資治通鑑宋紀十五 蒼梧王 元徽 二年 474年

正月〜三月 北魏の使節

  • 正月丁丑、北魏の太尉源賀が病により罷免された。
  • 二月甲辰、北魏太上皇が平城に帰還した。
  • 三月丁亥、北魏から員外散騎常侍許赤虎が来聘した。

五月 桂陽王劉休範の反乱準備

  • 五月壬午、桂陽王劉休範が反乱を起こした。
  • 民船を奪い、部隊ごとに人数に応じて配分し、材木を渡して短期間で艤装を整えさせた。
  • 丙戌、劉休範は二万の兵と五百騎を率いて尋陽を発し、昼夜兼行で東下した。
  • 書を諸執政に送り、楊運長・王道隆が先帝を惑わせて建安王・巴陵王を無実のまま殺した、二人を引き渡して冤魂に謝れと主張した。

五月 建康朝廷の対応

  • 庚寅、大雷戍主杜道欣が急報をもたらし、朝廷は大いに狼狽した。
  • 褚淵・張永・劉勔・劉秉・蕭道成・戴明宝・阮佃夫・王道隆・孫千齢・楊運長らが中書省に集まったが、誰も方針を決められなかった。
  • 蕭道成は、過去の上流反乱はいずれも対応の遅れで失敗した、今回は敵もそれを学んで軽兵急進してくるはずだ、遠征はせず新亭・白下・宮城・東府・石頭を固め、孤軍で補給のない敵の自壊を待つべきだと主張した。
  • 孫千齢だけは旧例どおり梁山へ軍を進めよと言ったが、道成は今や敵は近く梁山まで行けるはずがないと退けた。
  • その場で自ら筆を取って議案を書き、全員が賛同した。
  • 袁粲も喪中の身をおして入朝し、即日、内外に戒厳令が布かれた。
  • 蕭道成は前鋒を率いて新亭、張永は白下、沈懐明は石頭を守り、袁粲と褚淵は宮中を守った。
  • 倉卒で甲冑支給が間に合わず、南北二武庫を開いて兵士に任意で取らせた。

辛卯〜壬辰 新亭の攻防

  • 蕭道成が新亭に着いて城塁を築く間もなく、辛卯には劉休範の前軍が新林に到着した。
  • 道成はあえて服を脱いで高く臥し、兵を安心させたうえで白虎幡を求め、城上から高道慶・陳顕達・王敬則らの舟師を出して戦わせ、一定の戦果を挙げた。
  • 壬辰、劉休範は新林から舟を捨てて上陸した。配下の丁文豪はまっすぐ台城を攻めるべきだと進言し、自ら別働隊を率いて向かった。
  • 劉休範は主力で新亭を攻め、朝から正午まで戦いは激しく、守る側の顔色も変わったが、道成は敵は多くても統制がなく、やがて破れると言って兵を励ました。

劉休範の戦死

  • 劉休範は白服で肩輿に乗り、城南の臨滄観から戦況を見ていた。護衛はわずかだった。
  • 屯騎校尉黄回と越騎校尉張敬児は、降伏を装って近づき、討ち取る策を立てた。敬児は道成に報告し、成功すれば本州の刺史を与えると約された。
  • 二人が城外に出て武器を投げ、降ると叫ぶと、劉休範は喜んで側へ招いた。黄回は道成の密意を伝えるふりをし、劉休範は信用して二子の徳宣・徳嗣を道成への質に出した。
  • 道成は二子が来るとすぐ斬った。
  • 劉休範が黄回・張敬児を左右に置くと、近臣の李恒・鍾爽は諫めたが聞き入れなかった。
  • 酒に酔って無防備になったところを、黄回が合図し、張敬児が護身刀を奪ってその首を斬った。
  • 左右は散り、張敬児は首を持って新亭へ帰ったが、使者が首を朝廷へ送る途中で敵兵に遭い、水中へ捨てたため、首級での確認はできなかった。
  • そのため宋軍・休範軍ともに、しばらくは劉休範の死を信じなかった。

新亭と台城周辺の激戦

  • 劉休範配下の杜黒騾は新亭を猛攻し、司空主簿蕭惠朗が敢死隊を率いて東門から突入、射堂の下まで迫った。
  • 蕭道成は自ら馬に乗って迎撃し、激戦の末に城を守った。惠朗は休範の妃の弟で、兄の蕭惠明は道成軍の副将だったが、互いに疑わなかった。
  • 夜は大雨となり、鼓声も聞こえず、兵馬も混乱したが、道成は燭を執って正座し、声を張って軍を落ち着かせた。
  • 一方、丁文豪は皂莢橋で台軍を破り、朱雀桁南へ進出した。杜黒騾も新亭を離れてこれに呼応した。
  • 王道隆は朱雀門内で羽林精兵を率い、石頭の劉勔を呼んだ。劉勔は橋を撤して敵の勢いを折るべきと述べたが、王道隆は怒ってこれを退け、出戦を強いた。
  • 劉勔は橋南に渡って敗死し、王道隆も敗走したのち追いつかれて殺された。
  • 王藴も重傷を負い、御溝のほとりで扶けられて逃れた。
  • こうして台城陥落・白下石頭潰走・新亭陥落といった流言が飛び交い、宮中も外廷も大きく動揺した。

