資治通鑑齊紀一 太祖高皇帝 建元 元年 479年

春正月 皇族の要地配置と荊州統治の刷新

  • 正月、蕭嶷が江州から荊州へ移され、荊・湘など八州の軍事を統轄した。王延之は江州刺史となり、蕭子良は会稽方面を受け持った。上流の荊州と富裕な東南地域を、皇族・宗族で押さえる布陣である。
  • 蕭嶷は着任すると、沈攸之の時代に動員・拘束されていた者三千余人をすぐに解放し、倹約と軽刑・薄税を徹底したため、管内の評判は大いに良かった。
  • 竟陵世子の蕭賾が尚書僕射となり、中軍大将軍・開府儀同三司へ進んだ。

謝朏と王儉

  • 蕭道成は、名望の高い謝朏を自らの側近に引き入れようとし、魏・晋の禅譲の故事を引いてそれとなく同意を求めた。
  • しかし謝朏は、晋が魏に仕えた以上は臣として終わるべきで、仮に禅譲があっても辞退を重ねるのが徳だと答えたため、道成は不快に思った。
  • その後、謝朏は侍中に転じ、左長史には王儉が起用された。
  • 蕭道成の嫡長孫である蕭長懋が雍州刺史となった。

二月 魏の動静

  • 二月、北魏では太皇太后と魏主が代郡の温泉や西宮に移った。

三月 蕭道成が斉公となる

  • 日食があった。
  • 蕭道成は相国・総百揆となり、十郡を封地とする斉公に進み、九錫を加えられた。従来の驃騎大将軍・揚州牧・南徐州刺史はそのままとされた。
  • 斉国の官制や礼儀は、朝廷の制度にならって整えるよう命じられた。
  • 世子の蕭賾は南豫州刺史を兼ねた。

楊運長・臨川王綽事件

  • 宣城から帰郷した楊運長は、斉公の命で殺された。
  • 運長と親しかった凌源令の潘智に対し、臨川王綽は腹心の陳讚を通じ、宋の宗室として挙兵すべきだと誘った。
  • 潘智はこれを斉公に密告し、綽とその兄弟、党与は誅殺された。

斉公受命と謝朏の離脱

  • 蕭道成は正式に策命を受け、領内に恩赦を行い、石頭に世子宮を東宮にならって設けた。
  • 褚淵は、魏から晋への交代期に何曾が新王朝の官となった前例を引いて、自分も斉の官に移りたいと求めたが、許されなかった。
  • 王儉が斉国の尚書右僕射・吏部を兼ねた。まだ二十八歳であった。

夏四月 禅譲と斉の建国

  • 四月、斉公は斉王に進み、さらに十郡の加封を受けた。
  • 武陵王賛が病ではなく死去した。事実上、政変による死とみられる。
  • 斉王には特別の礼遇が加えられ、世子蕭賾は太子となった。
  • 宋の順帝は位を斉に譲る詔を下したが、当日、順帝は仏像の宝蓋の下に逃れて出ようとしなかった。王敬則が武装兵を率いて宮中に入り、太后も宦官を率いて探し出し、ようやく別宮へ移した。帝は涙ながらに、来世では帝王家に生まれたくないと語った。
  • 謝朏は当直の侍中として璽綬を解く役であったが、わざと応じず、最後まで非協力を貫いて退去した。代わって王儉がその役を務めた。
  • 順帝は画輪車で東邸へ移された。王琨は車に取りすがって慟哭し、晋・宋に続く禅譲を老臣として見届ける悲しみを嘆いた。
  • 百官は涙を流し、褚淵らは璽綬を奉じて斉宮に赴き、即位を勧進した。褚炤はこれを見て、褚淵が節を失ったと痛烈に非難した。
  • 甲午、蕭道成は南郊で即位し、大赦を行い、元号を建元と改めた。
  • 宋順帝は汝陰王に降され、丹陽に宮を築いて居住させ、兵で警護した。宋の宗廟神主も移され、劉氏諸王は公に降格された。
  • 旧宋宗室の封国の多くは廃止され、例外的に劉穆之・王弘・何無忌の後裔を祀るための封国だけが残された。
  • 二つの政権に属していた官僚は、しばらく現任のまま職務を代行し、余剰の定員整理は別途協議することとなった。

建国直後の人事・言論

  • 褚淵は司徒に任じられたが、禅譲への加担を批判され、強く辞退した。
  • 河東の裴顗は、帝の過失を数え上げる上表を出して官を捨てて去ったため、怒りを買って殺された。
  • 太子蕭賾は謝朏の処刑を求めたが、帝は、殺せばかえって名を成すとして退け、後に別件で失脚させて自宅に退けた。
  • 帝が政治の要諦を問うと、劉瓛は『孝経』に尽きるとし、宋が失った理由も斉が得た理由もそこにある、寛厚を守れば危うくても安んじ、前代の失政を踏襲すれば安くても危ういと答えた。帝はこれを高く評価した。

荊州・軍事の再編

  • 蕭嶷は尚書令・驃騎大将軍・揚州刺史となり、南兗州刺史の蕭映が荊州刺史へ移された。
  • 帝は群臣に得失を言わせ、劉善明・崔祖思・蕭子良・劉思效らが、宋末以来の苛政・重税・使者横行・奢侈風俗・交州経営などについて意見を述べた。帝はおおむねこれを褒め、有司に施行を検討させた。
  • さらに、皇族が私的な屯邸を作り、山湖を囲い込むことを禁じた。

