正月の人事と南郊祭祀
- 春正月甲申、梁では袁昂を尚書令、王暕を尚書左僕射、徐勉を尚書右僕射に任じた。
- 丁亥、北魏の主は、胡太后が臨朝してから半年近く経つことを理由に、以後は太后の命令を「詔」と称して天下に行うよう命じた。
- 辛卯、梁の武帝は南郊で祭祀を行った。
北魏の選挙制度への反発と張彞父子の惨死
- 北魏では、征西将軍張彞の子・張仲瑀が上書し、官人選抜の基準を改めて、武人を清流の官途から排除するよう求めた。これに武人層が激しく反発し、都の巷には張家襲撃の呼びかけが公然と掲げられた。
- 張彞父子は危険を軽視したままで、朝廷も厳しく取り締まらなかったため、事態は収まらなかった。
- 二月庚午、 羽林・虎賁の兵およそ千人が尚書省に押しかけて暴れ、張仲瑀の兄・張始均を探したが見つからず、ついに張彞の邸へ乱入した。
- 彼らは張彞を堂下へ引きずり出して辱め、邸宅を焼き払った。張始均はいったん逃れたが父を助けようと戻り、賊に打ち据えられて生きたまま火中に投げ込まれた。張仲瑀は重傷を負いながら逃走し、張彞は二日後に死去した。
- 遠近は大いに震え、胡太后は主だった暴徒八人だけを斬ったが、その他は深く追及しなかった。
- さらに大赦を行い、武官にも資歴による登用を認めたため、見識ある者は北魏の乱れを予見した。
崔亮の「停年格」と北魏選挙の弊害
- 当時の北魏では官職が少ないのに候補者が多く、吏部尚書李韶の人事は進まなかった。そこで崔亮が吏部尚書となり、人物の賢愚を問わず、解褐後の経過月日だけで順番に任用する基準を定めた。長く滞っていた者たちはこれを歓迎した。
- 崔亮の甥・劉景安は、古来の推挙制度や中正制度にも長短はあったが、ただ年功だけを見るのは士人の徳行を損なうと諫めた。
- これに対し崔亮は、古今で情勢は異なり、弊害を救うには当面の便法が必要だと弁明した。
- 洛陽令の薛琡も、長吏の任用を年功だけで決めれば、一吏が名簿順に呼ぶだけで済み、銓衡の意味がなくなるとして、王公貴臣に郡県の賢者を推薦させるよう上書した。だが議論は立ち消えとなった。
- その後、甄琛ら後任の吏部尚書もこの方式を踏襲し、北魏の人材登用が失敗へ傾く出発点となった。
高歓の登場
- かつて後燕の高湖が北魏へ奔って以来、その子孫は北辺に住み、鮮卑の風俗に通じていた。高湖の孫・高歓は、沈着で大志がありながら家は貧しかった。
- 婁氏の富家の娘がその器量を見抜いて嫁ぎ、ようやく馬を得て、懐朔鎮の函使として洛陽へ行く機会を得た。
- そこで張彞の変を目の当たりにした高歓は、帰郷後に家財を傾けて人物結集に努めた。
- 彼は「宿衛の兵が大臣の家を焼き、朝廷は乱を恐れて罪を問わない。政治がこの有様では先が知れる。財貨を守っていて何になろうか」と語ったという。
- 高歓は司馬子如・劉貴・賈顕智・孫騰・侯景・尉景・蔡儁らと親しく交わり、みな郷里で任侠をもって鳴った。
北魏朝廷の奢侈
- 四月丁巳、梁で大赦があった。
- 五月戊戌、北魏は任城王澄を司徒、京兆王継を司空とした。
- 北魏は累代の強盛により東夷・西域の貢献が絶えず、互市によって南朝の物資も入り、府庫は満ちていた。
- 胡太后は絹蔵に行幸し、王公・嬪主ら従者に各自で絹を背負わせ、力に応じて持ち出させた。李崇や章武王融は重荷で倒れたのに、太后はその絹まで取り上げたので、世人はこれを笑った。
- 侍中崔光だけは二匹しか取らず、「自分の両手では二匹しか持てない」と答えて、周囲を恥じ入らせた。
- 宗室や近臣は競って豪奢を尽くし、高陽王雍は宮苑・僮僕・妓女・飲食の費用において一国随一であった。李崇も富はこれに匹敵したが倹約家で、自らの千日分が雍の一食に当たると言った。
- 河間王琛も雍と富を争い、銀の馬槽、玉鳳・金龍の装飾、水晶や瑪瑙・赤玉の酒器、女楽や名馬、府庫の財貨を並べて諸王に誇示した。
