資治通鑑宋紀十六 順皇帝 昇明元年 477年

春正月・順帝即位後の北魏

  • 春正月乙酉朔、北魏は元号を太和に改めた。
  • 己酉、略陽の民・王元寿が衆五千余家を集め、自ら衝天王と称して反した。
  • 二月、北魏の秦州・益州方面の刺史尉洛侯がこれを撃破した。
  • 三月、北魏では東陽王丕が司徒となった。
  • 四月、北魏の主は白登、ついで崞山に行幸した。

蒼梧王の放縦

  • 蒼梧王は東宮時代から奇矯で、漆の帳竿に登るなど危うい遊びを好み、喜怒も常軌を逸していた。太宗はその母の陳太妃に命じて厳しく折檻させていた。
  • 即位当初は太后・太妃や大臣たちを恐れて節度を保っていたが、のち次第に抑えが利かなくなり、しばしば外出した。
  • まずは車駕や儀衛を整えて出るものの、すぐに捨てて少人数で市中や郊外を歩き回り、ときに宿屋に泊まり、道ばたに寝そべり、下層民と雑談や物のやりとりまでした。
  • 生母陳太妃は青蓋の犢車で後を追い、監督しようとしたが、帝が軽騎で遠くへ走ってしまうため、ついに追跡できなくなった。
  • 帝は自らを「劉統」あるいは「李将軍」と名乗り、小袴・短衣で町々を貫き歩いた。衣服づくりなど卑近な技芸にも器用で、笛の類も手に取ればすぐ調子を合わせた。
  • 京口平定後はさらに驕横になり、朝夕を問わず出歩いては、行き会う男女や犬馬牛驢にまで害を加え、針・椎・鑿・鋸を持ち歩いて、気に障ればたちまち切り刻んだ。民間は恐怖で閉ざされ、商売も絶えた。

阮佃夫らの廃立計画と失敗

  • 阮佃夫と直閣将軍申伯宗らは、帝が江乗で雉を射る時に太后の命令と称して隊仗を引き返させ、城門を閉じて帝を捕え、安成王準を立てようとした。
  • しかし計画は露見し、甲戌、帝は阮佃夫らを捕えて殺した。
  • 太后はしばしば帝を訓戒したが、帝は快く思わなかった。端午に太后から贈られた扇が地味だとして、太医に薬を煮させて太后を毒殺しようとしたが、側近に「そうなれば喪に服する孝子として自由に出歩けなくなる」と諫められ、思いとどまった。

六月・連坐処刑と暴虐の極み

  • 六月甲戌、阮佃夫と共謀したとして杜幼文・沈勃・孫超之らが告発されると、帝はみずから衛士を率いて三家を急襲し、一族に至るまでことごとく殺した。幼児まで免れなかった。
  • 沈勃は喪中で倚廬にいたが、帝が先頭で踏み込むと、死を悟って帝の耳をつかみ、唾を吐いて罵り、「桀・紂よりも罪が重い」と言い残して殺された。
  • この日、大赦が行われた。

蕭道成への敵意と廃立論

  • 帝はかつて領軍府に突然押し入り、暑中に昼寝していた蕭道成を裸のまま立たせ、腹を的にして弓を射ようとした。王天恩がなだめて骨鏃でない箭に替えさせたが、それでも命中させて笑った。
  • 道成の名望を忌んで「明日殺す」と口にすることもあったが、陳太妃が「道成は国家に功がある」と諫めて取りやめさせた。
  • 道成は恐怖を深め、袁粲・褚淵と廃立の相談をした。袁粲は、幼主には過ちがあっても改めうるので、伊尹・霍光のような事は末世に行うべきでないと反対した。褚淵は沈黙した。
  • 功曹の紀僧真は道成に、天下の期待はもはや袁粲・褚淵ではなく道成にあると説き、決断を促した。
  • 一時は広陵や郢州兵を頼って挙兵する案も出たが、劉善明・垣栄祖・紀僧真・順之・蕭嶷らは、遠くに走れば根拠を失い、かえって危ういと諫めたので道成は思いとどまった。
  • 李安民が江夏王躋を奉じて東方で兵を起こすことを望んだが、道成はこれも止めた。

