資治通鑑梁紀四 高祖武皇帝 天監十五年 十六年 516年
正月 北魏改元と硤石攻略
- 正月戊辰朔、北魏は大赦を行い、元号を熙平に改めた。
- 崔亮は西硤石を攻め続けていたが落とせず、李崇と水陸から同時に進む約束をしていたものの、李崇はたびたび期日を違えた。
- 胡太后は諸将の足並みの乱れを憂え、吏部尚書李平を使持節・鎮軍大将軍・兼尚書右僕射として寿陽へ派遣し、行台として諸軍を統制させた。違反者は軍法で処すとした。
- 蕭宝寅配下の劉智文らは淮を渡って梁軍の三塁を破り、二月には垣孟孫らも淮北で敗った。
二月 西硤石陥落
- 李平が硤石に到着すると、李崇・崔亮らは命令に逆らえなくなり、水陸から協同して攻め、しばしば戦功を挙げた。
- 梁の武帝は昌義之を浮山救援に向かわせたが、到着前に康絢が魏兵を撃退していた。
- さらに武帝は昌義之と王神念に淮を遡らせて硤石救援に向かわせた。
- 崔亮は崔延伯を下蔡に守らせ、別将の伊甕生とともに淮を挟んで営を築いた。車輪の輻を鋭く削って対に連ね、竹索で結んで橋とし、鹿盧を設けて焼断も切断も難しくした。
- その結果、趙祖悦の退路を断ち、梁の戦艦も通れず、昌義之・王神念は梁城に屯して進めなかった。
- 李平は水陸の兵を分けて硤石を攻め、外城を奪い、乙丑に趙祖悦が降ったので斬り、その兵はすべて捕虜とした。
崔亮の専断と北魏軍の撤退
- 胡太后は崔亮に書を与え、勝ちに乗じて深く進むよう促した。
- 李平は諸将を再配分し、浮山堰攻撃へ水陸とも前進させようとしたが、崔亮は李平の節度に従わず、病を理由に帰還を願い出て、上表するとすぐ軍を引いた。
- 李平はこれを死刑相当と上奏したが、太后は自ら政務を執る身として殺戮を好まぬとし、小勝をもって大罪をつぐなわせる形で不問とした。
- 結局、北魏軍は撤退した。
于忠・侯剛への弾劾
- 御史中尉元匡は、于忠が国難に乗じて朝命を専断し、裴植・郭祚を冤罪で殺し、宰輔を辱め、さらに詔を偽って高位を兼ねたとして、すでに赦後のことでもあるから州に使者を遣わしてその場で誅すべきだと奏した。
- また、世宗崩御以後、門下詔書や中書宣勅を経て正規の階級を踏まず任命されたものは、赦により罪は免れても、位は追奪すべきだと論じた。
- 太后は于忠については特赦後であり追罪不要とし、そのほかだけ奏請に従った。
- 元匡はさらに侯剛が羽林を拷問して殺した件を弾劾した。侯剛はもとは尚食典御で、料理のうまさにより太后に恩を売っていた人物である。
- 廷尉は大辟相当としたが、太后は公務中の過失死だと庇った。
- これに対し袁翻は、邂逅とは罪状が露見した後に隠し立てする場合のことで、侯剛のように明白に「打ち殺せ」と命じた事案をそうは呼べないと論じた。
- 太后は結局、侯剛の食邑三百戸を削り、尚食典御を解くにとどめた。
三月から四月 硤石戦後と淮堰完成
- 三月朔、日食があった。
- 北魏では西硤石攻略の功を論じ、辛未に李崇を驃騎将軍・加儀同三司、李平を尚書右僕射、崔亮を鎮北将軍へ進めたが、崔亮と李平は禁中で功争いをしたため、太后は崔亮を殿中尚書に回した。
- 北魏の蕭宝寅は、淮堰の上から梁の武帝の手書きを受け取った。彭城を襲えば北に残る国廟や一族を返すと誘われたが、宝寅はその書をそのまま魏朝へ上表した。
- 四月、浮山堰はついに完成した。長さ九里、下幅百四十丈、上幅四十五丈、高さ二十丈で、杞柳を植えた。
- 康絢は、大河を久しく塞ぐのは天地の気の流れに逆らうので、湫を東に開いて水勢を緩めるべきだとの助言を受け、東へ流す水路を開いた。
- 同時に魏側へ「梁が恐れるのは野戦であり、開湫は恐れていない」と反間を流した。
- 蕭宝寅はこれを信じて山を穿って北へ水を流したが、それでも堰水は減りきらず、魏軍はついに諦めて帰った。
- 水は淮の両岸数百里に及び、李崇は硤石の戍間に浮橋を架け、さらに八公山東南に魏昌城を築いて寿陽に備えた。
- 寿陽城は壊れ、住民は岡や隴へ移り、水底には旧居や墓が見下ろせた。
張豹子の讒言と康絢の召還
- 堰は徐州境内にあったため、徐州刺史張豹子は当初、自分が工事を主宰すると思っていた。
- しかし康絢が他官から監作として来たため豹子は面目を失い、その後いったんは康絢の節度を受けるよう命じられたものの、やがて絢が魏と通じていると讒した。
- 武帝はこれを信じなかったが、工事が終わるとなお康絢を召し還した。
北魏東益州の再征服
- 胡太后は于忠の旧功を思い返し、「一つの過失で残りの勲を捨てるべきではない」として、于忠を再び霊寿県公に封じ、崔光も平恩県侯とした。
