資治通鑑齊紀七 高宗明皇帝 建武 四年 497年

春正月 大赦と北魏の太子冊立

  • 春正月、斉では大赦が行われた。
  • 丙申、北魏では皇子の元恪が皇太子に立てられた。
  • 北魏の孝文帝が清徽堂で宴を開いた際、かつて廃太子となった元恂のことが話題となった。李冲が師傅として導けなかったことを詫びたが、帝は「自分でもその悪を改めさせられなかったのだから、師傅だけを責めることはできない」と述べた。
  • 乙巳、北魏の孝文帝は北巡に出た。

王晏の失脚と誅殺

  • 尚書令の王晏は、世祖武帝に重用され、また明帝が鬱林王を廃して即位する際にも積極的に協力したため、新朝の功臣を自任していた。
  • しかし王晏は朝政を専断し、要職に私党を据え、しばしば人事をめぐって明帝と争った。明帝は即位の経緯上しばらく頼っていたものの、内心では深く嫌っていた。
  • 明帝は、世祖時代の文書を調べるうち、王晏が帝王級の機密に深く関与していたことを知り、さらに疑念を強めた。始安王蕭遥光も「武帝に忠を尽くせなかった者が、陛下に尽くすはずがない」として誅殺を勧めた。
  • 明帝は腹心に巷の風説を探らせた。王晏は開府を望み、相術師を招いては自らの将来を占わせ、賓客との密談も多かったため、反意ありと見なされた。
  • さらに、南郊祭祀の機会に世祖旧部の将帥と結んで変を起こすという密告があり、郊祀直前に虎が祭壇に現れる不吉も重なって、明帝は強く恐れた。
  • 丙辰、王晏は華林省に召し出され、その場で誅殺された。あわせて北中郎司馬の蕭毅、台隊主の劉明達、さらに王晏の子の王徳元・王徳和も殺された。
  • 詔では、王晏らが河東王蕭鉉を擁立しようと図ったとされた。
  • 王晏の弟で広州刺史の王詡も、南中郎司馬の蕭季敞に襲撃されて殺された。蕭季敞は明帝の近親であった。
  • 蕭毅は奢侈で武芸を好み、もともと明帝に忌まれていたため、この事件に連座させられた面もあった。

河東王蕭鉉の処分と王晏周辺の人々

  • 河東王蕭鉉は、もともと年少で才力が弱いと見られていたため、明帝から直ちに殺されずにいた。
  • 彼は朝見の際も極度に身を縮め、目を合わせることすら避けていたが、この頃には成長していたため、王晏事件に連座して官を奪われ、外部との交渉を禁じられた。
  • かつて鬱林王廃立の際、王晏の従弟で御史中丞の王思遠は、「今ここで死を選べば家門も名声も守れる」と諫めたが、王晏は取り合わなかった。
  • その後、王晏が栄達した席でも王思遠は「今からでも遅くない」となお警告していた。のちに明帝はこのことを聞き、王思遠を罪に問わず、むしろ侍中に昇進させた。
  • 王晏の外弟にあたる阮孝緒も、王晏の破滅を早くから見抜いていた。王晏が訪ねてきても会わず、王晏家からもらった美味な醤を知ると吐き出して捨てた。
  • 王晏が誅された後、人々は阮孝緒にも累が及ぶのではと心配したが、彼は「親族でも不義に与しなかったのだから恐れることはない」と言い、実際に無事であった。

北魏 平城到着と穆泰党の処断

  • 二月壬戌、北魏の孝文帝は太原に到着した。
  • 甲子、斉では徐孝嗣が尚書令となり、王晏の後任となった。また蕭季敞が広州刺史となり、王詡の後を継いだ。
  • 癸酉、北魏の孝文帝は平城に着き、穆泰・陸叡の党与を引見して取り調べたが、冤罪を訴える者は一人もいなかったため、任城王元澄の明察が称賛された。
  • 穆泰とその親党は処刑され、陸叡は獄中で死を賜った。妻子は助命され、遼西に移されて庶民とされた。

