春正月・二月 北魏との往来と北辺の動き
- 春正月、斉は隔城で捕えた二千人余りの俘虜を解放し、北魏へ帰した。
- 同月乙丑、北魏の皇帝は方山へ行幸した。
- 二月辛未には霊泉へ赴き、壬申に宮へ戻った。霊泉には池があったことが注で補われている。
- 地豆干がしばしば北魏の辺境を侵したため、北魏はその対応に追われた。
夏四月・五月 北魏の対外軍事と使節往来
- 四月甲戌、北魏では征西大将軍・陽平王頥が地豆干を討って撃退した。頥は新成王の子孫である。
- 甲午、北魏は邢産らを斉へ派遣し、聘問を行った。
- 五月己酉、庫莫奚が北魏辺境を侵したが、安州都将の楼龍児がこれを撃退した。庫莫奚は東部胡の一種で、のちに単に「奚」とも呼ばれた。
秋七月 安陸侯緬の善政
- 七月辛丑、会稽太守の安陸侯緬を雍州刺史に任じた。緬は西昌侯鸞の弟である。
- 緬は訴訟・刑獄に心を配り、強盗でも初犯は赦して更生の機会を与え、再犯者のみ処刑したため、民は畏れつつも彼を慕った。
- 癸卯、天下に大赦が行われた。
- 丙午、北魏の皇帝は再び方山へ赴き、のち霊泉池へも行幸した。
八月 吐谷渾の継承と丘冠先の死
- 八月丙寅朔、北魏では河南王度易侯が死去した。
- 乙酉、その世子の伏連籌を秦州・河州刺史に任じ、振武将軍の丘冠先を派遣して任命を伝え、あわせて弔問させた。
- 伏連籌は丘冠先に拝礼を強いたが、冠先は応じなかったため、崖下に突き落とされて殺された。
- 斉の武帝は丘冠先の子に厚く褒賞し、遺体は辺境の遠地にあって回収できないとしても、子の出仕には差し障りないよう特に命じた。
八月 巴東王子響の専横
- 荊州刺史の巴東王子響は勇敢で騎射に優れ、武事を好んだ。自ら武装した腹心六十人を選び、内斎でたびたび牛酒を振る舞った。
- また、ひそかに錦袍や赤い上着を作らせ、蛮との交易で武器を手に入れようとした。
- 長史の劉寅、司馬の席恭穆らが連名で朝廷に密告し、武帝は厳しく検査するよう命じた。
- 台使が来ると、子響は劉寅・席恭穆・江悆・呉修之・魏景淵らを呼んで問い詰めた。彼らが内容を明かさなかったため、子響は激怒し、八人を後堂で殺した。
八月 朝廷の対応と討伐方針
- 武帝は当初、江悆だけは赦そうとしたが、すでに皆が殺されたと知って怒った。
- 壬辰、随王子隆を荊州刺史に任じた。
- 武帝は淮南太守の戴僧静に兵を率いさせて子響討伐を命じようとしたが、僧静は、若年の子響が側近に逼迫されて憤激した結果であり、天子の子を軽々しく兵で討てば人心を動揺させると面諫し、命に従わなかった。
- 武帝は表向き答えなかったが、その言を内心では是とした。
八月 胡諧之らの派遣と交戦
- そこで武帝は衛尉の胡諧之、游撃将軍の尹略、中書舎人の茹法亮らに精鋭数百を率いさせ、江陵へ向かわせた。子響が自首するなら命は助けるが、取り巻きだけを取り締まれと命じた。張欣泰を胡諧之の副とした。
- 張欣泰は、軍を夏口にとどめて禍福を示せば戦わずして解体できると進言したが、胡諧之は従わなかった。
- 一行は江津の燕尾洲に城を築いた。子響は白服で城上に立ち、何度も使者を送り、自分は反逆者ではなく粗忽からこうなっただけで、単身都へ帰って罪を受けるつもりだ、なぜ城を築いて捕えようとするのかと訴えた。
- 尹略だけが応答し、誰がそそのかしたのかと問うた。子響は涙を流した。
