資治通鑑宋紀十三 太宗明皇帝上之下 泰始二年 466年
正月:魏の改元と宋の戒厳
- 春正月朔、北魏は大赦を行い、元号を天安に改めた。
- 宋では、会稽太守の尋陽王子房を撫軍将軍に召し、後任に巴陵王休若を当てた。これは前年に子房が挙兵して尋陽側に呼応していたためである。
- 朝廷は内外に戒厳を敷き、司徒の建安王休仁を討伐軍の総司令官とし、車騎将軍・江州刺史王玄謨を副将に据えた。休仁は南州に駐屯し、沈攸之を尋陽太守として虎檻に兵を置いた。
- 先鋒諸軍は十軍ほどが次々に到着したが、各軍が独自の名号を用いて統一を欠いていた。沈攸之は、夜間に農夫や漁父の呼び声ひとつで味方が混乱する危険を指摘し、全軍で一つの号令名を用いるよう提案し、受け入れられた。これは彼の統率の才を示す出来事だった。
正月:尋陽で晋安王子勛が即位
- 鄧琬は符瑞を盛んに言い立て、さらに路太后の璽書を得たと偽って、将佐を率いて晋安王子勛に尊号を奉った。
- 子勛は尋陽で皇帝を称し、元号を義嘉とした。安陸王子綏を司徒・揚州刺史に、尋陽王子房と臨海王子頊に開府儀同三司を加え、鄧琬を尚書右僕射、張悦を吏部尚書、袁顗を尚書左僕射に進めた。その他の州郡でも広く官爵が与えられた。
正月:各地で子勛方が拡大
- 宋朝は司州を義陽に再設置し、義陽内史龐孟蚪を司州刺史とした。
- 徐州刺史薛安都、冀州刺史崔道固はいずれも兵を挙げて尋陽に呼応した。
- 青州刺史沈文秀は当初建康に援兵を送ろうとしたが、薛安都の誘いを受け、派遣軍を転じて安都方に付かせた。
- 済陰太守申闡は睢陵に拠って建康側に立ったが、薛安都は一族の薛索児や傅霊越らに攻めさせた。安都の婿裴祖隆が下邳を守ったが、劉弥之が寝返ってこれを破り、祖隆は垣崇祖とともに彭城へ逃れた。劉弥之の一族もこれに呼応した。
- その後、薛索児が睢陵攻略を中止して劉弥之を攻め、劉弥之は敗れて北海に退いた。申令孫は淮陽に進んで薛索児に降った。
- 龐孟蚪もまた朝命に従わず、尋陽方に参加した。
正月:会稽・東南諸郡の離反
- 朝廷は尋陽王府長史で会稽郡政を代行していた孔覬を太子詹事に召し、庾業を後任とした。さらに都水使者孔璪を東方へ送り、慰撫させた。
- しかし孔璪は孔覬に対し、建康は手薄だから東揚州の五郡をまとめて袁顗・鄧琬に呼応すべきだと説いた。孔覬は兵を起こして檄を飛ばし、尋陽方についた。
- 呉郡太守顧琛、呉興太守王曇生、義興太守劉延熙、晋陵太守袁標も各郡で呼応した。
- 朝廷はさらに庾業を義興へ向かわせたが、彼は長塘湖で劉延熙と合流して叛いた。
正月:益州・湘州・広州・梁州も呼応
- 益州刺史蕭恵開は、景和年間の暴虐で皇統の正当性が失われたと見て、世祖に恩を受けた身として九江の晋安王子勛を推戴すべきだと主張した。
- 彼は巴郡太守費欣寿に五千を与えて東下させた。
- これに続き、湘州行事何慧文、広州刺史袁曇遠、梁州刺史柳元怙、山陽太守程天祚も子勛に属した。
- この年、各地の貢物や上計はほとんど尋陽へ向かい、建康朝廷の支配が及ぶのは丹陽・淮南などわずかな郡に限られた。
正月:建康朝廷の危機と蔡興宗の進言
- 東方の叛軍は永世にまで達し、朝廷内部では恐慌が広がった。明帝は群臣を集めて成否を議した。