- 東益州では、元法僧が子の元景隆に兵を与えて張斉を防がせたが、張斉は葭萌でこれを大破し、十余城を屠って武興を囲んだ。
- 法僧は城に籠ったが、境内はことごとく叛いたため、間道で北魏へ急を告げた。
- 北魏は淮南にいた傅豎眼を驛召し、益州刺史・西征都督として三千騎歩を率いさせて救援に向かわせた。
- 傅豎眼は入境後三日で二百余里を進み、九戦九勝した。
- 五月、任太洪を討ち取り、民や獠は法僧よりも豎眼を慕っていたので、路上で迎拝する者が相次いだ。
- 張斉は白水へ退き、豎眼が武興に入ると、白水以東の民は安堵した。
劉氏の籠城
- 北魏の梓潼太守苟金龍が関城戍を守っていたが、梁兵来襲の際に病で指揮できなくなった。
- その妻の劉氏が城民を率いて城上で戦い、百日余り持ちこたえた。戍副の高景が叛こうとすると、劉氏はその一党を斬った。
- 兵には衣食を分かち与え、苦楽を共にしたため、皆おそれ敬った。
- 井戸が城外にあって梁軍に押さえられると、布や絹、衣服を綯って水を汲ませるなど工夫して耐えた。
- 傅豎眼が到着すると梁軍は退き、北魏はその子に平昌県子を授けた。
六月から七月 梁軍の敗退
- 庚子、梁では王瑩を左光禄大夫・開府儀同三司とし、袁昂を左僕射、王暕を右僕射とした。
- 張斉はたびたび白水から出撃して北魏の葭萌を侵したが、傅豎眼は強蚪に白水を奪回させた。
- 王光昭も陰平で敗れた。
- 張斉は自ら精鋭二万余を率いて傅豎眼と戦ったが、七月に大敗して小剣へ逃れた。
- 大剣・小剣の諸戍もみな城を捨てて退き、東益州は再び北魏領となった。
八月から九月 胡国珍と浮山堰の崩壊
- 八月乙巳、北魏は胡国珍を驃騎大将軍・開府儀同三司・雍州刺史としたが、実際には老齢のため赴任させず、方面の栄誉を示すだけで終わった。
- 康絢が去った後、張豹子は淮堰の修繕を怠った。
- 九月丁丑、淮水が暴涨して堰は決壊し、その音は三百里に聞こえたという。
- 淮沿いの城・戍・村落の十余万戸が海へ流された。
- もともと北魏では、堰を憂えて任城王澄に十万を率いさせ徐州から攻めさせる準備をしていたが、李平は兵を用いずとも自然に壊れると見ていた。
- 実際に崩壊の報が届くと、胡太后は大いに喜び、李平に厚賞を与え、任城王澄の出兵は中止された。
- 壬辰、梁では大赦があった。
胡太后の外出への諫言と北辺問題
- 胡太后はしばしば宗室・勲貴の家を訪れた。
- 侍中崔光は、君主が臣下の家にしばしば入るのは礼に反し、王后・夫人にも臣下宅へ出入りする義はないと述べ、漢の上官皇后が霍光に対しても男女の別を厳守した先例を引いて諫めた。
- また任城王澄は、北辺の鎮将の選任が軽くなりすぎ、山陵に危機が及ぶと憂えて、重鎮の選抜と防備強化を求めた。
- 袁翻は、辺州郡県では人選が不適切で、守将が貪汚・縁故・収奪に走り、兵士を酷使し、弱者を工事や交易に駆り立てるため、強敵に当たれば壊滅し、財貨は私される、と痛論した。
- 彼は朝臣・王公以下に適任者推薦を命じ、任用・失政に応じて推薦者も連座賞罰すべきだと述べたが、太后は採用しなかった。
- 胡三省は、のち正光末に北辺で反乱が群起し旧都や山陵が脅かされたのは、まさに澄の憂えた通りだったと評する。
冬 交州・仏寺・学政・沙門問題
- 十一月、交州刺史李畟は、交州で反乱した阮宗孝を斬り、その首を建康へ送った。
- 北魏では、宣武帝が建てかけた瑶光寺に加え、この年に胡太后が永寧寺を宮側に建立し、伊闕口には石窟寺も造った。とりわけ永寧寺は九層塔や巨大金像を備え、極めて壮麗であった。
- 揚州刺史李崇は、遷都以来三十年近くたつのに明堂は未修、太学は荒廃し、城闕や官署も痛んでいるのに、仏寺造営ばかり進むのは本末転倒だとして、尚方・永寧・瑶光・石窟の工役を減らし、農閑期に明堂・学校整備へ振り向けるよう奏した。
- 太后は丁重に返答したが、実行はしなかった。
- 太后は仏事を好み、民が家を絶ってまで沙門となる者が多かった。
- 高陽王友の李瑒は、不孝の最大は祭祀を絶つことであり、現世の親を棄てて来世の益を求めるのは本末を失っている、民も役を避けるために出家するようになると諫めた。
- 僧官の暹らは「鬼教」と呼ばれたことに怒って太后に訴えたが、李瑒は神・祇・鬼の語義を引いて反論した。太后もその理を認めつつ、僧側の面子を立てて黄金一両の罰にとどめた。
- 田益宗は東豫州刺史となって二子を招き寄せたいと願ったが許されず、洛陽で死んだ。
- 柔然の伏跋可汗は高車を大破し、その王弥俄突を残酷な方法で殺し、さらに離反諸国を討って、国勢を再び強めた。