- 子響は牛を屠って酒食を台軍へ贈ったが、尹略はこれを川に捨てた。子響は茹法亮との面会を求めたが、法亮は恐れて会わず、詔勅を伝えることもしなかったうえ、使者まで拘束した。
- 子響は怒り、養っていた勇士を使って州府兵二千を集め、霊溪の西から渡河した。自身は百余人とともに万鈞の強弩を持って江堤に宿営した。
- 翌日、州府兵と台軍が戦うと、子響は堤上から弩を射かけ、台軍は大敗した。尹略は戦死し、胡諧之らは小舟で逃げた。
その後 子響の最期
- 武帝はさらに丹陽尹の蕭順之に兵を率いさせた。
- 子響はその日のうちに白衣の側近三十人と小船に乗って建康へ下った。太子長懋はもとより子響を憎んでおり、蕭順之の出発に際して密かに、子響を生かして帰すなと伝えていた。
- 子響は順之に会って弁明しようとしたが許されず、射堂で絞殺された。後世の史書には「詔により死を賜った」とするものもあるが、これは順之への配慮があると注は見る。
- 子響は臨終にあたり、自分の罪は重いが、胡諧之らが詔旨を示さず一方的に城を築き、法亮も面会を拒んだため戦闘に至ったのだと上書した。建康の王邸で一か月待機させてから自死させてくれれば、「斉が子を殺した」とのそしりを避け、「父に逆らった」との悪名も免れたのに、それもかなわなかったと訴えた。
子響事件の余波
- 有司は子響を宗籍から除き、爵位と封土を剥奪し、姓を「蛸氏」に改めさせた。関係者の処分は別に審議した。
- のちに武帝が華林園で、子猿を失って悲鳴を上げる猿を見て子響を思い出し、むせび泣いた。
- 茹法亮はかなり責めを受け、蕭順之も恥じ恐れて病を得て死んだ。
- 豫章王嶷は子響の遺体を収葬することを請うたが許されず、のち魚復侯に貶められた。
- 反乱の際、諸方鎮はこぞって子響を逆臣と奏したが、兗州刺史の垣栄祖だけは、劉寅らが恩に背いて巴東王をここまで追い込んだと書くべきだと述べ、武帝はこれを「事情をわきまえた言」と評価した。
江陵の復旧
- 台軍は江陵の官庁や文書を焼き払ってしまい、官府の記録は一時に失われた。
- 武帝は大司馬記室の楽藹を召して西方の事情を問うと、応答が詳しく機敏だったので荊州治中に抜擢し、府州の復旧を任せた。
- 楽藹は短期間で数百区画の官舎を修復し、しかも民に重い負担をかけなかったため、荊州で称賛された。
九月・十月 北魏文明太后の死と喪礼論争
- 九月癸丑、北魏の文明太皇太后馮氏が死去した。
- 孝文帝は五日間ほとんど飲食せず、哀しみのあまり礼を超えて衰弱した。
- 中部法曹の楊椿が、万国を統べる君主が一私人の節義のように振る舞って倒れてはならないと諫めたため、孝文帝は粥を少し口にした。
- 王公たちは埋葬地の決定、漢魏の故事に従った服制、埋葬後の公除を請願したが、孝文帝はまだ耐えられないとして拒んだ。
- 冬十月、文明太后を永固陵に葬った。孝文帝はたびたび陵に赴き、なおも公除を拒み続けた。
十月 北魏の喪制をめぐる詳細な議論
- 思賢門の外で、太尉丕ら老臣は、魏の旧例では重い服喪は梓宮に近侍する者に限られ、その他は吉服であること、帝の哀傷はすでに過礼であることを述べ、常膳へ戻るよう請うた。
- 孝文帝は、祖宗が武を重んじ文教が未熟だった時代と今は違う、自分は古礼を学んでおり、先例だけでは決められないと答えた。
- さらに游明根・高閭ら儒臣を呼び、卒哭・小祥・大祥・禫など、古今の喪礼について詳しく問うた。
- 臣下たちは、文明太后の遺命が金冊に書かれており、葬後は即吉とする意向だったこと、漢代や魏晋以来の制度もまた葬後の即吉を採ることを挙げた。