- 蔡興宗は、天下が一斉に背いたこの時は、静かに構えて信義で人心をつなぐべきであり、叛徒の親族が宮中や省中に多くいる以上、法で厳しく追及すればたちまち土崩すると述べた。父子兄弟まで罪を及ぼさない方針を明らかにしてこそ、人々は安心して戦えると説き、明帝もこれをよしとした。
正月:殷琰の離反と周矜の敗死
- 建武司馬劉順は豫州刺史殷琰を説いて尋陽方に誘った。殷琰は家族が建康にいるため迷ったが、柳光世が建康は守れないと告げたことや、土豪杜叔宝らに抑えられていた事情もあって、ついに従った。
- 杜叔宝が長史となり、軍政を専断した。
- 明帝は蔡興宗に形勢を問うた。興宗は、今の時点では逆か順かは軽々に断じがたいが、食糧価格や人心の様子から見て、最終的には平定できると答えた。ただし、平乱後の処理こそ大きな憂いになるだろうとも述べた。
- 汝南・新蔡二郡太守周矜は懸瓠で建康に応じたが、袁覬が周矜の司馬常珍奇を誘って周矜を斬らせ、常珍奇が後任となった。
- また朝廷は垣栄祖を徐州へ遣わして薛安都を説得させたが、安都は聞き入れず、かえって彼を留めて自軍に加えた。
正月:殷孝祖の来援
- 兗州刺史殷孝祖の甥葛僧韶が危地を突破して瑕丘に至り、建康の窮状と明帝擁立の正当性を詳しく説いた。長君を立てて国難を鎮めるべきであり、この機会に義兵を率いれば名も残せると勧めた。
- 殷孝祖はこれを聞き、妻子を瑕丘に残して文武二千を率い、建康へ向かった。
- その頃、朝廷の支配は丹陽一郡ほどに縮んでいたうえ、永世令孔景宣もまた叛き、義興軍が延陵に迫っていた。だが殷孝祖が到着すると、北方・荊楚出身の精強な兵が加わって都の人心は大いに安定した。
- 明帝は孝祖を撫軍将軍・仮節・前鋒諸軍事都督に進め、厚く賞して虎檻へ向かわせた。
正月:兗州方面の動揺
- 明帝が東平の畢衆敬を兗州へ人集めに遣わしたところ、薛安都は彼を説得し、偽りの詔で兗州行事とした。畢衆敬はこれに従った。
- 殷孝祖が司馬劉文石に瑕丘を守らせると、畢衆敬はこれを攻めて殺害した。
- 薛安都は畢衆敬を使って殷孝祖の子らをことごとく殺させ、州境の多くがこれに従った。ただし東平太守申纂だけは無塩に拠って屈しなかった。
正月:明帝親征と東西両面作戦
- 明帝は自ら軍を率いて中堂に陣し、山陽王休祐に豫州刺史を兼ねさせ、劉勔・呂安国らを率いて西方の殷琰討伐に向かわせた。
- 巴陵王休若には沈懐明・張永・蕭道成らをつけて東方の孔覬討伐を命じた。
- ただし諸軍には東方出身者が多く、父兄子弟が孔覬方にいる者も少なくなかった。そこで明帝は、「朕は父子兄弟に罪を連座させない。順逆は本人の行動で決める」と広く示し、兵たちの不安を取り除いた。
- 叛徒の親族で建康にいた者たちも、みな従来通りの職務にとどめられた。
正月:路太后の死
- 路太后が崩じた。
正月末〜二月:東討軍の苦戦と持ち直し
- 孔覬は孫曇瓘らを晋陵九里に置き、陣容は盛大だった。
- 沈懐明は兵力が乏しく、奔牛で塁を築いて守りに徹した。張永は曲阿まで進んだが懐明の安否が分からず、住民も動揺していたため、延陵まで後退して巴陵王休若に合流した。
- 諸将は破岡まで退くよう休若に勧めたが、その日は大寒・風雪で堤防も壊れ、軍心は不安定だった。休若は退却を口にする者を斬ると令し、陣営を立て直した。まもなく沈懐明から賊がまだ進んでいないとの知らせが届き、さらに劉亮も着いて兵力が増し、ようやく人心が安定した。
