正月 改元と新政の基本方針
- 正月、南郊を祭り、大赦して元号を永明と改めた。
- 辺境がひとまず静まり、民政官には旧来の俸秩を復した。これは宋末以来の軍事費不足で削減・停止されていた給与を、平時化に伴って戻す措置である。
- 太尉の豫章王嶷は太子太傅を兼ねた。表向き朝政には深く出なかったが、密かに建言し、新帝はしばしばこれを採用した。
- 皇弟の蕭鋭・蕭鏗、皇子の子明・子罕がそれぞれ南平王・宜都王・武昌王・南海王に封じられた。
二月~三月 辺境人事と官制運用
- 楊炅は沙州刺史・陰平王となった。
- 宕昌王梁弥機は河・凉二州刺史、鄧至王像舒は西凉州刺史となった。
- 宋末には地方官の任期を短くするため三年を一区切りとする「小満」が定められていたが、運用は混乱していた。三月、今後は一律にこの小満を任期基準とする詔が出された。
- 天文異変に対し、役所は祈禳を願ったが、帝は形式的な祭祀より、自らを修めて恵政を行うほうが本質だとして退けた。
四月 前代敗臣の改葬
- 袁粲・劉秉・沈攸之は最後は道を誤ったが、初めの志は汲むべきだとして、礼をもって改葬するよう命じた。
太子時代の専断と張景真事件
- 帝は太子時代、自分が年長で、太祖とともに創業に参与したという自負から、朝政の細事まで専断しがちで、制度を外れることも多かった。張景真ら側近を深く信用し、彼らは衣服・器物にまで天子に似せるほど驕奢だったため、内外は恐れて誰も諫めなかった。
- 荀伯玉は太祖に近侍した忠臣であり、太子の行動を見過ごせず、太子の陵参りの機会を利用して密奏した。
- 太祖は怒り、東宮の実態を調べさせた。太子が帰還する途中、豫章王嶷が馬を飛ばして迎え、太祖が激怒していることを知らせたため、太子は夜のうちに宮へ戻った。
- 翌日、太祖は蕭長懋・蕭子良に命じて太子を詰問し、張景真の罪状を示し、太子令で景真を逮捕・処刑させた。太子は恐懼して病に伏した。
- 王敬則が、創業間もない時期に太子を責め立てれば人心が動揺すると強く諫めたため、太祖はやむなく東宮に赴き、諸王に奉仕させる宴を開いて和解した。
- 太祖は荀伯玉の忠誠を高く評価し、いっそう親任した。
荀伯玉への怨みと王晏らの不満
- 荀伯玉が母の喪に服していた際、その家には車馬があふれ、左衛率蕭景先・侍中王晏らが弔問に行っても、前へ進むまで長時間待たされるほどであった。二人はこの盛況を見て、二宮の門前より伯玉の家のほうが賑わっていると不満を漏らした。
- 驍騎将軍陳胤叔先も太子に東宮の是非を述べ、太子はそのたびに「伯玉が奏したのだ」と思い込み、深く恨んだ。
- 太祖はひそかに豫章王嶷を太子に代える考えを抱いたこともあったが、嶷はむしろ太子への礼をいっそう厚くし、兄弟の愛情は損なわれなかった。
垣崇祖・荀伯玉の誅殺
- 豫州刺史垣崇祖は太子に近づこうとしなかった。魏兵撃退の功で召還された際、太祖と密議したことから太子は疑ったが、崇祖は太子に厚遇され、いったん疑いは解けたように見えた。
- しかし太祖が再び荀伯玉を夜間に密命で派遣し、東宮に挨拶する暇もなかったため、太子は両者への不信をさらに募らせた。
- 太祖は臨終に際して伯玉を指して太子に託したが、即位後の帝は、伯玉と崇祖が親しく、自分に敵対するかもしれないと疑い、いったん慰撫しながら、四月丁亥、江北の流民と結んで乱を企てたと罪を着せて二人を捕え、殺した。
魏の太子出生
- 魏主は崞山へ行幸し、帰宮した。
- 閏月、平凉林氏が皇子恂を産んだ。文明太后はこの子が皇太子になると見て、林氏を死なせ、自ら養育した。
五月 張敬児の失脚
- 魏主は武州山石窟寺へ行幸した。
- 車騎将軍張敬児は夢を信じやすく、自らの出世段階に応じて妻が手・肩・半身が熱くなる夢を見たと語らせ、ついには全身が熱くなる夢、あるいは故郷の社樹が天まで届く夢などを口にして、過大な望みを抱いていると受け取られた。
- 垣崇祖の死後、張敬児は自分も疑われるのではと感じていたところへ、蛮地へ人を送り物資交易をしたとの告発があった。
- 帝は華林園で八関斎を開き、朝臣の列席する中で張敬児を逮捕し、ついで処刑した。敬児は冠の貂を投げ捨て、「この冠が自分を誤らせた」と言った。四子も連座した。
- 弟の張恭児は兄に巻き込まれるのを常に恐れていて、山中にこもり、面会にも万全の警戒をしていた。兄の敗報を聞くと蛮中へ逃げたが、のちに出頭して許された。
謝超宗・袁彖
- 張敬児の娘は謝超宗の子の妻であった。超宗は丹陽尹李安民に、去年は韓信、今年は彭越が殺されたようなものだ、次はどうするつもりかとそそのかすような発言をした。
- 李安民はこれを奏聞し、もとより超宗の軽慢を嫌っていた帝は、兼御史中丞袁彖に弾劾させた。
- 超宗は廷尉に下され、越巂へ流される途中で死を賜った。
- 彖の弾文が穏当すぎるとされ、さらに王逡之に再弾劾させたため、袁彖も免官・禁錮となった。
七月~八月 王僧虔と王氏家風
- 魏主と太后は神淵池・方山へ行幸した。
- 王僧虔は開府儀同三司を固辞し、甥の王儉に、一門に二人も三公格の者が出るのは恐ろしいと語ったため、帝は特進にとどめた。
- 王儉が長梁斎をわずかに規格超過で建てると、王僧虔は不快感を示して入室せず、王儉は即日これを壊した。
- 王僧虔の一族については、祖父王弘が子孫の遊びぶりを見て、王僧達は才気はあるが家を危うくし、王僧綽は名義で評価され、王僧虔は長者として公台に至るだろうと評したが、実際その通りになった。
秋冬 外交・魏の婚姻制・地方政治
- 八月、王洪範が柔然から帰り、その行路は三万里余に及んだ。
- 十月、劉纘が魏へ使いした。魏の主客令李安世は、内蔵の宝物を市場で商人に売らせていた。劉纘が、魏では金玉が安いのは産出が多いからだろうと述べると、李安世は、魏朝ではそもそも金玉を重んじないから瓦礫同然に安いのだと答え、劉纘は恥じて買い漁るのをやめた。
- 劉纘はたびたび魏へ使いし、馮太后は私通したとも伝えられる。
- 十二月、日食があった。
- 北魏では同姓婚が初めて禁じられた。
- 王儉は衛将軍となり、選事にも参与した。
- 斉では巴州を省いた。
- 北魏秦州刺史于洛侯は残酷で、手首を切り舌を抜き、手足を吊るすような刑を常としたため、州民王元寿らが一斉に反乱した。魏主は使者を送り、洛侯がいつも刑を行っていた場所で民衆に宣告して斬った。
- また斉州刺史韓麒麟は寛政を重んじ、部下から威を示すために処刑すべきだと勧められても、民が法を犯していないのに何を斬る必要があるのか、どうしても威を示したいならお前を斬ると答え、部下を恥じ入らせた。