北魏 旧俗への反発と元丕の処分

  • 北魏では、洛陽遷都と旧俗改革に対し、并州刺史の元丕が強い不満を抱いていた。孝文帝は宗室の長老として無理に押さえつけず、道理を説いて異論を表立たせないようにするにとどめていた。
  • 朝臣たちが漢風の衣冠に改める中でも、元丕はなお胡服姿で列し、後に少し冠帯を着けるようになっても礼容を整えなかった。帝も強制はしなかった。
  • かつて太子元恂を平城に留めて兵を挙げようという密謀があり、元隆らはこれを元丕にも告げた。元丕は表向き賛同を避けたが、内心では同調するところがあった。
  • 事件発覚後、帝は平城で取り調べを行い、元丕に罪が及ぶことになったが、以前に「死罪にはしない」と約していたため、死一等を減じて庶民とし、後妻と二子は太原で同居を許した。
  • 元隆・元超の同母弟元乙升は殺され、その他の子らは敦煌へ流された。

北魏の「不死の詔」への批判

  • 孝文帝は、かつて陸叡・元丕・李冲・于烈らに対し「死なせない」と約したことがあり、陸叡が逆罪で死を賜った際にも、李冲・于烈に対してその事情を説明する詔を下した。
  • 元丕についても、子や弟が反乱の端緒となったにもかかわらず、特別に庶民とした。
  • これに対し司馬光は、賞罰・生殺の権は君主統治の大本であり、功臣や貴臣でも罪に応じて公正に処すべきで、あらかじめ不死を約しておき、後に破って処罰するのは、君命の不信を招き臣を危地に追い込む悪政だと批判した。

北魏 于烈の評価と「雁臣」

  • 当時、代地の旧族の多くが穆泰らの謀議に連なったが、于烈だけは一切関わらなかったため、孝文帝はますますこれを重んじた。
  • また、北方の酋長や人質として洛陽にいる者たちは暑さを嫌ったので、秋に洛陽へ朝し、春になると部落へ帰ることを許された。このため、当時の人々は彼らを「雁臣」と呼んだ。

三月から四月 北魏の西方巡行と廃太子元恂の死

  • 三月己酉、北魏の孝文帝は南下して離石に至り、叛いていた胡族が降ることを請うたので赦した。
  • 四月庚申、龍門に至って夏の禹を祀り、癸亥には蒲坂で虞舜を祀った。辛未には長安に到着した。
  • そのころ、廃太子元恂は自らの過ちを悔いていたが、御史中尉李彪が、なお側近と逆謀していると密奏した。
  • 孝文帝は邢巒と咸陽王禧に命じて河陽へ赴かせ、椒酒を持たせて元恂に死を賜った。
  • 葬送は粗末で、粗い棺に平服のまま納めて河陽に葬られた。
  • 癸未、大将軍・宋明王劉昶が彭城で死去し、特別の礼をもって葬られた。

五月から六月 北魏の帰還と南征準備

  • 五月己丑、北魏の孝文帝は東へ帰還した。渭水を下って黄河に入り、壬辰には使者を遣わして豊で周文王、鎬で周武王を祀らせた。
  • 六月庚申、洛陽へ帰還した。
  • 壬戌、北魏は冀州・定州・瀛州・相州・済州の兵二十万を動員し、南征に備えた。
  • 穆泰の反乱に関与した中書監の穆羆は、恩赦後に発覚して官爵を削られ庶民となった。
  • その弟の司空穆亮は、自らも責任を負うべきとして上表して辞職を求め、ついに許された。
  • 丁卯、北魏は六師を行軍用と留守用に分けて再編した。

七月から八月 北魏の後宮・宗室の動き

  • 七月、北魏では昭儀の馮氏が皇后に立てられた。
  • 皇后は太子元恪を自ら養育しようとし、その生母の高氏が代から洛陽へ向かう途中、共県で急死した。人々は不審視した。
  • 戊辰、穆亮は征北大将軍・開府儀同三司・冀州刺史に転じた。
  • 八月丙辰、北魏は内外に戒厳を命じた。
  • 壬戌、皇子の元愉を京兆王、元懌を清河王、元懐を広平王に立てた。また景皇の生母王氏を追尊して恭太后とした。
  • 甲戌、華林園で講武が行われ、庚辰には洛陽を発した。任城王元澄が留守を務め、李彪が度支尚書を兼ね、李冲とともに留台政務を処理した。
  • 彭城王元勰に中軍大将軍の仮官が与えられたが、元勰は辞退しつつも、孝文帝との深い信任関係を示した。