二月:呉喜の東方平定
- 殿中御史呉喜は、精兵三百で東方に死力を尽くしたいと願い出た。刀筆の役人にすぎないとして反対もあったが、巢尚之は彼が軍旅経験と決断力を備えると推薦し、派遣が決まった。
- 呉喜は以前から東呉への使者を何度も務め、寛厚な人柄で民望があったため、彼が来たと聞くと民衆は次々に降散した。
- 永世の徐崇之が孔景宣を攻めて斬り、呉喜は徐崇之に県政を委ねた。
- 国山で東軍を破り、呉城に進駐。義興では劉延熙が長橋を柵で断って籠ったが、呉喜は対峙を続けた。
- 一方、庾業は長塘湖口で両岸に城を築き七千を擁した。朱幼挙配下の任農夫が急襲してこれを大破し、庾業を義興へ敗走させた。
- 二月朔、呉喜は水を渡って義興城を攻撃し、諸塁を崩して劉延熙を追い詰めた。延熙は水に身を投じ、義興は陥落した。
二月:北魏で乙渾誅殺
- 北魏では丞相乙渾が朝政を専断し、多くを誅殺していた。
- 吏曹を掌る賈秀に対し、乙渾は自分の妻を公主と称させたいと繰り返し求めたが、賈秀は皇族でない者にその称号は許されないと拒んだ。
- 侍中拓跋丕が乙渾の謀反を告発し、馮太后は乙渾を捕えて誅した。
- 太后は臨朝称制し、高允・高閭・賈秀らに政務を参与させた。
二月:晋陵・呉興・呉郡・会稽の平定
- 義興陥落の報が届くと、晋陵の東軍は大いに動揺した。
- 江方興・王道隆が前線視察に赴き、扞宗の城がまだ未完成なのを見て、これを突破口にすべきと判断した。辛酉、王道隆が急襲して扞宗を斬り、張永らも乗じて孫曇瓘らを破った。翌日には晋陵も平定された。
- 呉喜は義郷へ進み、孔璪は呉興南亭にいたが、朝廷軍接近の報を聞いて王曇生とともに銭唐へ逃れた。呉喜は呉興に入り、任農夫を呉郡へ向かわせると、顧琛も会稽へ逃亡した。
- 四郡が平定されると、明帝は呉喜を残して会稽攻略を任せ、張永らは北の彭城へ、江方興らは南の尋陽へ振り向けた。
- 丁卯、呉喜は銭唐に至り、孔璪・王曇生は浙江以東へ逃れた。任農夫が黄山浦方面の敵陣を破り、呉喜自身も柳浦から渡って西陵を取り、庾業を斬った。
- 会稽では将士の逃亡が相次ぎ、戊寅、上虞令王晏が郡城を攻めた。孔覬は嵴山へ逃れたが、己卯に王晏が入城して張綏を殺し、尋陽王子房を捕え、孔璪も殺した。
- 庚辰、嵴山の民が孔覬を縛って王晏に差し出した。王晏は孔璪のせいにして助命を勧めたが、孔覬は江東の処置は自分が主導したのだから責任逃れはしないと言い、斬られた。
- 顧琛・王曇生・袁摽らは呉喜のもとで罪を認めたが赦された。東軍の軍主七十六人のうち、陣前で十七人が斬られ、残りは許された。
二月〜三月:西方戦線と尋陽方の腐敗
- 薛索児は申闡を長く攻めあぐね、申令孫を使って説得させた。申闡は降ったが、索児は申闡も申令孫もともに殺した。
- 山陽王休祐が歴陽にある間、劉勔は小峴へ進軍し、殷琰方の南汝陰太守裴季之が合肥をもって降った。
- その頃、尋陽政権では鄧琬が権力を握ると、父子で官爵を売買し、僕婢まで市で商売をさせ、宴飲や博打にふけった。政務は褚霊嗣ら取り巻きに丸投げされ、士民の怨みを買って内外の心は離れていった。
- 鄧琬は孫冲之・薛常宝・陳紹宗・焦度ら一万を前鋒として赭坼に置き、陶亮には郢・荊・湘・梁・雍五州の兵二万を統べさせた。
