正月 淮陽方面の戦い
- 皇子の蕭鋒が江夏王に封じられた。
- 北魏軍が淮陽を攻め、角城の軍主成買を包囲した。
- 帝は李安民を都督として周盤龍らを救援に向かわせた。魏軍は淮沿いで大規模な略奪を行い、江北の民は驚いて江南へ逃れた。
- 成買は奮戦して戦死した。
- 周盤龍の子・周奉叔は二百人で魏陣深く突入し、一時は包囲された。戦死したとの報を聞いた周盤龍は、単騎同然で魏軍の中へ突撃した。奉叔も一度脱出しながら父を求めて再び戻り、父子二騎で敵軍を攪乱したため、魏軍はついに潰走した。殺傷は万を数えた。
- その後も李安民らは孫溪渚で追撃し、さらに魏軍を破った。
魏主の南巡と桓康の勝利
- 魏主は南巡して中山に至り、大赦を行った後、信都を経て肆州へ戻った。
- 斉の游撃将軍桓康は、再び淮陽で魏軍を破り、その勢いで樊諧城を落とした。
平城の法秀事件
- 平城では僧法秀が妖術で人心を惑わし、反乱を企てた。留守の苟頽が禁兵を率いて一網打尽にした。
- 法秀は頸骨を穿たれても神通があるなら貫通しないはずだと試され、市中を引き回された末に死んだ。
- 連座した百余人は反逆法で一族処刑に当たるとされたが、王叡の請いで首悪のみ厳罰とし、刑罰は五族誅から三族誅へ、さらに門誅へと軽減され、多くが救われた。
垣崇祖の再勝と南蛮校尉の廃止
- 垣崇祖は、前回の勝利後も魏の再侵攻を恐れ、下蔡の戍を淮東へ移していた。魏軍が来て旧城を壊そうとすると、崇祖は渡河してこれを撃ち、大勝した。
- 荊州では、従来は刺史とは別に重臣を南蛮校尉として置くことが多かったが、豫章王嶷の離任後、後任に挙げられた王奐が、戦後復興期に官職を増やしても害が多いと強く辞退したため、この官自体が廃止された。
魏の法改正と太后陵
- 魏主は肆州へ巡幸した後、平城へ戻った。
- 法秀事件に関連して、反逆罪の連座範囲が大幅に緩和され、多くの者が救済された。
- 魏主と文明太后は方山に赴き、太后はその景観を気に入って、将来ここに葬られることを望んだ。こうして寿陵が築かれ、山上には永固石室も設けられた。
桓標之ら淮北反乱の失敗
- 桓標之らは数万を集めて険要を守り、斉に援軍を求めた。朝廷は李安民・周山図らを送ったが、李安民の進軍は遅れ、桓標之らは魏軍に滅ぼされた。
- なお数千家は南帰できたが、魏も三万余口を略して平城へ連行した。
夏~秋 魏と周辺諸国
- 鄧至王像舒が北魏に朝貢した。鄧至は羌の別種で、宕昌南方の国である。
- 北魏の王叡が病没した。太皇太后と魏主はたびたび見舞い、死後は太宰を追贈し、平城南に廟を立てた。哀詩や誄文を作る者は百余人、喪送に連なる者も千余人に及んだ。
- 魏主はその子に王叡の職を継がせ、皇叔の簡・猛をそれぞれ斉郡王・安豊王に封じた。
- 七月、日食があった。
- 車僧朗が使者として魏に赴き、蕭道成の即位が早すぎると問われると、虞・夏と魏・晋の例を引いて、時宜が異なるだけだと答えた。
- 柔然の別帥他稽が衆を率いて魏に降った。
楊文弘の帰順と殷霊誕事件
- 楊文弘が使者を送り降伏を願ったため、斉は再び北秦州刺史に任じた。楊広香死後、その旧衆の半ばが文弘に、半ばが梁州に流れていた。
- 斉は表向き官爵を与えつつ、密かに楊公則へ命じて隙あらば文弘を討たせようとした。
- 宋末に魏へ使いしていた殷霊誕・荀昭先は、斉の受禅後も魏にあった。霊誕は魏に対し、宋と魏はもともと憂患を共にする間柄なのに、宋滅亡を救わぬのはなぜかと責め、劉昶の司馬を願い出たが許されなかった。
- 九月、魏の宴席で車僧朗は、いまや霊誕は斉の民なのだから、自分より下席に置くのは礼に反すると抗議した。霊誕は怒って口論し、劉昶は宋の降人・解奉君を買収して会中に僧朗を刺殺させた。
- 魏は奉君を捕えて処刑し、僧朗の遺体を丁重に送り返し、霊誕らも南へ帰した。後に荀昭先の報告で霊誕の過激発言が知られ、霊誕は獄死した。
柔然との通好と魏の淮北統治
- 柔然主は使者を送り、「足下」と対等な呼び方をし、自ら「吾」と称して獅子皮の袴褶を贈り、共に魏を討とうと誘った。
- 魏の尉元・薛虎子は五固を平らげ、司馬朗之を斬り、東南諸州を鎮定した。
- 尉元は中央へ戻って侍中・都曹尚書となり、薛虎子は彭城鎮将・徐州刺史となった。
- 薛虎子は、戍兵の私有する絹を屯田経営に回し、牛を買って兵に耕作させれば、数年で穀帛が潤い、江東攻略の基礎ができると上表した。魏はこれを採用した。
- 薛虎子は惠政で兵民に慕われた。沛郡太守邵安と下邳太守張攀が、虎子が江南と通じていると讒言したが、魏主は信じず、調査の結果虚偽と分かって、彼ら親子を処刑・鞭打ちした。
年末の諸国・法制
- 吐谷渾王拾寅が死に、世子度易侯が立てられ、西秦・河二州刺史、河南王に任じられた。
- 高閭らが新律を完成させた。門房誅など厳しい連座刑も含まれていた。
- 高昌では王位継承の混乱が続き、闞伯周の死後、子の義成が立ち、ついで従兄の首帰がこれを殺して即位したが、高車王可至羅が首帰兄弟を殺し、敦煌の張明を高昌王に立てた。だが国人は張明も殺し、馬儒を王とした。