斉の北辺防備と武興・梁州情勢

  • 斉では、胡松を北襄城太守成公期の援軍として赭陽に、鮑挙を黄瑶起の援軍として舞陰に派遣した。
  • 北魏は氐族の首長楊霊珍を南梁州刺史としたが、楊霊珍は州を挙げて斉に降り、母と子を南鄭に送って人質とした。
  • さらに弟の楊婆羅・楊阿卜珍に一万余を率いさせて北魏側の武興王楊集始を襲撃し、その弟二人を殺した。
  • 楊集始は窮地に陥って降伏を請うた。

九月 北魏の大規模南征開始

  • 丁酉、北魏は河南尹の李崇を都督隴右諸軍事として数万の兵を授け、楊霊珍討伐に向かわせた。
  • もともと荊州刺史薛真度が、洛陽に近い樊・鄧を先に取るべきだと勧めており、前年に南陽太守房伯玉に敗れていたこともあって、孝文帝は南陽小郡ごときに屈したくないと考え、ついに襄陽方面への大遠征を決意した。
  • 彭城王元勰以下三十六軍が前後して進み、号して百万といわれる大軍勢となった。
  • 辛丑、孝文帝は諸将を赭陽攻撃に残し、自らは南下した。
  • 癸卯、宛に着き、夜襲で外郭を攻略したが、房伯玉は内城に籠って防戦した。
  • 帝は孫延景を使者として降伏を勧め、「今回は冬に来て春に帰る従来の侵攻とは違い、必ず戦果を挙げるまで帰らない」と脅したうえ、房伯玉の「三つの罪」を数えた。
  • 房伯玉は軍副の楽稚柔を通じて、「武帝の恩には背かず、現皇帝は大宗を継いだ正統の君である」と応答し、降らなかった。
  • 宛城東南の橋を通る際、房伯玉配下の兵が班衣・虎頭帽姿で伏兵を行い、孝文帝を急襲した。帝は人馬ともに驚いたが、原霊度がこれを射殺して難を逃れた。

李崇の武興攻略

  • 李崇は山道を分進して、氐族側の不意を突く形で内外から攻めたため、楊霊珍の配下は離散した。
  • 李崇は赤土に進み、楊霊珍は一族の楊建を龍門に置き、自らは精兵一万で鷲峡に拠って防いだ。北方数十里では樹木を伐って道を塞ぎ、峡口には大石を積んで高所から落とし、魏軍を阻もうとした。
  • 李崇は慕容拒に別路から五千を率いさせて夜襲し、龍門を破ったうえで、自ら鷲峡を攻め、楊霊珍を敗走させた。
  • 妻子を捕え、武興を攻略し、救援に来た梁州刺史陰広宗らの軍も破り、楊婆羅・楊阿卜珍を斬り、鄭猷らを生け捕りにした。
  • 楊霊珍は漢中へ逃れた。
  • 孝文帝は「西方への憂いをなくしたのは李崇の功だ」と喜び、李崇を都督梁・秦二州諸軍事、梁州刺史としてその地を鎮撫させた。

新野方面の戦況

  • 丁未、孝文帝は南陽を発ち、咸陽王禧らを残して宛を攻めさせた。
  • 己酉、帝は新野に到着し、新野太守劉思忌が籠城した。
  • 冬十月丁巳、魏軍は新野を攻めたが落とせず、長囲を築いて持久戦に入った。
  • 魏側が「房伯玉はもう降った。なぜお前だけ砕け散るような最期を選ぶのか」と呼びかけると、劉思忌は「城中にはまだ兵糧が多く、お前たち小虜の相手をする暇はない」と答えた。
  • 韓顕宗が別軍を率いて赭陽に駐屯したところ、成公期は胡松に命じて蛮兵でその営を攻めさせたが、韓顕宗はこれを撃破し、副将の高法援を斬った。
  • 韓顕宗は新野に来ると、孝文帝から勝利を露布にして知らせるよう勧められたが、小勝を誇張するのは先例にならうだけでむしろ罪が大きいと答えた。帝はいよいよ彼を賢とした。

