春正月 梁公擁立の準備
- 齊の和帝は、席闡文らを建康に派遣して蕭衍を慰労させた。
- 蕭衍は、東昏侯の時代に行われた奢侈・浪費のうち、礼楽や軍備に必要でないものを禁じた。
- 戊戌、宣徳太后を宮中に迎えて臨朝称制とし、自身はいったん「承制」を解いた。これは人心の動きをうかがう意図もあったとされる。
- 己亥、同族の蕭昺を南兗州方面の監軍に任じた。
- 壬寅、蕭衍は都督中外諸軍事となり、特別な礼遇として剣履のまま昇殿し、名を避けずに賛拝を受ける資格を得た。
- 己酉、王亮を中書監・尚書令とした。
旧知の人材登用と受禅工作
- 蕭衍は、かつて竟陵王の邸で親しく交わった范雲・沈約・任昉を招き、范雲を諮議参軍、沈約を驃騎司馬、任昉を記室参軍として政務・謀議に参与させた。
- 謝朏・何胤ら隠棲していた名士にも出仕を求めたが、応じなかった。
- このころ蕭衍は内心で帝位継承を志し、沈約がたびたびそれを促した。いま機を逃せば異論が出て威望を損なう、建安郡公のままで子孫に残すべきではない、と論じた。
- 范雲も同旨を述べ、蕭衍はついに決断した。
- 沈約は、詔書や人事案まであらかじめ整えて持参し、受禅の段取りを進めた。後れて来た范雲は宮門に入れず、のちに左僕射の地位を得ることを知って安堵した。
- 蕭衍は、自らが起兵して三年になるが、帝業を成したのは范雲・沈約の二人だと評した。
梁公から梁王へ
- 甲寅、蕭衍は相国・揚州牧となり、十郡を封じられて梁公となった。九錫を備え、梁国の百官を置いた。
- 二月辛酉、梁公は正式に受命した。
- 東昏侯の死後、湘東王蕭宝晊は自分に人望が集まることを期待していたが、王珍国らが東昏侯の首級を蕭衍に献じたため望みを失った。
- 壬戌、梁公は蕭宝晊に謀反の疑いをかけ、弟の江陵公蕭宝覧・汝南公蕭宝宏とともに殺した。
- 丙寅、梁国の要職はすべて朝廷と同じ制度で選ぶことになり、沈約・范雲らが重用された。
- 梁公は東昏侯の遺妃を納れていたが、范雲と王茂が強く諫めた。梁公はこれを聞き入れ、遺妃を王茂に与え、翌日二人に褒賞を与えた。
- 丙戌、蕭衍はさらに十郡を加封され梁王となった。
- 癸巳、国中および府州で死罪以下を赦した。
齊宗室の誅殺と蕭宝寅の北走
- 辛丑、邵陵王蕭宝攸・晋熙王蕭宝嵩・桂陽王蕭宝貞を殺した。
- 梁王が齊の諸王を殺そうとした際、鄱陽王蕭宝寅は宦官顔文智らの助けで夜に脱出した。
- 小舟・粗末な服装・徒歩で逃れ、寿陽東城に至り、魏の任城王元澄に迎えられた。
- 元澄は客礼をもって遇し、喪服の礼も整えた。寿陽の人々はその義に感じて慰問したが、夏侯氏だけは梁に従った夏侯詳をはばかって面会しなかった。
- 元澄は蕭宝寅を深く評価した。
荊州の蕭憺
- 齊の和帝が東帰するにあたり、蕭憺を荊州刺史に任じた。
- 荊州は戦後で疲弊していたが、蕭憺は屯田を広げ、労役を減らし、戦死者の家を救済した。
- 若年で重任を負った自覚から属官に率直な意見を求め、訴訟も迅速に裁いたため、荊州の人々は大いに喜んだ。
禅譲と梁の建国
- 齊の和帝が姑孰に至ると、丙辰、梁への禅譲を詔した。
- 丁巳、廬陵王蕭宝源が死去した。
- 夏四月辛酉、宣徳太后は、皇帝が前代の例に従い神器を梁に譲るので、翌朝、璽綬を授けるよう命じた。
- 壬戌、王亮らが皇帝の璽綬を梁宮に奉った。
