよう命じた。受け入れられるなら繒帛・車馬を与えて送還し、拒まれるなら朝廷へ戻すこととした。
  • 辛酉、北魏は京兆王継を司徒とした。
  • 同月、北魏は劉善明を梁へ聘問に遣わし、久しく絶えていた南北の通交が再開した。