資治通鑑齊紀一 太祖高皇帝 建元 二年 480年

正月 魏の攻勢開始

  • 正月、大赦があり、褚淵は司徒、王儉は左僕射となったが、褚淵はなお固辞した。
  • 帝は南郊を祭った。
  • 北魏の隴西公琛らが馬頭戍を抜き、太守劉従を殺した。
  • 北魏軍は鍾離を攻めたが、徐州刺史崔文仲がこれを撃退した。さらに崔孝伯に淮を渡らせて反撃させ、魏の茌眉戍主龍得侯らを殺した。

荊・司州境の蛮乱

  • 魏軍来襲に乗じて、荊・湘・雍・郢・司州境の蛮族が一斉に動いた。南襄城蛮の秦遠は潼陽を襲って県令を殺し、司州蛮も魏兵を引き入れて平昌に攻め寄せた。
  • 平昌戍主の荀元賓は司州蛮を破り、北上黄蛮の文勉徳も汶陽を襲ったが、豫章王嶷が劉伾緒を派遣すると、当陽で勉徳は降り、秦遠は逃走した。

薛道標・梁郡王嘉の動き

  • 魏将薛道標は寿陽へ向かったが、斉側が降伏を勧める書を送ると、魏は道標を召し返し、梁郡王嘉に交代させた。
  • 劉懐慰は劉乗民の子である。

二月 寿陽防衛戦

  • 二月、梁郡王嘉と劉昶が寿陽を攻めた。劉昶は四方に拝して将士を激励し、仇辱を雪ごうと涙ながらに訴えた。
  • これに対し、豫州刺史垣崇祖は外城を修復し、肥水を堰き止めて防衛する策を主張した。部下は、宋の南平王ですら外郭防衛を断念した前例を引いて反対したが、崇祖は、外城を棄てれば敵に利用されるだけだとして押し切った。
  • 崇祖は城西北で肥水に堰を築き、その北に小城を築いて囮とした。魏軍は案の定これに群がって攻め、堰を破ろうとした。
  • 夕刻、崇祖が決壊させると濁流が魏兵を襲い、塹壕に落ちた兵馬は多数溺死した。魏軍は退き、謝天蓋の部下も主人を殺して降った。

戸籍整理と巴州設置

  • 宋以来、政治の乱れで戸籍が錯誤だらけとなっていたため、黄門郎虞玩之らに戸籍の再点検を命じた。虞玩之は、元嘉二十七年の戸籍を基準とし、自首には一度だけ寛免を与え、それでも偽り続ける者は厳罰にすべきだと進言し、採用された。
  • 蛮の反乱が相次ぐため、荊州・益州を分けて巴州を設け、明慧昭を巴州刺史とした。
  • 当時の斉領内は名目上、州二十三・郡三百九十・県千四百八十五に及んだが、実態の乏しい郡県も多かった。

春末 三方での反撃

  • 崔文仲は軍主陳靖に竹邑を取らせ、崔叔延に睢陵を破らせて、魏の守将を殺した。
  • 三月、西昌侯蕭鸞が郢州刺史となった。帝の兄・始安貞王道生の子で、幼少で父を失い、帝に実子以上に愛されて育った。
  • 劉昶は長雨を理由に撤兵を願い、魏はこれを許し、馮熙を迎えに出した。

夏 建康防衛の整備

  • 建康宮の外城は晋以来竹籬だけであったが、白虎樽を発して諫言した者が、城門と竹籬の防備があまりに脆いと訴えた。これを受けて帝は都城の築き直しを命じた。

梁州で李烏奴を再破

  • 李烏奴がしばしば隙を見て梁州を侵したため、豫章王嶷は王図南に益州兵を率いさせて剣閣から回り込ませ、崔慧景には梁州兵を白馬に進めさせ、前後から挟撃した。
  • 李烏奴は大敗して武興に逃げ込んだ。

秋 太子妃の死と魏の再侵攻

  • 七月、皇太子妃裴氏が死去し、後に穆皇后と追諡される。
  • 南郡王長懋は西州へ移鎮したが、角城の戍主が城を挙げて魏に降った。
  • 八月、北魏は朐城・海西・連口・角城・下蔡など各方面から同時侵攻した。
  • 魏主は方山・武州山石窟寺を巡幸した。武州山には石窟寺院が営まれていた。
  • 崔慧景の長史裴叔保が武興の李烏奴を攻めたが、氐王楊文弘に敗れた。

九月~閏月 朐山防衛戦

  • 日食があった。
  • 柔然は使者を送り、和好を求めた。
  • 汝南太守常元真と龍驤将軍胡青苟が魏へ降った。
  • 閏月、李安民が清・泗の諸戍を巡行して防備を確認した。
  • 魏の梁郡王嘉は十万で朐山を囲んだが、戍主玄元度が固守した。青・冀二州刺史盧紹之は子の盧奐を援軍に送った。
  • ついに玄元度は魏軍を大破し、さらに朝廷が淮から海路で崔霊建ら一万人余を進め、夜ごと二本ずつ炬火を掲げさせると、魏軍は大軍到来と誤認して退却した。

十月~十二月 人事と褚淵批判

  • 王儉は吏部尚書の選官職を辞そうとし、代わって何戢がこれを兼ねた。帝は何戢に常侍を加えようとしたが、褚淵は貂蝉冠をいただく重臣が多くなりすぎると諫め、代わりに驍騎将軍を加える形となった。
  • 楊広香は西秦州刺史、その子楊炅は武都太守となった。
  • 北魏は馮熙・桓誕・賀羅を淮北へ進めたが、淮北四州の民は魏への帰属を喜ばず、斉の誘いもあって各地で蜂起し、司馬朗之を盟主に五固へ拠った。魏は尉元・薛虎子らを送って鎮圧した。
  • 丹楊尹王僧虔は、郡県の獄で病囚を「治療」と称して熱湯で殺す悪習があると上言し、病囚の扱いは刺史・郡守・医者の確認を経るよう改めさせた。
  • 楊難当の孫・楊後起が北秦州刺史・武都王として武興に置かれた。
  • 十二月、褚淵は再び司徒となって朝参したが、腰扇で顔を隠していたため、劉祥から「節を失った顔を隠しても無駄だ」と面罵された。祥は後に禅譲を批判する『宋書』を書いて流刑となり、配所で死んだ。
  • 太子の宴席でも、沈文季が褚淵を面前で「忠臣を自任するが、死後どんな顔で宋明帝に会うのか」と罵り、太子も笑って流した。
  • 年末、豫章王嶷は中書監・司空・揚州刺史となり、臨川王映が荊州方面九州の都督・荊州刺史となった。
  • 北魏では王叡が中山王に進み、王府官を整え、妻丁氏も王妃とされた。