春正月・皇帝の親耕と大赦
- 春正月己亥、宋の皇帝は籍田で親ら耕作の儀礼を行い、大赦を実施した。
北魏・献文帝の死と馮太后の再度の専政
- 二月、北魏では司空の東郡王陸定国が、恩寵を頼みにして法を犯したとして官爵を奪われ、兵士に落とされた。
- 夏六月、北魏の顕祖(献文帝)が急死した。胡三省は、史書に明白な殺害記事はないが、天文記事などから見て、馮太后による毒殺の疑いが濃いと整理している。
- その翌日に大赦があり、元号は承明に改められた。顕祖は金陵に葬られ、諡を献文皇帝とされた。
- 北魏では大司馬・大将軍の万安国が、詔を偽って神部の長である奚買奴を殺した罪で死を賜った。
- 戊寅、安楽王長楽を太尉、宜都王目辰を司徒、李訢を司空に任じた。
- 馮太后は皇太后から太皇太后となり、幼い高祖に代わって再び臨朝称制した。以前にも高宗没後に幼帝を補佐したことがあるが、今回は高祖がなお幼少であったためである。
北魏・馮太后の政治と側近たち
- 馮熈は外戚として重用されたが、宮中での常職を辞退したため、洛州刺史に出されつつ侍中・太師の号はそのままとされた。
- 献文帝の神主を太廟に祔した際、執事官一同に爵位を与える先例に従うべきだという議論が出たが、程駿が「一時の恩典を永遠の制度にしてはならない」と諫め、太后もこれを容れて取りやめた。
- 馮太后は聡明で事務にも政治にも通じ、生活は質素だったが、猜疑心が強く権術を多用した。高祖は孝行で何事も太后に委ね、太后はしばしば皇帝に知らせず専断した。
- 宦官や近習の王琚・張祐・杞嶷・王遇・苻承祖・王質ら、また太卜令から抜擢された王叡などが太后の寵を受けて権勢を振るい、巨額の賞賜や鉄券まで与えられた。
- 李冲のように才能で進んだ者もいたが、同時に私恩による昇進も多かった。太后は一方で東陽王丕や游明根ら世望ある人物にも厚遇し、偏私に見えぬよう装った。
- 太后は自らの不行跡を人に議論されることを恐れ、少しでも疑いがあれば殺した。ただし寵臣が小さな過失を犯した時には、厳罰を与えても後では元通り遇し、かえって富貴に至る者もあったので、側近たちは離反しなかった。
建平王景素の反乱計画
- 宋では蕭道成が尚書左僕射に加えられ、劉秉が中書令、楊運長・阮佃夫らは建平王景素への警戒と猜忌をいっそう強めた。
- 景素は殷濔・垣慶延・沈顒・左暄らと、自衛のための挙兵を相談し、建康の武人たちとも密かに連絡した。
- 黄回・高道慶・曹欣之・韓道清・郭蘭之・垣祇祖ら不遇の武人の多くが景素の側に通じた。
- 当時の皇帝はしばしば単独で郊外へ出歩いており、その隙を突いて石頭城を押さえ、あるいは蕭道成を巻き込んで帝を拘束し景素を迎える案も出たが、道成は同意しなかった。
- 楊運長・阮佃夫は計画の気配を察し、周天賜を偽って景素に投じさせて決起を促したが、景素は見破って斬り、その首を朝廷へ送った。
秋七月・景素が京口で挙兵
- 七月、垣祇祖が建康から京口へ奔り、「都はすでに乱れている」と景素に告げて速やかな進軍を促した。
- 景素はこれを信じて戊子に京口を拠点として起兵し、兵民の参加は数千に上った。
- 朝廷側ではただちに戒厳が敷かれ、任農夫・黄回・李安民・張保らに討伐を命じ、さらに段仏栄を都統とした。胡三省は、都統の名称はここに初めて見えると注する。
- 蕭道成は黄回に異心があると知っていたため、李安民・段仏栄を同行させて牽制した。
- 道成は玄武湖に屯し、子の蕭賾を東府に置いた。
- また、建安王休仁の子である始安王伯融と都郷侯伯猷は、楊運長・阮佃夫に年長であることを忌まれ、詔を称して自殺させられた。
京口攻防と景素の敗死
- 景素は竹里を断って官軍を防ごうとしたが、垣慶延・垣祇祖・沈顒は、遠来の官軍を疲れさせてから迎撃すべきだと主張し、方針は定まらなかった。
- 任農夫らが到着すると、市街に火を放った。景素側の諸将は互いに様子見となり、戦意を失った。
- 黄回も段仏栄の目があり、また景素軍の弱さを見てついに動かなかった。
- 張保の水軍に対して景素側の勇士数十人が自発的に突撃し、一度は破ったが、諸軍が続かず逆に官軍に敗れた。
- 官軍が城下に迫ると、沈顒を先頭に景素軍は次々と逃走し、左暄のみが万歳楼の下で奮戦したが支えきれなかった。
- 乙未、京口は陥落した。先に入城した黄回は「諸王は殺さない」との誓いがあったため、自らは手を下さず張倪奴に委ね、景素は捕らえられて斬られた。三人の子も殺され、垣祇祖ら同党数十人も処刑された。
- 蕭道成は黄回・高道慶を追及せず、旧来通りに遇して味方の不安を抑えた。
- この日、戒厳は解かれた。
巴東・建平蛮反乱と沈攸之への疑惑
- もともと巴東・建平の蛮族反乱を沈攸之が討っていたが、景素の乱が起こると峡中の軍を急ぎ建康へ向けた。
- しかし巴東太守劉攘兵と建平太守劉道欣は、攸之に異心があるのではと疑って峡を封鎖した。
- 劉攘兵の子の劉天賜が荊州西曹であったため、攸之は天賜を派遣して説得し、攘兵は景素が真に反乱したことを知って謝罪した。
- だが劉道欣はなお建平に拠って抵抗したため、劉攘兵は蛮討伐軍と合流してこれを討ち取った。
北魏・高祖の母の追尊と諸王冊立
- 八月、北魏の高祖は生母の李貴人を思皇后と追尊した。胡注は、これは李氏一族が後に貴くなる伏線でもあると見る。
- 同月、宋では皇弟の翽を南陽王、嵩を新興王、禧を始建王に封じた。
- 庚午、阮佃夫は南豫州刺史となり、京師に留まって守備に当たった。
- 九月、高道慶は死を賜った。
- 十月、王僧虔が尚書左僕射となった。
- 十一月、北魏では安楽王長楽が定州刺史、李訢が徐州刺史に出された。