甲午〜丙申 東府陥落と逆転

  • 甲午、褚淵の弟褚澄が東府門を開けて南軍を引き入れ、安成王劉凖を擁して東府に拠り、「安成王は桂陽王の子であるから侵犯するな」と称した。
  • 杜黒騾は杜姥宅まで進み、孫千齢は承明門を開けて降伏した。宮中は大混乱となり、府庫は空だったため、皇太后や皇太妃が金銀器を削り取って兵への恩賞に充てた。
  • しかし丁文豪の軍は、劉休範がすでに死んだことを知るとしだいに退き始めた。文豪は自分一人でも天下を取ると言って兵を繋ぎ止めようとしたが、勢いは衰えた。
  • 許公輿はなお桂陽王が新亭にいると偽って人心を惑わせた。
  • 蕭道成の陣には名刺を持って投降や帰順を求める者が千を数えたが、道成はすべて焼き捨て、自ら北城に立って、劉休範父子は昨日すでに誅された、私は蕭平南である、よく見よと言って群衆を安堵させた。
  • 陳顕達・張敬児・任農夫・周盤龍らを石頭から淮水を渡して承明門より入れ、宮中を守らせた。
  • 袁粲は社稷とともに死ぬと慷慨して甲冑を着け、出撃を督した。
  • その結果、陳顕達らは杜姥宅で杜黒騾を大破し、顕達は矢で目を貫かれながらも戦った。
  • 丙申、張敬児らは宣陽門で再び杜黒騾・丁文豪を破り、二人を斬り、東府も奪回して余党を平定した。
  • 蕭道成が兵を整えて建康へ帰ると、道の人々は「国家を救ったのはこの人だ」と口々に称えた。
  • 蕭道成・袁粲・褚淵・劉秉はみな罪を引いて辞職を願ったが許されず、丁酉、戒厳は解かれ大赦があった。

六月 四貴体制

  • 庚子、蕭道成を中領軍・南兗州刺史とし、建康に留めて守らせた。
  • 以後、袁粲・褚淵・劉秉・蕭道成は日替わりで入直して政務を決し、「四貴」と称された。
  • 劉休範の反乱時、沈攸之は嫌疑を避けるため積極的に勤王の姿勢を示し、建平王景素・晋熙王劉爕・王僧虔・張興世らとともに兵を挙げた。
  • 劉爕配下の馮景祖は尋陽を襲い、癸卯、守将毛惠連らは降り、劉休範の二子を殺したため、各鎮の兵は解かれた。

北魏の法制と裁判

  • 乙卯、北魏は、謀反大逆を除き、一人の罪で一門・一房を連座させる従来の門房誅をやめると詔した。
  • 顕祖は政治に勤勉で、賞罰を厳正にし、牧守の選任を慎重に行った。従来は口頭命令や「疑わしいので裁可を乞う」案件が多かったが、今後は律に照らして明確に名称を定め、軽々しく疑奏せず、すべて墨書の詔で処理させた。
  • 大刑は特に再審を重ね、獄が長引くこともあったが、太上皇は、急いで濫刑するよりよいとし、囚人に苦しみの中で悔悟を促しつつ、最終的には適切な刑を下した。
  • また赦免は姦悪を助長するとして、延興以後は赦を行わなかった。

七月以降 沈攸之・韓秀の議

  • 七月庚辰、皇弟劉友を邵陵王に立てた。
  • 乙酉、沈攸之に開府儀同三司を加えたが、攸之は固辞した。中央は召還を望みつつ、直接命じるのをはばかり、太后令をもって進退は任せると伝えた。
  • 沈攸之は、自分は中枢に向かぬが、蛮・蜑の討伐と江漢の平定なら辞退しないと答え、結局そのまま留任となった。
  • 癸巳、柔然が北魏の敦煌に侵入したが、尉多侯が撃退した。
  • 尚書省は、敦煌は僻遠で西北の強敵に挟まれ守りにくいので、住民を涼州へ内徙させるべきだと奏した。
  • だが韓秀は、敦煌は長く設置されて住民も戦闘に慣れ、単なる戍守でも保てるうえ、西北二敵の連絡を遮断する要地だ、これを捨てれば姑臧から千余里の空隙が生じ、かえって涼州・関中が危うくなると論じ、計画は中止された。

九月〜十二月 人事と景素問題

  • 丁酉、袁粲を中書監・領司徒とし、褚淵に尚書令、劉秉に丹陽尹を加えた。袁粲は喪のため墓所へ帰ることを願ったが許されなかった。
  • 褚淵は弟の褚澄を呉郡太守としたが、司徒左長史蕭惠明は、賊を城内に引き入れた者を重職にし、重傷を負って戦った王藴を顧みないのでは、賞罰が乱れると朝廷で批判した。褚淵は深く恥じた。
  • 十月庚申、王藴を湘州刺史とした。
  • 十一月丙戌、帝は加冠し大赦を行った。
  • 十二月癸亥、皇弟劉躋を江夏王、劉贊を武陵王に立てた。
  • この年、北魏では建安貞王陸馛が死去した。
  • また宋では、建平王景素が宗室の最長者として朝野の期待を集め、外戚陳氏や近習の楊運長・阮佃夫らに疎まれた。腹心の多くは挙兵を勧めたが、江淹だけは独り諫めた。
  • さらに防閤将軍王季符が景素に罪を得て単騎で建康へ逃げ、景素謀反を告発した。
  • 楊運長らは直ちに討伐を望んだが、袁粲と蕭道成は不可とし、景素も世子延齢を入朝させて弁明したため、季符を梁州へ移し、景素から征北将軍・開府儀同三司の号を奪うにとどめた。