魏の粛清と監察制度の縮小

  • 北魏では、秦州刺史の尉洛侯、雍州刺史の宜都王目辰らが貪虐により処罰され、候官の制度も、賄賂を受けて重罪を見逃し軽罪をあげつらう弊害が大きいとして大幅に整理された。以後、街路の秩序維持程度に縮小され、吏民はようやく安堵した。

募兵停止と宋宗室の誅殺

  • 宋末以来の内外の不安から、将帥が私的に募っていた部曲・駐屯兵を整理し、淮北防衛など必要部分を除いて帰還させる方針が採られた。
  • 五月、私募兵の停止が命じられ、褚淵・王儉ら建国功臣に賞賜が行われた。
  • 何点は、褚淵と王儉がともに名門・外戚の地位を頼って国家を顧みなかったと皮肉った。
  • 汝陰王(旧宋順帝)の邸に馬で駆け抜ける者がいたため、衛士が騒乱を恐れて汝陰王を殺し、病死として報告した。帝はこれを咎めず、かえって褒賞した。
  • 続いて宋の宗室である陰安公燮らも、老若を問わず殺された。劉澄之一族だけは、褚淵の助命で免れた。

六月 皇族封建と交州問題

  • 帝の父母は宣皇帝・孝皇后と追尊された。
  • 皇子たちと皇孫長懋に諸王の封が与えられた。
  • 垣崇祖は、北魏が劉昶を擁して南侵すると見込まれたため、寿陽防衛の要として豫州刺史へ移された。
  • 姚道和は、かつて沈攸之と通じた疑いで誅殺された。
  • 宋順帝は遂寧陵に葬られた。
  • 建康の住民統制のため符伍制度を設けようとしたが、王儉が京師では煩雑で実効も乏しいと諫め、取りやめとなった。
  • 交州では李長仁の死後、従弟の李叔献が州務を代行していた。宋が沈煥を刺史に任じたものの、叔献はその任命を利用して人心を掌握し、険所を守って沈煥を受け入れず、煥は鬱林で病死した。

秋七月 交州宥免と北辺

  • 朝廷は、交州の離反は前代末期の混乱によるものとして、交州を特赦し、李叔献をそのまま刺史とした。
  • 北魏の葭蘆鎮主楊広香が降り、沙州刺史に任じられた。

八月~九月 北魏の侵攻に備える

  • 北魏主は方山へ赴き、寿陵予定地の視察を重ねた。
  • 魏の侵攻の噂を受け、九月、豫章王嶷が荊・湘二州刺史となり、臨川王映は揚州刺史となった。褚淵は尚書令を兼ねた。
  • 北魏では東陽王丕が太尉、陳建が司徒、茍頽が司空となり、安楽王長楽は反逆を企てて死を賜った。

十月 范柏年の死と梁州の乱

  • 汝陰王太妃王氏が死去し、「宋恭皇后」と諡された。
  • 梁州では李烏奴・白水氐楊成が反乱したが、刺史范柏年はいったん彼らを降し、楊成を破った。
  • その後、沈攸之の乱の際に范柏年が軍を動かして形勢を観望したこと、さらに胡諧之への私怨も重なり、范柏年は襄陽に誘い出されて死を賜った。
  • 李烏奴は再び氐の楊文弘と結んで梁州に侵入し、白馬戍を落としたが、王玄邈の偽降策にかかって州城を急襲し、伏兵に大敗して逃走した。
  • 王玄邈はかつて蕭道成が疑われた際に北魏と通じる書簡を拒んだ経緯があり、帝は今回の戦功を見て、やはり自分の期待を裏切らなかったと喜んだ。玄邈の長史だった房叔安は、その忠節を買われながら任用前に病死した。

十一月 魏の大挙南侵

  • 皇太子妃に裴氏が立てられた。
  • 北魏は梁郡王嘉・隴西公琛・薛虎子らに兵を分け、劉昶を奉じて淮陰・広陵・寿陽方面へ侵攻させた。劉昶を旧業復興の旗印とし、江南を魏に服属させる構想であった。
  • 蛮酋の桓誕も前駆を願い、南征西道大都督とされた。
  • 義陽の謝天蓋が司州刺史を称して魏に附こうとし、韋珍が淮を渡ってこれを支援した。斉側では蕭景先・蕭恵朗らが討ち、韋珍は七千余戸を奪って退いた。史料には齟齬があるが、大勢はこのような攻防であった。
  • 南兗州刺史王敬則は魏軍来襲の報を聞いて鎮を捨てて建康へ戻り、民心を動揺させたが、結局魏軍が来なかったため罪には問われなかった。
  • かつて蕭道成が北魏挟撃を狙って柔然と結んでいたため、この年、柔然十余万騎が北魏の塞外に現れたが、そのまま引き返した。

年末の魏事情

  • 北魏では高允に律令の整備を命じ、老齢の彼に手厚い待遇を与えて政務を諮った。
  • 契丹の酋長・莫賀弗勿干が一万余戸を率いて北魏に帰属し、白狼水東に住まわされた。