- しかし孝文帝は、過去の天子が三年の喪を行えなかったのは新君即位直後で統治が不安定だったからで、自分は在位も長く、天下も君主の存在を知っている今こそ、哀慕の情と礼をともに失うべきではないと論じた。
- 杜預の説や漢章帝の例を引く者にも、単に後世の非難を避けたいのではなく、実際に情として忍びないのだと述べた。
- 高閭らは、臣下だけが除服し皇帝だけが服喪するのは君臣の道に合わず、また喪服のまま朝政にあたるのも疑わしいとした。帝は、せめて一期までは衰麻を保ちたい、臣下は親疎・貴賤・遠近で軽重を分けて除服させるのが古に少しでも近いと応じた。
- 宗廟祭祀や軍事上の危急を理由にした反論にも、必要があれば帯絰のまま出征した古例もある、平時から軍旅を気にして喪紀を破るべきではないと退けた。
- 最終的に、帝が沈黙して政務を冢宰に委ねるか、衰服のまま政務を執るかの二択を示したため、群臣は後者を選んだ。帝は号泣し、群臣もまた哭して退出した。
文明太后と孝文帝の過去
- 注によれば、文明太后はかつて孝文帝の英敏さを恐れ、寒中に空室へ閉じ込めて三日食を絶ち、咸陽王禧を立てようとしたことがあった。
- だが太尉東陽王丕、穆泰、李冲らが強く諫めて中止させた。帝はこれを恨まず、むしろ丕らに深く感謝した。
- また太后に帝を讒言した宦官がいて、太后が帝を杖で打つこともあったが、帝は弁明せず黙って受けた。太后の死後も、その讒者を詮索しなかった。
交州の政変
- 交州刺史の房法乗は読書を好む一方、病を理由に政務を見ず、長史の伏登之が権力を専断して将吏を勝手に入れ替えていた。
- 録事の房季文がこれを法乗に訴えると、法乗は怒って伏登之を十余日投獄した。
- ところが登之は法乗の妹婿の崔景叔に賄賂を贈って釈放され、部曲を率いて州城を襲い、法乗を別室に閉じ込めた。
- 法乗はなお無事だと思って本を求めたが、登之は病気に触るとして与えず、ついには法乗は精神の病で職務不能だと上奏した。
- 十一月乙卯、朝廷は伏登之を交州刺史に任じ、房法乗は嶺南からの帰途に死んだ。読書だけで実務をしない者は辺州の任に耐えないことを示す例として注は扱う。
十二月 立王・銭貨政策・戸籍是正
- 十二月己卯、皇子子建を湘東王に立てた。
- 以前から南方の銭不足のため再鋳銭が議論されており、孔顗は、銭が少ないことこそ問題で穀価安はその結果であり、軽銭は盗鋳を招くから、漢の五銖銭のように重く堅固な官銭を鋳て私鋳を禁じるべきだと論じていた。太祖はこれを是とし諸州に銅と炭を集めさせたが、崩御で中止となった。
- この年、益州行事の劉悛が厳道の銅山を用いた鋳銭再開を提案し、使者が蜀に送られたが、費用がかさむため中止された。
- 太祖以来の黄籍整備や、巧詐な者を淮水沿いへ十年戍役に送る政策で民怨が強かったため、武帝は宋の昇明以前に遡って原籍回復を認め、辺境に謫戍されている者にも帰郷を許した。今後は再犯を厳罰にすることとした。
- 長沙威王晃が死去した。
- 吏部尚書王晏が病を理由に辞任を願い、武帝は西昌侯鸞に選事を兼ねさせようとしたが、王晏が鸞は門閥・氏族の事情に通じないとして不適任を述べたため見送られた。
- 武帝は百済王牟大を鎮東大将軍・百済王に任じた。
- 高車の阿伏至羅、窮奇らが北魏に使者を送り、天子に代わって蠕蠕を討ちたいと請願した。北魏皇帝は繍袴褶と絹を与えた。