資治通鑑梁紀二 高祖武皇帝 天監五年 506年

春正月 武興の平定と仇池楊氏の滅亡

  • 正月丁卯朔、北魏では于后が男子の昌を生み、大赦した。
  • 楊集義が魏の関城を包囲すると、邢巒は傅豎眼を派遣してこれを討たせた。傅豎眼はこれを破り、そのまま北へ追撃して壬申に武興を奪い、楊紹先を捕えて洛陽へ送った。
  • 楊集起・楊集義は逃亡し、こうして仇池楊氏の国は滅んだ。北魏はそこを武興鎮とし、さらに東益州に改めた。

正月・二月 梁北辺と北魏西方の動揺

  • 謝朏は再び中書監・司徒に任じられた。
  • 冀州刺史の桓和は北魏の南青州を攻めたが成功しなかった。
  • 北魏秦州では屠各の王法智が二千の衆を集め、州主簿の呂苟児を主として立て、建明と改元し百官を置いた。
  • 涇州でも陳瞻が群衆を集めて王を称し、聖明と改元した。
  • 己卯、楊集起兄弟はそろって北魏に降った。
  • 甲申、皇子綱が晋安王に封じられた。

二月 北魏政治への諫言

  • 北魏の君主は王公以下に忠直な諫言を求めた。
  • 治書侍御史の陽固は、宗室を親しみ、政務に励み、農桑を重んじ商工を抑え、虚玄の議論を絶ち、仏教関係の無益な出費を減らして飢寒の民を救うべきだと上表した。
  • これは、当時の北魏君主が高肇に政を委ね、宗室を遠ざけ、仏法を好んで親政しない現状を暗に批判したものであった。

二月から三月 淮南・山東方面の戦い

  • 北魏は元麗を派遣して呂苟児討伐に当たらせた。
  • 乙丑、徐州刺史の昌義之は梁城で北魏の陳伯之と戦って敗れた。
  • 将軍の蕭昞は北魏徐州を攻めて淮陽を包囲した。
  • 三月には日食があった。
  • 北魏の趙怡と奚康生が淮陽救援に向かった。

三月 咸陽王元禧の子らの亡命

  • 咸陽王元禧の子の元翼は、赦免に乗じて父の葬儀を願い出たが、北魏の君主は許さなかった。元翼は弟の元昌曄とともに梁へ逃れた。
  • 高祖は元翼を咸陽王としたが、元翼は嫡母李妃の子である弟に爵位を譲りたいと願った。しかし高祖は許さなかった。

三月 陳伯之の帰順

  • 劉思效は膠水で北魏青州刺史の元繋を破った。
  • 臨川王宏は記室の丘遅に命じて陳伯之に手紙を書かせた。そこでは、伯之が流言に惑わされて梁を去ったこと、しかし高祖は恩をもってその一族や家産を保全していること、今は危地にいるのだから早く帰順すべきことを説いた。
  • 庚寅、陳伯之は寿陽・梁城から八千の兵を率いて梁へ降った。北魏はその子虎牙を殺した。
  • 梁では陳伯之を再び西豫州刺史としたが赴任させず、のち通直散騎常侍に改めた。再叛を警戒したためで、伯之はやがて家で死んだ。

春から夏 北魏の塩池禁制論争

  • かつて北魏御史中尉の甄琛は、山林川沢は本来、民が時に応じて利用すべきであり、河東の塩池を官が独占して利を収めるのは民のためにならないとして、禁制を緩めて民と利を分かつべきだと主張していた。
  • これに対し、彭城王勰と邢巒は、山沢の収益を国家が握るのは田租不足を補って軍国にあてるためであり、政策のまずさは運用する役人にあるのであって制度自体にあるのではない、と反論していた。
  • しかし北魏の君主は最終的に甄琛の意見を採り、四月乙未、塩池の禁制を廃した。

四月から六月 魏の反攻と梁の諸将

  • 四月庚戌、北魏は中山王英を征南将軍とし、揚州・徐州方面の総司令として十余万を率いさせ、梁軍に対抗させた。
  • 江州刺史の王茂は数万を率いて魏荆州へ侵攻し、辺民や諸蛮を誘い、さらに宛州を立てて雷豹狼らに河南城を襲わせた。
  • 北魏は楊大眼を派遣し、王茂を破って河南城を奪回し、漢水まで追って五城を抜いた。
  • また宇文福が司州に侵攻して千余人を掠め去った。
  • 五月、張恵紹らは徐州に侵攻して宿預を落とし、城主馬成龍を捕えた。
  • 乙亥、昌義之は梁城を奪回した。
  • 韋叡の部将王超らは小峴を攻めたが落とせず、韋叡自身が進み、城外に出た北魏兵を撃ってその勢いのまま中宿で小峴を抜いた。