王敬則ら、宮中での内応を整える

  • 越騎校尉王敬則は密かに蕭道成に結び、夜ごとに青衣姿で道を這い回って帝の出入りを探った。
  • 道成は敬則に命じて、楊玉夫・楊万年・陳奉伯ら帝の近習二十五人を殿中で内応させる手はずを整えた。

七月・蒼梧王弑逆と順帝擁立

  • 七月丁亥夜、帝はまた領軍府の門まで来たが、その夜は押し入らず、翌夜にすると言って去った。
  • 戊子、帝は露車に乗って台岡で賭け事をし、青園尼寺から新安寺へ行き、狗を盗んで僧に煮させ、酒に酔って仁寿殿へ帰って眠った。
  • その夜、帝は急に楊玉夫を憎み、「明日には殺して肝肺を取る」と言ったうえ、織女が河を渡るのを見張れと命じ、見えなければ殺すと脅した。
  • 宮中の閤門は夜も閉じられず、宿衛も恐れて逃げ、誰も秩序を保てない状態だった。
  • 帝が熟睡すると、楊玉夫と楊万年は防身刀を奪って帝を斬り、陳奉伯が首を袖に隠して詔命の形式を装い、承明門から王敬則に渡した。
  • 王敬則はそれを持って領軍府へ急行し、蕭道成に示した。道成は真偽を疑って開門しなかったが、首が投げ入れられると確認し、武装して入宮した。
  • 宮中は恐怖に包まれたが、蒼梧王の死を知ると一転して万歳を唱えた。

会議での主導権掌握

  • 己丑の朝、蕭道成は太后の命と称して袁粲・褚淵・劉秉を召した。
  • 劉秉に判断を求めると、道成の威圧の前に「軍国の処分は一切領軍に委ねる」と答えた。袁粲も引き受けなかった。
  • 王敬則は抜刀して脅し、白紗帽を道成の頭にかぶせて即位まで迫ったが、道成は表向きはこれを叱った。
  • 褚淵は「蕭公でなければ収拾できない」として自ら政務を委ねた。
  • こうして法に則る手順を整え、東城へ安成王を迎えに行くことが決まった。

順帝の即位

  • この日、太后の令として蒼梧王の罪悪が列挙され、安成王準が万国を治めるにふさわしいと宣言された。昱は蒼梧王に追封された。
  • 安成王は袁粲の到着を待って東府門を開かせ、朝堂に入った。胡三省は、これにより袁粲が当時の人望の中心であったことがわかるとする。
  • 壬辰、安成王準が即位し、時に十一歳。元号を昇明と改め、大赦が行われた。
  • 蒼梧王は郊壇の西に葬られた。

即位後の政局と蕭道成の台頭

  • 北魏では京兆康王子推が卒した。
  • 甲午、蕭道成は東府に鎮し、丙申には司空・録尚書事・驃騎大将軍となった。
  • 袁粲は中書監へ、褚淵は開府儀同三司を加えられ、劉秉は尚書令・中領軍となった。
  • 晉熙王爕を揚州刺史としたが、劉秉が当初考えた「宗室が尚書を領すれば天下は安定する」という見立ては外れ、道成が軍政のすべてを自専し、袁粲・劉秉は手をこまねいて成り行きを見るだけになった。
  • 八月、袁粲に石頭鎮守が命じられた。ふだんは静かで官命を固辞する人柄だったが、この時は道成の不臣の志を察して、即座に受け入れ、ひそかに討つことを図った。
  • 戊辰、順帝を養育した陳昭華の母を皇太妃とした。
  • 北魏では工商や賤民の家の子弟について、官吏がみだりに登用することを禁じる詔が出された。ただし勲功のある者は例外とされた。

北魏・李訢処刑

  • 九月、北魏は律令を改定した。
  • 十月、仇池の氐族首長楊文度が弟の楊文弘を遣わして北魏の仇池を襲わせ、これを陥とした。
  • 李訢はかつて顕祖に信任され、范摽を側近として用いていたが、弟李瑛は、范摽は利に敏く恩義に薄い人物だと早くから警告していた。
  • 李訢は趙黒とともに選曹を掌っていたが、互いに私怨を深め、趙黒は一度失脚後に復権した。
  • 顕祖の死後、趙黒は馮太后に対し李訢を専横だと讒言し、范摽も太后が李訢を怨んでいるのを知って、訢に謀反の疑いをかけた。
  • 訴えられて平城に召還された李訢は無実を主張したが、対決の場で范摽に裏切られた。訢は、かつて自分が李敷を裏切ったことを持ち出されて返す言葉を失い、ついに処刑された。
  • 丙子、李訢とその子らは誅された。趙黒はこれで初めて恨みを晴らし、平然と食事も睡眠も取れるようになった。