- 丙寅、梁王蕭衍は南郊で即位し、大赦して改元し、天監元年とした。
- この日、兄の蕭懿を丞相・長沙王として追贈し、宣武と諡した。葬礼は晋の安平献王の故事に準じた。
- 丁卯、和帝を巴陵王とし姑孰に住まわせ、礼遇は齊が宋の汝陰王を遇した先例にならった。
- 宣徳太后を齊文帝妃、王皇后を巴陵王妃とした。
- 齊の王侯の爵位は原則として一段ずつ下げるか、封国を削った。宋の汝陰王だけは三恪として特例で除外した。
- 父を文皇帝として追尊し、母を献皇后、先妃郗氏を徳皇后と追諡した。
- 夏侯詳ら文武の功臣十五人を公侯に封じた。
- 弟の蕭宏・蕭秀・蕭偉・蕭恢・蕭憺らを諸王に立て、州刺史に配した。
- 王亮・王瑩・沈約・范雲らを新朝の中枢に任じた。
- 後宮・楽府・暴室などの婦女はすべて解放した。
巴陵王の死
- 戊辰、巴陵王となっていた齊の和帝が死去した。
- 武帝は南海郡を巴陵国として移封する案を考えたが、沈約が名ばかりを追って実禍を招くべきではないと諫めたため取りやめた。
- 武帝は鄭伯禽を姑孰に遣わし、金を贈らせたが、巴陵王は酒だけでよいと言って酔ったところを殺された。
- かつて和帝に仕えた顔見遠は、禅譲後に食を断って死んだ。武帝は、自分は天命と人心に従っただけなのに、なぜ士大夫がここまで殉じるのかと嘆いた。
新政と人材登用
- 庚午、贖刑の制度を議させ、官人で鞭杖に当たる罪は金で贖わせて実刑を停止した。令史・士卒にも希望すれば適用を認めた。
- 謝沐県公蕭宝義を巴陵王の後継として齊の祭祀を奉じさせた。蕭宝義は幼少から障害があって言葉を話せず、そのため唯一生き残った。
- 南康侯蕭子恪・祁陽侯蕭子範ら齊宗室に対し、武帝は、王朝交代の際に一族を皆殺しにするのは江左の悪習であり、自分はそれを繰り返さないと語った。
- もし彼らに天命があれば自分には殺せず、なければ殺す必要もないという論理で安心させた。子恪兄弟十六人はみな梁に仕え、多くが清顕の官を歴任した。
- 謝朏を左光禄大夫・開府儀同三司、何胤を右光禄大夫、何点を侍中に徴したが、何胤・何点は就任しなかった。
- 癸酉、公車府の誹謗木と肺石のそばにそれぞれ投書箱を置き、在位者が言ってくれない政治批判や、功労・才能が埋もれて届かない訴えを受け付ける制度を設けた。
- 武帝は質素な衣服と食事を常とし、長吏の選任でも廉潔・公平を重んじ、到溉を建安内史、劉鬷を晋安太守に抜擢した。二人はいずれも清廉で知られた。
- 小県の令で有能なら大県へ、大県で有能なら二千石へと昇進させる制度も定め、丘仲孚・何遠らがその例となった。
魏の対蛮・対南朝戦線
- 魯陽の蛮が魏の湖陽を包囲したが、李崇が撃破し、首領魯北燕を斬った。住民一万余戸を幽州・并州や六鎮に移したが、のち反乱して南走し、多くが討たれた。
- 閏月丁巳、魏の穆亮が死去した。
- 五月乙亥夜、東昏侯の側近孫文明ら数百人が宮城に乱入し、神虎門・総章観を焼き、衛尉張弘策を殺した。
- 武帝は夜襲ゆえ賊は少数で、夜が明ければ散ると見て、五更に反撃を命じた。王茂・張恵紹らが救援し、乱は鎮圧された。
- 魏の小峴・大峴方面でも交戦があり、党法宗が梁の戍を破って邾菩薩を捕らえた。
陳伯之の叛乱
- 江州刺史陳伯之は無学で、文書や訴訟を自分で読めず、典籤や主者の判断に頼っていた。
- 鄧繕・戴永忠・褚緭・朱龍符らがその愚昧につけ込み、私利をほしいままにした。