五月 合肥攻略

  • 韋叡は先に合肥を攻めていた胡景略らに合流し、山川の地形を見て肥水を堰き止め、水路を通して舟艦を進めた。
  • 北魏は東西二つの小城で合肥を挟んで守ったが、韋叡はまずこれを攻めた。すると北魏将の楊霊胤が五万を率いて急行したため、諸将は援軍を求めるよう進言した。
  • しかし韋叡は、兵は奇策が貴いとしてそのまま迎撃し、楊霊胤を破った。
  • 北魏が堤を壊しに来ると、韋叡は自ら争い、堤上に壘を築いて固めた。さらに城攻め用の高い戦艦を造って城を見下ろし、守将杜元倫が弩に当たって死ぬと、辛巳に合肥は陥落した。
  • 梁軍は万余を斬り、牛羊も万単位で得た。韋叡は生来痩せて馬に乗らず、板輿に乗って軍を督したが、夜を徹して軍務にあたり、兵をいたわったので志願兵が争って集まった。

六月まで 撤兵と豫州の移転

  • 梁軍は東陵まで進んだが、ここで班師の詔が下った。韋叡は重い荷を前に出し、自ら小輿で殿軍となった。北魏はその威名を恐れ、追撃できなかった。
  • このため豫州の州治は晋熙から合肥へ移された。
  • 五月末から六月にかけて、裴邃は羊石・霍丘を陥した。
  • 六月、桓和は朐山城を落とした。
  • 一方、元麗は王法智を破って六千を斬り、張恵紹と宋黒が彭城へ迫って高塚戍を囲んだが、奚康生の救援で敗れ、宋黒は戦死した。
  • 庚戌、皇太子統は五歳で五経をすべて暗誦できたため、この時に禁中を出て東宮に住み始めた。
  • 丁巳、北魏では邢巒が東討諸軍事の都督となった。
  • 源懐が死去した。彼は大綱を押さえる統治を好み、細事に煩わされるのを嫌ったことで知られた。

七月から九月 秦州・涇州平定と徐兗方面の反転

  • 七月、桓和は兗州で固城を抜いた。
  • 呂苟児は十余万を率いて孤山に拠り秦州を圧迫したが、元麗が大破し、さらに李韶がその家族を捕えたため、庚辰に呂苟児は降った。
  • 楊椿は別働して陳瞻を討ち、諸将の強攻策を退けて、しばらく動かず相手を油断させたのち、精兵で夜襲し、陳瞻を斬った。これで秦州・涇州は平定された。
  • 戊子、王伯敖は陰陵で中山王英に敗れ、五千余を失った。
  • 北魏は定・冀・瀛・相・并・肆六州から十万を徴発して南方戦線に補充した。
  • 梁では角念が一万で蒙山に駐屯して兗州民を招き、多くが降った。蕭及は固城、桓和は孤山にいたが、邢巒は樊魯・元恒・畢祖朽らを送って撃破し、壬寅に桓和を破り、固城も奪い返し、角念も走らせた。
  • 己酉、北魏は安楽王詮に後発軍を督させて淮南へ送った。
  • 藍懐恭は睢口で邢巒に敗れ、清水南に築いた城も九月癸酉に落ちた。邢巒と楊大眼はここで万単位の殺獲を挙げた。
  • 張恵紹は宿預を棄て、蕭昞も淮陽を棄てて退いた。