北魏・伊祁苟の反乱と張白沢の諫言

  • 十一月、北魏は皮歓喜ら三将軍に四万を与え、楊文弘討伐に向かわせた。
  • 丁亥、懐州の民・伊祁苟が自ら堯の後裔と称し、重山で反乱した。
  • 洛州刺史の馮熈がこれを鎮圧したが、馮太后は城中の民を皆殺しにしようとした。
  • これに対し雍州刺史張白沢は、逆党はすでに討たれ、城中には忠良の士もいるのに、善悪を問わず皆殺しにするのは不仁だと強く諫め、太后はこれをやめた。

年末・仇池情勢と沈攸之の不穏

  • 十二月、皮歓喜の軍が建安に達すると、楊文弘は城を棄てて逃走した。
  • そのころ宋では、沈攸之に対して以前から疑いがあった。高道慶が江陵から戻って「反状がすでに成っている」と訴えたこともあったが、蕭道成はこれを保証して取り上げなかった。
  • 一方、楊運長らは密かに刺客を送って沈攸之を殺そうとしたが、成功しなかった。
  • 蒼梧王弑逆の後、宗儼之・臧寅らは沈攸之に挙兵を勧めたが、長子元琰が建康にいたため、攸之はまだ決断していなかった。
  • やがて蕭道成は元琰を江陵へ返し、蒼梧王の遺体が無残に切り裂かれた様子まで見せて攸之を懐柔しようとした。
  • しかし攸之は、道成が突然朝権を独占したことに不満を抱き、「王凌のように死ぬことはあっても、賈充のように生きるつもりはない」と語った。
  • それでもすぐには兵を起こさず、まずは上表して新帝即位を賀し、元琰を江陵に留めた。
  • 張敬児は攸之の挙兵を疑い、劉攘兵に探りを入れた。攘兵が言葉を濁して馬鐙一隻だけを送ったのを見て、張敬児は備えを固めた。
  • 沈攸之は、明帝からの誓約書だと称する文書を裲襠の中に秘蔵していた。挙兵に先立ち妾崔氏が一族のためにも自重を勧めたが、攸之は太后からの密命だと言ってこれを切り開き、そこから「社稷の事は一切公に委ねる」とある手令を示した。
  • こうして使者を諸州に送り、張敬児・劉懐珍・范柏年・姚道和・庾佩玉・王文和らに同時決起を呼びかけた。
  • だが張敬児・劉懐珍・王文和は使者を斬って朝廷に報告し、王文和はまもなく巴陵を棄てて夏口へ逃げた。范柏年・姚道和・庾佩玉は態度を決めかねた。

沈攸之の檄と朝廷の備え

  • 辛酉、沈攸之は孫同らを次々に東下させ、自身も蕭道成に書を送り、少帝の廃立は本来、太后に奏して行うべきで、なぜ左右と結んで弑逆に至ったのかと非難した。
  • さらに、旧臣を除いて親党を配置し、宮禁の鍵まで家人に握らせているのは霍光や諸葛亮の遺訓ではない、自分は申包胥のように宋を救う節義を捨てないと主張した。
  • 朝廷はこれを聞いて恐れ、丁卯、蕭道成は朝堂に入って守り、東府には蕭嶷、京口には蕭映を置いた。
  • 戊辰には内外に戒厳を布き、己巳に武陵王贊を荊州刺史、庚午に黄回を郢州刺史兼前鋒都督として沈攸之討伐に充てた。