斉の対応と裴叔業の徐州方面作戦

  • 斉では、明帝が徐州刺史裴叔業に雍州救援を命じたが、裴叔業は「北人は遠征を嫌い、掠奪を好むから、こちらが敵境を荒らせば自然に兵を分散させられる」と進言した。
  • 明帝はこれに従い、裴叔業は虹城を攻め、男女四千余人を捕えた。
  • 甲戌、太子中庶子の蕭衍と右軍司馬張稷が雍州救援に派遣された。
  • 十一月甲午、前軍将軍韓秀方ら十五将が北魏に降った。
  • 丁酉、北魏は沔水北岸で斉軍を破り、王伏保らを捕えた。
  • 丙辰、斉は楊霊珍を北秦州刺史・仇池公・武都王に任じた。
  • 新野の人である張䐗が一万余家を率いて柵に拠り、北魏に抵抗したが、十二月庚申に魏軍により攻略された。

雍州救援の遅滞と王肅の戦功

  • 雍州刺史の曹虎は房伯玉と不和であったため、救援を急がず樊城に屯していた。
  • 丁丑、斉は度支尚書崔慧景に節を仮し、二万の兵と千騎で襄陽救援に向かわせ、雍州の諸軍をその節度下に置いた。
  • 一方、王曇紛が一万余で魏の南青州黄郭戍を攻めたが、守将崔僧淵に破られ全軍壊滅した。
  • 魯康祚・趙公政が一万で魏の太倉口に侵入すると、豫州刺史王肅は長史の傅永に三千で迎撃させた。
  • 傅永は、南軍が夜襲時に渡河地点へ灯火を置く習慣を見抜き、同様の灯火を偽装して混乱を誘い、伏兵で敵を撃破した。魯康祚は戦死し、趙公政は捕えられた。
  • その後、裴叔業が楚王戍を攻めると、王肅は再び傅永を派遣した。傅永は夜の伏兵と奇襲で裴叔業軍を大破し、傘・扇・鼓幕・武器一万余を奪った。
  • 周囲は追撃を勧めたが、傅永は兵力差を踏まえて深入りを避けた。
  • 孝文帝は傅永を高く評価し、安遠将軍・汝南太守とし、貝丘県男に封じた。
  • 傅永は勇力だけでなく学問・文章にも優れ、孝文帝は「馬上では賊を撃ち、下馬すれば露板を書くことができるのは傅修期だけだ」と称えた。

曲江公蕭遥欣と劉季連

  • 曲江公蕭遥欣は武事を好み、明帝は宗室の年少さゆえ、内では蕭遥光兄弟、外では后族・姻族を頼っていたため、蕭遥欣を都督荊雍等七州諸軍事・荊州刺史として江陵に置き、西面の重鎮とした。
  • しかし蕭遥欣は人材・勇士を多く招き、私財を蓄えていたため、明帝は強く嫌った。
  • 蕭遥欣は南郡太守劉季連を侮辱していたが、劉季連はひそかにその異心の迹を上表した。
  • 明帝は劉季連を益州刺史に転じさせ、蕭遥欣の上流に配置して牽制させた。

高昌の変

  • この年、高昌王馬儒は司馬王体玄を北魏に派遣して朝貢し、兵を出して迎えに来てほしいこと、国ごと東へ移ることを願った。
  • 北魏は韓安保を派遣し、伊吾の地五百里を割いて馬儒の民を住まわせる方針をとった。
  • 馬儒は顧礼・麴嘉に兵を率いさせて迎えに出したが、韓安保は到着せず、彼らは高昌へ戻った。韓安保も伊吾へ引き返した。
  • その後も馬儒は世子馬義舒を送って韓安保を迎えようとしたが、高昌旧民は故土を離れるのを嫌い、馬儒を殺して麴嘉を王に立てた。
  • 麴嘉は再び柔然に臣従し、韓安保だけが顧礼・馬義舒を伴って洛陽に戻った。