資治通鑑宋紀十五 蒼梧王 元徽 元年 473年

正月 改元

  • 正月戊寅朔、改元して元徽元年とし、大赦を行った。
  • 庚辰、北魏から員外散騎常侍崔演が来聘した。
  • 戊戌、北魏太上皇は柔然討伐から雲中を経て帰途についた。
  • 癸丑、北魏は郡県に農事奨励を命じ、同じ部落内で貧富が助け合い、牛を持つ家は持たぬ家に貸すよう定めた。従わなければ一門終身不仕とした。
  • 戊午、太上皇は平城に到着した。
  • 甲戌、北魏は、盗賊を平定して一県をよく治めた県令には兼管・昇進を与えるなど、地方官の実績主義を打ち出した。

桂陽王劉休範の不満

  • 桂陽王劉休範は凡庸で口数も少なく、明帝の諸兄から軽んじられていたため、太宗末の宗室誅殺を免れた。
  • しかし幼帝即位後は、唯一の近親の尊属として本来は宰相となるべきだと自負しながら、その望みが叶わず強い不満を抱いた。
  • 典籤の許公輿が参謀となり、劉休範に士を下から礼遇し、資金を厚く与えるよう勧めた。すると遠近の勇士が年内に万単位で集まり、武器の整備も進んだ。
  • 朝廷も異志を知って密かに備えた。

二月 郢州人事と劉休範の激怒

  • 夏口が空位となると、朝廷は尋陽の上流にあたる重要地なので腹心を置きたいと考えた。
  • 乙亥、四歳の晋熙王劉爕を郢州刺史とし、黄門郎王奐を長史として実務を行わせ、大きな資力を与えて夏口へ鎮させた。
  • しかも、途中で尋陽を通れば劉休範に留められることを恐れ、別路から向かわせた。
  • 劉休範はこれを聞いて激怒し、許公輿とともに建康襲撃を密謀した。城濠修築を名目に材木を集め、兵船準備を進めた。

春〜秋 北魏の動き

  • 吐谷渾王拾寅が澆河へ侵入すると、北魏は長孫観を大都督として討たせた。
  • 北魏は孔子二十八世孫の孔乗を崇聖大夫とし、十戸を給して祭祀と掃除に充てさせた。
  • 七月、河南六州の民に新たな租税を課した。
  • 乙亥、魏主は陰山に行き、八月庚申、太上皇は河西へ赴いた。
  • 長孫観が吐谷渾の地で秋の作物を刈り取ったため、拾寅は窮して降伏し、子の斤を人質として送り、以後毎年朝貢した。
  • 九月辛巳、太上皇は平城に還った。

十月 徐州新設

  • 癸酉、宋は南豫州・兗州の一部を割いて徐州を置き、州治を鍾離に定めた。

北魏の対南朝準備と西方情勢

  • 北魏太上皇は南侵を計画し、州郡の民から十丁に一人を徴して従軍させ、各戸から多くの租を徴して軍糧に充てようとした。
  • 一方、武都の氐族が叛して仇池を攻めた。
  • 武都王楊僧嗣が葭蘆で死ぬと、従弟の楊文度が自立して武興王を称し、北魏へ降り、魏は彼を武興鎮将とした。

十一月〜十二月 袁粲の喪と北魏の治安

  • 丁丑、尚書令袁粲は母の喪で辞職した。
  • 癸巳、北魏太上皇は南巡して懐州に至った。
  • かつて馮太后により罷免され門番格に落とされていた薛虎子について、相州民の孫誨ら五百人が、在任中は鎮内が清平だったので復帰させてほしいと願い出た。太上皇は即日、虎子を枋頭鎮将に復し、赴任させると数州の盗賊は静まった。
  • 十二月癸卯朔、日食があった。
  • 乙巳、劉休範を太尉に進めた。
  • 朝廷は袁粲を衛軍将軍として起復させ職務を行わせようとしたが、袁粲は固く辞した。
  • 壬子、柔然が北魏に侵入し、柔玄鎮の敕勒二部が呼応した。
  • この年、北魏では十一州で水旱があり、相州では餓死者が多数出た。
  • また妖人劉挙が自称天子として挙兵したが、斉州刺史武昌王平原が討って斬った。