資治通鑑梁紀 高祖武皇帝 天監 九年 510年

春正月・三月 朝廷人事と沿淮の築堤

  • 正月乙亥、尚書令の沈約は左光禄大夫に移され、右光禄大夫の王瑩が尚書令となった。
  • 沈約は学才では当代屈指だったが、利に敏く、長年政務の中枢にいながら是非を曖昧にするところがあった。自分こそ三司に進むべきだと思い、世論もそれを望んだが、武帝はついに任じなかった。外任を願っても許されず、徐勉が三司相当の待遇を求めても聞き入れられなかった。
  • 庚寅、新たに淮水沿いの塘を築き、北岸は石頭から東冶へ、南岸は後渚の籬門から三橋へと連ねた。

三月 北魏で皇子詡誕生

  • 丙戌、北魏で皇子・詡が生まれた。生母は臨涇の胡充華である。父の胡国珍は武始伯を継いでいた。
  • 後宮では太子を生んだ生母は殺される旧例があり、同輩たちは「諸王や公主を生め」と祝ったが、胡充華は「一身の死を恐れて国家の後継ぎを絶やしてよいのか」と言って退けた。
  • 妊娠中にも周囲は堕胎を勧めたが応じず、男子を産んで自分が死んでも悔いないと誓った。
  • 生まれた詡は、北魏主が以前に皇子を何度も亡くしていたため、乳母・保母に厳重に養育させられ、皇后も生母も近づけなかった。

四月 国子学振興と尚書都令史改革

  • 己丑、武帝は国子学に行幸し、自ら講義と習学を視察した。
  • 乙未、皇太子以下および王侯の子弟で師につける年齢の者をみな入学させるよう命じた。
  • 旧制では尚書省の五都令史は寒門出身者が占めていたが、丁巳、これを改め、政務中枢に関わる職として士流から選ぶことにした。
  • その結果、劉納・劉顕・孔虔孫・蕭軌・王顒らが、それぞれ殿中都・吏部都・金部都・左右戸都・中兵都を兼ねることとなった。

六月・閏月 呉承伯の反乱

  • 六月、宣城郡の吏である呉承伯が妖術を用いて衆を集め、癸丑に郡城を攻めて太守の朱僧勇を殺し、さらに近隣諸県を荒らした。
  • 閏月己丑、呉承伯は山を越えて突如として呉興に迫った。東土の人々は平素戦いに慣れておらず、官民は恐慌して散り散りになった。
  • 太守の蔡撙は退避を勧められても拒み、勇士を募って城門を閉ざし、迎撃に出てこれを大破し、自ら陣前で呉承伯を斬った。
  • なお残党は新安へ入り、黟・歙などの諸県を落とした。太守の謝覧は迎撃に敗れて会稽へ逃れ、のち台軍が討って平定した。

冬十月 北魏中山王英の死

  • 冬十月、北魏の中山献武王英が死去した。

この年 梁の新暦施行と北魏新楽

  • 武帝即位三年に新暦制定を命じた後、祖暅は父の祖沖之が古法を考訂した大明暦こそ正しいと上奏していた。八年に新旧暦を実測比較した結果、新暦が精密で旧暦が粗いと確認され、この年から祖沖之の大明暦が正式施行された。
  • 北魏では劉芳が作らせた楽器と、文武二舞・登歌・鼓吹の曲が完成した。彼は翌年元会で新楽採用を願い出たが、詔により舞だけは新制を用い、他は当面旧楽を残すことになった。