- 武帝は陳虎牙を通じて密かに戒め、別駕の交代も命じたが、陳伯之は拒否した。
- 鄧繕らは、朝廷には兵糧も器仗も乏しく、東方は飢饉であるから、今こそ挙兵の好機だと説いた。
- 伯之は、齊の建安王蕭宝寅が江北で義兵十万を率いて六合に到るという偽情報を信じ、豫章攻略と北進を誓って血盟した。
- しかし長史程元冲が反発し、家で兵を集めて伯之を急襲した。伯之はかろうじて防いだが動揺した。
- 戊子、朝廷は王茂を江州刺史として討伐に向かわせた。
- 伯之は六月、唐盖人を守将として尋陽に残し、自ら豫章を攻めたが、鄭伯倫を落とせなかった。
- 王茂の軍が到着すると前後から挟まれ、陳伯之は敗れて間道から江を渡り、陳虎牙兄弟や褚緭とともに魏へ亡命した。
蜀での劉季連の再叛
- 武帝は側近の陳建孫を蜀に遣わして劉季連を慰撫し、帰朝の準備を促した。これにより鄧元起はようやく益州刺史として赴任できるはずだった。
- ところが、かつて劉季連に迫害されかけた朱道琛が、鄧元起の典籤として先行し、道中で乱暴・横暴を働いた。
- 蜀の官民は、鄧元起が到着すれば季連とその党与を誅するのではないかと恐れ、季連もまた昔の非礼を思い出して不安になった。
- 季連は、天険の地に十万の精兵があると自負し、宣徳太后の命を偽称してふたたび挙兵し、朱道琛を殺した。
- 巴西太守朱士略・涪令李膺はこれに従わなかった。
- 鄧元起が巴西に到着すると、朱士略は城門を開いて迎え、蜀の民衆も争って帰附した。新旧合わせて三万余人の兵となった。
- 兵糧不足のなか、ある者は戸籍を厳しく調べて民を罰し資糧を取るよう進言したが、李膺は、蜀民はまだ徳を見ている段階であり、刻薄に扱えば心が離れると諫めた。
- 李膺は富民から軍資米三万斛を集め、軍の窮乏を救った。
秋冬の制度整備と音楽改革
- 八月丁未、蔡法度に命じて旧律をもとに梁律を編纂させ、王亮・王瑩・沈約・范雲らとともに議定させた。
- 武帝は音律に明るく、自ら四器を作って「通」と名づけ、十二律に対応する弦の長さ・本数を定め、月気との符合も確かめた。
- さらに十二笛を製し、古鐘・玉律と照らして誤差のないことを確認した。
- 八音と七声を整えて雅楽を釐正し、宮懸の鐘磬の配置も改めた。
魏の老臣・学政・南征
- 魏では、高祖の喪後に洛陽へ来ていた老臣穆丕が厚遇され、八十余歳で三老に任じられた。
- 任城王元澄は鍾離攻略を求めたが、秋も末で兵糧調達が間に合わないと范紹が論じたため、中止された。
- 九月、魏主は鄴に行幸し、帰路に宗室・近侍と遠射を行ってその射術を示した。
- 十一月、小廟を立てて太祖の母を祭り、太廟祭の後に別に太牢をささげることとした。
- 甲子、皇子元統を皇太子に立てた。
- 魏の洛陽宮室はこの年ようやく完成した。
年末の軍事と飢饉
- 十二月、梁の張囂之が魏の淮南に侵攻して木陵戍を取ったが、任城王元澄配下の成興に敗れて木陵は奪い返された。
- 蜀では劉季連が李奉伯らに鄧元起を防がせたが、敗れて成都へ退き、元起は西平・蔣橋と進んで州城を囲んだ。
- 李奉伯らは郫を襲って元起の輜重を奪ったが、元起は郫を捨ててそのまま州城包囲を続けた。
- 魏では陳留公主をめぐって高肇と張彛が争い、高肇の讒言で張彛が長く失脚した。
- この年、江東では大旱が起こり、米価は一斗五千に達し、餓死者が続出した。