- 章武王融はそれまで自分より富む者は高陽王雍だけと思っていたが、琛の財勢を見て大いに落胆した。京兆王継はこれを袁術と劉備にたとえて笑わせた。
仏寺造営と財政悪化
- 胡太后は仏教を好み、寺院建立を際限なく進め、諸州にも五重塔を建てさせた。諸王・貴人・宦官・羽林までも洛陽に競って寺を建て、壮麗さを争った。
- 太后はしばしば大規模な斎会を開き、僧への施物や近臣への褒賞に巨費を投じたが、民衆への恩恵は乏しかった。府庫はしだいに空になり、百官の俸禄や役使いの経費まで削られるようになった。
- 任城王澄は、蕭衍が常に北方をうかがっているのだから、国力の充実している今こそ統一の戦略を立てるべきであり、そのためにも浮費を節して急務に当てるべきだと上表したが、太后は用いなかった。ただし礼遇だけは続けた。
- 永平以来、明堂・辟雍の工事が続いていたが、寺院建設などに人員を奪われて十年以上も完成しなかった。起部郎源子恭は、国家の根本事業を後回しにして不要不急の費用に充てていると批判し、工役を整理して明堂完成を急ぐよう求めた。詔はこれに従ったが、なお実現しなかった。
陳仲儒の律準論
- 北魏の陳仲儒は、京房の法に従って「準」を作り、八音を調える案を出した。官司が師承や典拠を問いただすと、彼は自ら琴を愛し、『続漢書』などから京房の術数を研究した結果だと述べた。
- 彼は、準は律管に代えて分数を取り、楽器の音高を校正するものだとし、宮商は濁く、徴羽は清くあるべきで、単純に十二律を巡らせるだけでは音曲が成り立たない場合があると論じた。
- また、旧説は準の構造や柱の使い方、中央弦の細さなどを明記しておらず、自身の試行から柱を用いるべきこと、中央弦に六十律の節を記すべきことなどを主張した。
- しかし尚書蕭宝寅は、師に学ばず軽々しく制作を企てるべきでないとして採用を認めず、この議は立ち消えとなった。
元匡と任城王澄
- 北魏の中尉・東平王匡は、論議のたびに任城王澄に押さえられることを恨み、かつての棺の一件を蒸し返して澄を攻撃しようとした。
- これに対し澄は匡の罪状三十余条を奏上し、廷尉は死刑相当とした。
- 秋八月己未、詔により死は免じられ、官爵を削られた上で、侯剛が代わって中尉を領した。
- 三公郎中辛雄は、匡は三朝に仕えて骨鯁で知られ、高祖から名を与えられたほどの人物だから、最後まで斥ければ忠臣の口を塞ぐことになると弁護した。まもなく匡は平州刺史に復帰した。
楊昱への讒言
- 九月庚寅朔、胡太后は嵩高へ遊び、癸巳に帰宮した。
- 太后は兼中書舎人楊昱に、外に出ている親族姻族に不適切な者がいないか、聞いたことがあれば隠すなと命じた。
- 楊昱は、揚州刺史李崇が五車もの財貨を運び、相州刺史楊鈞が銀製食器を造って領軍元乂へ贈ったことを奏上した。
- 太后は元乂夫妻を呼んで涙ながらに責め、これによって元乂は楊昱を怨むようになった。
- もともと楊昱の叔父・楊舒の妻が元氏で、武昌王和の妹だったが、楊家との不和があり、その怨みも重なっていた。
- その後、瀛州の民・劉宣明の謀反事件にかこつけて、元乂は和と元氏に楊昱を誣告させた。楊昱の父・楊椿と叔父・楊津まで武器を送って不逞を図ったと作り上げ、夜に御仗兵五百で楊昱宅を囲ませた。
- だが何も見つからず、太后が事情を聞くと、楊昱は元氏の怨恨によるものだと弁明した。太后は楊昱を釈放し、和と元氏を死刑に処そうとしたが、元乂が救い、和は免官にとどまり、元氏も罪に問われなかった。
年末の出来事
- 冬十二月癸丑、北魏の任城文宣王澄が死去した。
- 庚申、北魏で大赦があった。
- この年、高句麗王の高雲が死去し、世子の高安が立った。
- 北魏では郎官の選抜が不十分として大規模な整理が行われ、朱元旭・辛雄・羊深・源子恭・祖瑩ら八人だけが才用によって留められ、他は罷免された。