資治通鑑梁紀四 高祖武皇帝 天監十七年 十八年 518年
春 梁の近親と北魏の改元
- 正月甲子、北魏は氐の酋長楊定を陰平王に封じた。
- 北魏秦州では羌が反乱した。
- 二月癸巳、梁の安成康王蕭秀が死んだ。
- 蕭秀は武帝の布衣時代からの兄弟で、臣下となってからはむしろ疎遠な者以上に慎み深く仕えたので、武帝はいっそうこれを賢んだ。
- とくに弟の始興王憺と仲がよく、憺は荊州在任中、その俸禄を常に分けて秀に送り、秀も遠慮なく受け取っていた。
- 甲辰、梁では大赦。
- 己酉、北魏も大赦し、元号を神亀に改めた。
- 北魏東益州では氐が叛いた。
柔然との外交論争
- 北魏主は柔然使者を引見し、臣属国としての礼が不十分だと責め、漢が匈奴を遇した先例に照らして返使を送ることを議した。
- 司農少卿張倫は、道武帝以来の対柔然政策を踏まえれば、いま柔然に対等の礼で応じるのは祖宗の意に反すると論じた。
- やむをえず応じるにしても、まず上下の儀を示し、帰順の道を説き、恩威をもって段階的に処すべきだと進言したが、採用されなかった。
于忠・胡国珍の死
- 三月辛未、霊寿武敬公于忠が死んだ。
- 南秦州では氐が反乱し、北魏は崔襲を龍驤将軍・持節として派遣し、これを諭した。
- 四月丁酉、秦文宣公胡国珍が死んだ。北魏は黄鉞・相国・都督中外諸軍事・太師を贈り、「太上秦公」と号し、極めて手厚く葬った。
- さらに太后の母皇甫氏の柩を迎えて胡国珍と合葬し、「太上秦孝穆君」と呼んだ。
張普惠の正名・税制・政治諫争
- 諫議大夫張普惠は、前代にも后父を「太上」と称した例はなく、この名は人臣に施すべきでないと上疏したが、側近は誰も取り次がなかった。
- ちょうど墓壙を掘ると盤石に突き当たったため、普惠はこれを天の戒めと見て密表を上げた。天に二日なく土に二王なし、太上とは上に君あってこそ成立する名であり、皇太后が「令」で敕をつなぐのも三従の義に基づくものであるから、司徒に太上の号を与えるのは不当だと論じた。
- 太后は五品以上を集めて議論させ、諸王公は太后の意を迎えて普惠を責めたが、普惠はそのつど弁駁して屈しなかった。
- 太后は元乂を通じて、これは自分の孝子としての志と、普惠の忠臣としての道が衝突しているのだと述べ、今後も見たことは遠慮なく言うよう求めた。
- 太后は太上君のため永寧寺に匹敵する壮麗な寺を建てた。
- そのころ尚書は綿・麻の税を復活させようとしたが、張普惠は、孝文帝が斗・尺・秤を改めた際、民はその減免分で十分綿麻を負担できたのに、その後しだいに布絹の規格が大きくなって民怨が高まったのであり、問題は幅広・長尺の方にあると論じた。
- 倉庫には綿麻が多くあるのに不足するのは、群臣が絹布の長濶・重量超過分を私しているからで、まず尺秤を正し、放逸を禁じるべきだと主張した。
- さらに普惠は、北魏主が遊猟や苑囿を好み、朝政を軽んじ、仏法に傾き、郊廟を有司任せにしているとして痛切に諫めた。
- 僧寺の華美を減らし、百官の長く削られた俸秩を回復し、郊廟・朔望・釈奠・籍田を自ら重んじるべきだと説いた。
- その後、釈奠の礼を外議に付し、以後は毎月一度、皇帝が群臣に臨むようになるなど、普惠の言は一定程度採り入れられた。
- さらに普惠は時政の得失を上表し、太后と皇帝は宣光殿に引見して、案件ごとに質疑した。
臨川王宏の失脚と復帰
- 臨川王宏の妾の弟・呉法寿が殺人を犯し、宏の邸内に匿われた。
- 武帝が引き渡しを命じると、法寿はその日のうちに処刑された。有司は宏の免官を奏請し、武帝は「宏を愛するのは兄弟の私、免じるのは王者の公法」と注記してこれを許可した。
- 五月戊寅、司徒・驃騎大将軍・揚州刺史の臨川王宏は免官された。
- 宏は洛口の敗戦以来、常に恥辱を抱えており、都に変事があるたびに名を借りられて有司に奏されていたが、武帝は毎回赦していた。
- ある夜、武帝が光宅寺から出るところを宏の驃騎航で待ち伏せした盗が現れ、宏の差し金だと称したことがあった。武帝は涙ながらに、自分ほどの力量でも天下は重くて恐れるのに、お前に何ができるのか、自分は漢文帝のように弟を殺せなくもないが、お前が愚かだから許しているのだと諭した。
- 宏は奢侈・僭越が甚だしく、財貨を貪り、内堂の後ろに百近い倉屋を並べて厳重に閉ざしていたため、兵甲を隠しているとの密告があった。