郢州・湓口の防備

  • 道成の子蕭賾は、もと晉熙王爕の長史として郢州の実務を執り、以前から攸之に備えて兵器を整えていた。
  • 爕が揚州に移ると、蕭賾は左衛将軍として同行したが、劉懐珍は夏口を押さえる要地には適任者が必要だと進言した。
  • 蕭賾は柳世隆を後任として薦め、道成は武陵王贊の長史として郢州を委ねた。
  • 出発に際して賾は世隆に、攸之がもし夏口の舟艦を焼いて一気に東下すれば制し難いが、郢城攻めに引き止められれば内外から挟撃して必ず破れると語った。
  • 賾自身は尋陽に至った際、建康へ急行すべきだという意見を退け、湓口に拠って内は朝廷を守り、外は夏口を援けるべきだと判断した。
  • 周山図も「衆心が一つなら江と山がそのまま城郭になる」と賛成し、旬日のうちに楼櫓と水柵が築かれた。道成はこれを聞いて「賾はまさしく我が子だ」と喜んだ。
  • 江州刺史の邵陵王友も、尋陽城は守りにくいとして湓口へ移された。

王蘊・袁粲・劉秉らの反道成計画

  • 王蘊は湘州罷免後に巴陵へ至り、沈攸之と深く結んでいた。攸之挙兵前には郢州で蕭賾を、のち建康では蕭道成を弔問の場で討とうとしたが、いずれも実行できなかった。
  • そこで袁粲・劉秉と密議し、黄回・任候伯・孫曇瓘・王宜興・卜伯興ら将帥もこれに通じた。
  • 蕭道成は袁粲のもとへ行ったが、粲は会おうとしなかった。袁達は露骨に違いを見せるべきでないと進言したが、粲は「もし自分が幼主と時難を理由に台城へ引き込まれれば拒む言葉がない」と懸念した。
  • 一方で道成は褚淵と席を並べて万事を共にし、劉韞が領軍将軍として門下省に入り、卜伯興が直閤、黄回ら諸将が新亭に屯した。
  • 褚淵は、かつて自分が服喪中に袁粲の説得で出仕したのに対し、後年粲が服喪すると自分の説得を受けず、これを怨んでいた。
  • 沈攸之の件が起こると、褚淵は道成に「外患は成らず、まず内を備えるべき」と助言し、粲らを先に備えるよう促した。
  • 袁粲側では褚淵に計画を知らせるべきでないという声もあったが、粲は旧情を信じて計画を告げてしまった。淵は直ちにそれを道成に通報した。

石頭の変

  • 道成は、蘇烈・薛淵・王天生らを「援軍」として袁粲の石頭守備に送りこんだ。薛淵は泣いて固辞したが、強いて行かされた。
  • また王敬則を直閤にして、卜伯興とともに禁兵を総べさせた。
  • 袁粲の計画は、太后の令を偽り、劉韞・卜伯興に宿衛兵を率いさせて朝堂の道成を襲い、黄回らが外から呼応するというものだった。劉秉・任候伯らは石頭に赴く手はずで、壬申夜を決行日とした。
  • ところが劉秉は狼狽して晩のうちから一家を引き連れ、堂々と石頭へ走ってしまったため、計画が露見した。王遜らがこれを道成に通報し、事は一挙に明るみに出た。
  • 王敬則は閤門が閉じられた後、屋壁を鋸で破って中書省に入り、劉韞を捕らえてその場で殺し、卜伯興も殺した。
  • 蘇烈らは倉城を拠って袁粲を拒み、王蘊は兵数百を率いて南門に向かったが、薛淵に射られて粲が敗れたと思い、散って逃げた。
  • 道成は戴僧静に数百を与えて石頭へ向かわせ、倉門から入れて蘇烈らと挟撃させた。
  • 孫曇瓘や王天生は勇戦したが、夜半から丑刻に至るまでの攻防の末、戴僧静が西門を焼き、城内は乱れた。
  • 袁粲は東門で火を見て府へ戻ろうとしたが、劉秉は二子とともに城を越えて逃走した。
  • 粲は子の袁最に「大廈の崩れるのを一本の木で支えられないと知りつつ、名義のためにここまで来た」と語った。やがて僧静が暗中から斬り込み、袁最が身を挺して父を守った。粲は「私は忠臣の名を失わず、お前は孝子の名を失わぬ」と言って父子ともに討たれた。
  • 百姓は袁粲を哀れみ、「石頭城で袁粲のために死ぬことはあっても、褚淵のように生きたくはない」と歌った。
  • 劉秉父子は額檐湖で捕えられ、斬られた。
  • 任候伯らは石頭へ船で向かったが入れず、引き返した。黄回も決行予定だったが、事が漏れたと知って動かなかった。
  • 道成は黄回をとがめず、以前通りに遇した。
  • 王蘊は先に捕えられて斬られ、孫曇瓘は逃亡した。
  • 袁粲の典籤莫嗣祖は計画の仲介役であったが、取り調べに対し「恩に報いることしか知らぬ」と言って屈せず、王蘊を匿った張承伯とともに赦され、かえって用いられた。
  • 袁粲は人望はあったが政務の才に乏しく、酒と吟詠を好んで実務を処理せず、そのため敗れたと論評されている。