秋 洛口大敗

  • 臨川王宏は帝弟として大軍を率いたが、装備は立派でも性格は臆病で、軍令も統一されていなかった。
  • 前軍が梁城を取った後、諸将は勝ちに乗じて深く進むよう求めたが、宏は邢巒が淮を渡ってくると聞いて恐れ、撤兵を議した。
  • 呂僧珍は一度は退却に同意したが、柳惔・裴邃・馬仙琕・昌義之・朱僧勇・胡辛生らは、百万人の軍が敵前で退くのは国家の恥だと激しく反対した。
  • それでも宏は進軍を止め、軍中に「前進する者は斬る」と命じたため、将兵の怒りを買った。北魏側はその弱さを見抜き、女物の頭巾や歌で嘲った。
  • 張恵紹は号令厳整で、下邳では城民が降ろうとするのを、もし城を取れなかったときに故郷を失わせるだけだとして抑え、民心を得ていた。
  • 己丑夜、洛口で暴風雨となり、臨川王宏は数騎で逃亡した。将兵は総崩れとなり、水陸にわたって武器を捨て、病者・老人を置き去りにしたまま潰走し、死者は五万近くに達した。
  • 宏は夜に白石壘へ着いて入城を求めたが、臨汝侯蕭淵猷は、百万の軍が一朝にして散った今は変事を恐れるとして、夜中の開門を拒み、食事だけ縄で下ろして与えた。
  • 梁城の昌義之や張恵紹も、この敗報を聞いて退いた。

冬 鍾離攻防の前段

  • 北魏の君主は中山王英に勝勢に乗じて東南を平らげよと命じ、馬頭を攻め落とした。北魏軍は城中の糧秣を北へ運び去った。梁ではこれを北魏の撤退とみる向きもあったが、高祖は偽装と見抜き、鍾離城の修築と昌義之への守備準備を命じた。
  • 十月、中山王英は鍾離を包囲した。北魏の君主は邢巒にも合流を命じたが、邢巒は、鍾離は淮水の外に孤立した城で、得ても益少なく、失敗すれば損害が大きいと上表して反対した。
  • さらに、兵は夏以来疲弊し、冬服もなく、鍾離は堅城で水塹も深く、八十日分の糧で落とせるような相手ではないと繰り返し論じた。北魏の君主は容れず、むしろ邢巒を召し返して、蕭宝寅を代わりに英へ合わせた。

冬 邢巒への讒言と北魏政界

  • 侍中の盧昶は邢巒を憎み、元暉とともに彼を陥れようとした。御史中尉の崔亮に命じ、漢中で人を掠めて奴婢とした件を弾劾させた。
  • だが元暉は邢巒から美女の賄賂を受け取り、いま大功のある者を赦令以前の小事で責めるべきでないと君主に進言したため、不問となった。
  • 元暉と盧昶はいずれも寵臣で、貪欲放縦であったため、時人は元暉を「飢えた虎の将軍」、盧昶を「飢えた鷹の侍中」と呼んだ。元暉はのち吏部尚書となり、官職にはおおよその売値が定められ、選曹は「市曹」と呼ばれた。

冬 そのほかの諸事

  • 丁酉、梁軍で義陽を囲んでいた部隊が夜のうちに逃げた。洛口敗戦の影響であった。
  • 柔然では庫者可汗が死に、子の伏図が立って佗汗可汗と号し、始平と改元した。使者を北魏へ送って講和を求めたが、北魏は、柔然はもとは叛臣の末であり、いまは衰えているとして相手にしなかった。
  • 北魏の京兆王愉・広平王懐の家臣には驕慢で請託を公然と行う者が多く、北魏君主は崔亮に徹底捜査を命じ、三十余人が死罪となった。楊昱と崔楷だけは忠諫により助かった。
  • 十一月乙丑、梁で大赦があった。
  • 曹景宗は二十万を率いて鍾離救援を命じられたが、先に邵陽洲へ出て独功を立てようとし、暴風に遭って溺死者を出し、やむなく元の駐屯地へ戻った。高祖は、これでかえって景宗の孤進が防がれ、必勝になったと語った。
  • 漢・蜀旧地の獠は、李勢滅亡後に山谷へ広がって住み、近郡県の者は租税を納めたが、奥地の者は郡県も制御できなかった。梁益二州は毎年これを討って私利を得ていた。だが邢巒が梁州刺史となってからは近地の獠は安堵し、遠方も侵掠を控えた。
  • 邢巒罷免後、羊祉が梁州刺史、傅豎眼が益州刺史となった。羊祉は酷虐で人心を失い、獠王趙清荆が梁兵を引き入れて州境に侵入したが、羊祉はこれを撃退した。傅豎眼は恩信を施して獠との関係を良好にした。
  • 十二月癸卯、謝朏が死去した。
  • 北魏では礼楽制度の議論が長く決着していなかった。