資治通鑑梁紀 高祖武皇帝 天監 十一年 512年

春正月 梁の刑罰緩和と北魏の高肇昇進

  • 正月壬辰、武帝は詔して、滞納や罪で家族が質作とされる場合、老幼がいる家は送致を止めるよう命じた。前年来の民への過酷な運用を少し緩めたものである。
  • あわせて臨川王蕭宏を太尉、驃騎将軍王茂を司空・尚書令とした。
  • 北魏では丙辰、車騎大将軍・尚書令の高肇が司徒、清河王懌が司空、広平王懐が驃騎大将軍・儀同三司に進んだ。
  • 高肇は三司に上ったにもかかわらず、尚書令の実権を失うことを不満とし、その不快を露骨に示したため、人々に笑われた。

春―夏 北魏で高肇をめぐる批判

  • 尚書右丞の高綽と国子博士の封軌は、ともに直言をもって身を立てた人物だった。高肇が司徒となった際、高綽は送迎に出たが、封軌はついに赴かなかった。
  • 高綽は後でこれを恥じ、「自分は規矩を失わぬつもりだったが、今日の振る舞いでは封生に遠く及ばない」と嘆いた。
  • 清河王懌は才能・学識・名望が高く、彭城王勰の悲劇を見て警戒していた。宴席で高肇に向かい、「天子の兄弟は何人いるというのに、ほとんど切り尽くしたではないか」と詰った。
  • また、高肇が干ばつに際して獄囚整理を独断で行い、人心収攬を図ると、清河王懌は皇帝に対し、減膳や録囚は本来君主の務めであり、臣下にやらせれば僭越が積もって乱のもとになると諫めた。
  • 北魏主は笑うだけで、明確には応じなかった。

夏四月 北魏の延昌改元・飢民対策

  • 夏四月、北魏は尚書と諸司に命じて獄訟を詳しく再審させた。
  • あわせて飢民を燕・恒二州および六鎮へ移して食糧を得させた。
  • 乙酉、北魏は大赦して延昌と改元した。

冬十月 北魏皇太子の確定

  • 冬十月乙亥、北魏は皇子詡を太子に立てた。
  • これに際し、生母を殺さない方針が初めて採られた。のちの胡太后政治の前提となる変更である。
  • 尚書右僕射の郭祚が太子少師を兼ねた。郭祚はかつて東宮に従った際、黄㼐を懐に入れて太子に捧げたことがあり、また寵臣の趙桃弓に私的に取り入っていたため、当時は「桃弓僕射・黄㼐少師」とあだ名された。

十一月 袁昂の起用

  • 乙未、呉郡太守の袁昂が兼ねて尚書右僕射となった。

十一月 『五礼』の完成

  • もとは斉の時代、太子歩兵校尉の伏曼容が一代の礼楽制度の編纂を願い出て、王儉・何胤・徐孝嗣・何佟之らが代々その事業を継いでいたが、戦乱や散逸で長く未完のままだった。
  • 梁が成立すると、何佟之は礼局の整理について判断を仰いだ。尚書省には、王業草創の時期なので、いったん礼局を廃して儀曹へ戻すべきだという意見もあった。
  • しかし武帝は、礼楽の欠落は早く補うべきであり、これまで人を得なかったから進まなかっただけだとして、直ちに撰述を命じた。
  • 沈約らの奏請により、五礼それぞれに旧学士一人と学古一人を置き、疑義は石渠閣・白虎観の故事のように勅裁を仰ぐ方式が採られた。
  • 明山賓らが分担し、何佟之が総括した。佟之の死後は伏暅が代行し、ついに八千十九条から成る『五礼』が完成した。
  • 己酉、これを諸司に遵行させた。

この年 北魏の南荆州

  • この年、北魏は桓叔興を南荆州刺史とし、安昌に治所を置かせた。東荆州に属する南方支配のための拠点である。