- 武帝は友愛の情から不快に思いながらも、後日、宏の愛妾江氏への酒食を口実に自ら訪れ、丘佗卿だけを連れて奥を検視した。
- すると各室に百万銭ごと、千万銭ごとに標札をつけて積まれ、現金三億余万、さらに布・絹・綿・漆・蜜・紵・蝋など諸貨が満ちていた。
- 武帝は兵器ではなかったことに安堵し、「阿六、お前の身代はたいしたものだ」と言ってかえって酒宴を深め、その後兄弟の仲はむしろ厚くなった。
- 宏は都に数十の邸宅を持ち、貸金証文を担保に田宅を奪うことが常で、多くの民が生業を失っていた。武帝は後にこれを知り、期限到来による強制奪取を禁じた。
- 辛巳、宏は中軍将軍・中書監に任じられ、六月乙酉にはさらに本号のまま司徒を行った。
呉平侯昺と司馬光の評
- 侍中・領軍将軍の呉平侯昺は風力があり、武帝から重んじられ、軍国の大事は多く彼と相談された。
- 武帝は昺を安右将軍・監揚州としたが、昺は近親が京畿を治めるのは妥当でないとして泣いて辞退し、許されなかった。州政では明断と厳整で称えられた。
- 司馬光は、宏は将として軍を覆し、臣としては大逆に関わった人物であり、死罪を免じたのみで十分なのに、ほどなく三公へ復したのは兄弟恩愛としては厚いが、王法の所在を疑わせると論じる。
洛陽石経の荒廃
- 洛陽には後漢以来の三字石経があったが、戦乱を経てもさほど損なわれていなかった。
- ところが北魏では馮熙・常伯夫相次いで洛州刺史となった際、これを壊して仏塔や精舎の建材に用いたため、大いに損壊し、残片は榛莽に散在して道俗が勝手に持ち去るようになった。
- 崔光は官を置いて保護し、国子博士李郁らに残欠を補わせようと願い、胡太后も許したが、やがて元乂・劉騰の乱が起こって沙汰やみとなった。
河州羌反と源子恭
- 七月、北魏河州の羌の卻鉄忽が叛き、自ら水池王を称した。
- 北魏は主客郎源子恭を行台として討たせた。
- 源子恭は河州に着くと、州郡と諸軍に民の物一つ犯すな、軽々しく賊と戦うなと厳命し、その上で威恩を示して悔悟させた。
- 八月、卻鉄忽らは相率いて降り、前後二十日足らずで平定された。
劉騰の権勢と河間王琛
- 宦官の劉騰は字も書けなかったが、奸智に富み、人心を読むのが巧みであった。胡太后は擁護の功によって彼を重く用い、ついに侍中・右光禄大夫に至らせ、政事に干預させた。賄賂で官を求めれば通らぬことがなかった。
- 河間王琛は貪欲で知られ、定州刺史の任を終えて還ると、太后は「中山宮だけは運んで来なかった」と嘲るほどで、家に退けられていた。
- 琛は劉騰の養子となることを求め、莫大な黄金宝物を贈って口利きを得、兼都官尚書となり、さらに秦州刺史として出されることになった。
- 劉騰が重病になると、太后は生前に彼を顕貴にしようとして、九月癸未朔、衛将軍・加儀同三司とした。
高太后の死
- 胡太后は天文異変を、高太后に負わせようと考えた。
- 戊申夜、高太后は急死した。
- 冬十月丁卯、尼の礼で北邙に葬られ、諡して順皇后とした。百官は単衣・邪巾で墓まで送り、葬事が終わると服を解いた。
宋雲の西域行と寺院整理論
- 乙亥、臨川王宏は司徒となった。
- 胡太后は宋雲と比丘の恵生を西域に派遣し、仏経を求めさせた。
- 司空任城王澄は、孝文帝が洛陽遷都の際、城内には僧寺・尼寺を各一つしか置かず、他はすべて城外に置く制度を定めたのは、道俗を分けるだけでなく、法秀や大乗の変のような事態を未然に防ぐためでもあったと上奏した。
- ところが正始三年に沙門統恵深が先禁を破って以来、勅命は行われず、都城内の寺は五百を超え、民家の三分の一を占め、屠沽の穢れとも雑居するようになった。
- 澄は、城内の未成寺は従うものから郭外へ移し、僧数五十未満の寺は統合し、州郡もこれに準じるよう提案したが、ついに実施されなかった。
塩池の管理
- この年、太師高陽王雍らは、塩池は天の蔵であり本来は群生を養うもので、先朝が禁限を設けたのも細民と利を争うためではなく、豪族や近民の独占を抑え、公平な配分と什一税を行うためだったと奏した。
- ところが甄琛の提案以来、池辺の住民尉保光らが勝手に囲い込み、官以上に障禁を厳しくし、価格も取引も思うままにしていた。
- そのため先朝の禁制に戻すべきだとし、詔はこれに従った。