石頭の変後の処置

  • 甲戌、大赦。
  • 王僧虔が左僕射、王延之が右僕射、張岱が吏部尚書、王奐が丹陽尹となった。
  • 劉秉の弟劉遐は呉郡太守であったが、張瓌が機会を見て斎中に突入し、これを斬った。蕭道成はその果断を賞して張瓌を呉郡太守に任じた。
  • 道成は閲武堂へ移り、なお黄回に重兵を与えて西方に配置したが、腹心を付して監視した。
  • 閏月、王宜興が黄回の謀反を密告することを恐れた黄回は、口実を設けて王宜興を斬った。
  • しかし諸将が黄回の反乱を心配すると、道成は「彼には大事をなす力はない」として落ち着いて対処した。

沈攸之、東下を開始

  • 沈攸之は孫同ら五将に三万を先発させ、劉攘兵ら五将に二万を率いさせて続かせ、さらに王霊秀らには夏口から分兵して魯山を押さえさせた。
  • 閏月癸巳、攸之自身が夏口に到着した。
  • 攸之は兵力を恃んでおり、郢城のような小城は攻めるに足らず、安西将軍に挨拶してしばらく黄鵠のあたりに留まるだけだ、などと軽んじた。
  • 柳世隆に対しても、「太后の命で一時都へ帰るだけだ」と告げた。
  • 柳世隆は「郢城は小さいが自ら守るだけだ」と応じた。
  • 宗儼之は郢城攻略を勧めたが、臧寅は城攻めは時日を要し、そのあいだに勢いが衰えるから、まっすぐ東下すべきだと主張した。
  • 攸之はいったんその意見に従って郢城に偏師を残し、自ら大軍を率いて東へ向かおうとした。

郢城包囲へ転換

  • ところが出発前、柳世隆は西渚から挑発して攸之を罵り、焦度は城楼上から公然と侮辱した。
  • 攸之は激怒して計画を変え、郢城攻撃に全力を注ぐことにした。
  • 城外の町を焼き払い、長囲を築き、昼夜を分かたず攻めたが、柳世隆は臨機応変に応戦して破られなかった。
  • 蕭道成は沈文季に命じ、沈攸之の弟である新安太守登之を捕えてその一族を誅した。胡注は、これは沈慶之を沈攸之が殺したことへの報復でもあるとする。
  • 乙未、楊運長は宣城太守に出され、太宗以来の嬖臣はついに禁省から一掃された。
  • 尚書左丞の江謐が蕭道成に黄鉞を仮すことを建議し、認められた。

北魏と氐族

  • 北魏は武都王楊文度に北秦州刺史・都督北秦雍二州諸軍事を加え、楊文弘を略陽太守とした。
  • しかし壬寅、皮歓喜が葭蘆を奪い、楊文度を斬った。北魏は楊難当の一族広香を陰平公に封じ、葭蘆戍主としたうえ、歓喜に駱谷城築造を命じた。
  • 楊文弘は罪を謝して子を北魏に入侍させ、北魏は彼を南秦州刺史・武都王に任じた。

新亭での情勢判断

  • 乙巳、蕭道成は新亭に出て陣し、江淹に天下の形勢を問うた。
  • 江淹は、道成には武略・寛仁・人材結集・民望・朝廷奉戴という五つの勝因があり、沈攸之には器量の狭さ・恩の無さ・兵の離散・士大夫の不支持・遠征の不利という五つの敗因があると論じた。
  • 劉善明も、攸之は十年にわたって異志を蓄えてきたが、軽躁で大局を担う器ではなく、挙兵後も決断が遅れて人心も離れており、もはや籠の中の鳥にすぎぬと評した。
  • 周山図も蕭賾に対し、攸之は性格が険刻で人望がなく、堅城の下に兵を留めた時点で瓦解へ向かっていると語った。