正月~三月 学校設置と太祖崩御
- 正月、学生二百人を置くことが定められ、張緒が国子祭酒となった。
- 魏では大赦があった。
- 三月、太祖は褚淵・王儉を召して遺詔を授け、太子を補佐させた。
- まもなく臨光殿で崩じた。五十六歳であった。
- 太子が即位し、大赦を行った。
太祖の人物評
- 太祖は深沈で度量が大きく、博学で文章にもすぐれていた。
- 性質は清倹で、宮中の主衣庫に玉の介導があるのを知ると、奢侈のもとだとして打ち砕かせ、珍物一般の取り締まりを命じた。
- 「自分に天下を治める時間が十年あれば、黄金と土を同価にしてみせる」と語ったとされる。
新政権の発足
- 褚淵が録尚書事、王儉が侍中・尚書令、張敬児が開府儀同三司となった。
- 王奐は尚書左僕射、豫章王嶷は太尉となった。
- 魏主は虎圈を臨み、猛獣を捕えて貢がせる慣習は人を傷つけ費用もかかるだけだとして、今後は禁止した。
四月 諡号・葬礼
- 太祖には高皇帝の諡、太祖の廟号が贈られた。
- 泰安陵に葬られた。これは一族先祖の葬地にあたる。
- かつて亡くなった太子妃裴氏は、皇后として追尊された。
六月~七月 永明政権の皇族編成と褚淵の死
- 六月、南郡王長懋が皇太子となり、その妃に王氏が立てられた。さらに子良・子卿・子敬・子懋・子隆・子真ら皇子に諸王の封が与えられ、皇孫昭業は南郡王となった。
- 褚淵は病が重く、自ら辞職を願ったが、新帝は許さなかった。なおも強く請うたため、司空・驃騎将軍・侍中・録尚書事へと形を変えて留任させた。
- 七月、北魏は州郡から五万人を徴発し、霊丘道を修築した。
- 吏部尚書江謐は諂佞でせっかちな性格で、太祖の遺詔に自分が加えられなかったことを恨み、病中の新帝を見て豫章王嶷に間者を通さず直接、至尊は快復しない、東宮も非才だ、どうするつもりかと迫った。
- これが露見し、沈冲の弾劾によって江謐は死を賜った。
- 癸卯、南康文簡公褚淵が死去した。子の褚賁は父の失節を恥じて官に就かず、爵位を弟に譲って墓所の傍らで一生を送った。
秋~冬 楊氏・李崇・景素の追葬
- 国喪のため国子学は停止された。
- 氐王楊文弘が死に、子らが幼かったため、兄の子の楊後起が嗣いだ。魏もこれを武都王としたが、文弘の子・楊集始は白水太守の地位を得てのち自立し、後起に破られた。
- 魏は荊州の巴氐が騒いだため、李崇を荊州刺史に任じた。彼は大軍護送を断り、数十騎だけで上洛に赴いて詔を宣し、民夷を安堵させた。捕虜も返還したため、斉との境も和らぎ、烽火の警報も絶えた。
- のち李崇は兗州刺史に移り、村ごとに太鼓付きの楼を設け、盗賊発生時に打ち鳴らして周辺が連携する制度を始めた。諸州はこれを模倣した。
- 王僧虔は左光禄大夫・開府儀同三司となり、王奐は湘州刺史に出た。
- 宋の旧建平王景素の主簿・記室だった何昌㝢・王摛、および彼らが推挙した劉璡が、前後して景素の徳を述べ冤を訴えたため、十月、士の礼をもって旧塋に改葬することが許された。
- 十一月、北魏高祖は自ら七廟祭祀を行うため、古制に拠る儀礼・祭器・楽章を整え、以後四時の常祀もこれに従うこととなった。