- 孫冲之は白下へ直進すれば一挙に建康を定められると子勛に書き送ったが、陶亮は建安王休仁や殷孝祖の到来を聞いて進まず、鵲洲に留まった。
三月:殷孝祖戦死と沈攸之の指揮
- 殷孝祖は忠義心は篤かったが、諸将を侮り、南方に家族を残す兵まで厳罰にかけようとしたため、人心が離れた。
- これに対し沈攸之は内では兵をよく慰め、外では諸将と協調して、軍の信頼を集めた。
- 三月庚寅、朝廷軍は水陸から赭圻を攻撃し、陶亮らが救援に来た。殷孝祖は陣中で流れ矢に当たり戦死し、軍主范潜が五百を率いて降った。
- 軍中は騒然となり、沈攸之が指揮を継ぐべきとの声が上がった。建安王休仁は江方興と劉霊遺を三千ずつ派遣したが、沈攸之は、今ここで指揮系統を乱せば敗因になるとして、自ら江方興を統帥に推した。
- 彼は「国家の存亡は明朝の一戦にある」と諸軍主を説いて団結させ、方興もこれを受け入れた。退出後、諸軍主は彼の謙譲を非難したが、沈攸之は国家と家を救うためであり、地位の上下を争う時ではないと答えた。
三月:赭圻大勝
- 孫冲之は殷孝祖が一戦で死んだ以上、天下の大勢は決したとして、ただちに建康へ向かうよう陶亮に勧めたが、陶亮は従わなかった。
- 翌辛卯、江方興が諸将を率いて進撃し、さらに建安王休仁から郭季之・杜幼文・垣恭祖・頓生・段仏栄ら三万の援軍が到着した。
- 戦闘は寅から午まで続き、尋陽方は大敗。朝廷軍は姥山まで追撃した。
- 孫冲之が湖・白口に築いた二城も張興世に落とされ、壬辰、沈攸之が輔国将軍・仮節・前鋒諸軍事都督として殷孝祖の後任となった。
- 陶亮は守りが崩れたと知って孫冲之を呼び戻し、薛常宝らに赭圻を守らせ、自軍は濃湖へ後退した。
- このころ戦費不足から、民が銭穀を納めると荒廃した郡県の官や散官を与える措置まで行われた。
- ただし建安王休仁は将士に豊かさも窮乏も分け隔てなくし、死者を弔い負傷者を見舞って、自ら悲しみを示したため、十万の大軍は離反しなかった。
三月〜四月:劉胡の大軍来襲
- 鄧琬は劉胡に三万と鉄騎二千を率いさせて鵲尾に進め、旧来の兵を合わせると十余万となった。
- 劉胡は歴戦の宿将で、将士に畏れられていた。蔡那の子弟を城外に吊るして脅しても、蔡那は少しもひるまず戦った。
- 一方、薛索児は万余で淮を渡って青・冀二州方面に迫った。
- 丙申、朝廷は桂陽王休範を北討諸軍事の統帥として広陵へ進め、蕭道成にも張永救援を命じた。
- 戊戌、尋陽王子房が建康に到着すると、明帝はこれを赦し、爵位を松滋侯に落とした。
- 庚子、北魏では源賀が太尉となった。
四月:寿陽方面の攻防
- 明帝は劉懐珍・王敬則ら歩騎五千を劉勔に加え、廬江太守劉道蔚を斬った。
- さらに黄回に兵を募らせて馬頭太守王広元を討たせ、また寿陽の鄭黒が淮上で挙兵して建康に応じ、司州刺史に任じられた。
- 殷琰配下の劉順・柳倫・皇甫道烈・龐天生ら八千は宛唐に拠った。劉勔が数里の地に営を立てたとき、順は未完成の敵陣を攻めたかったが、柳倫と皇甫道烈が従わず、好機を逸した。ここに彼らの不統一がのちの敗因となった。
四月:赭圻陥落
- 沈攸之は赭圻を包囲した。守将薛常宝らは糧尽きを劉胡に訴えた。
- 劉胡は、袋に米を入れて流木や船腹に結びつけて流し込む方法で補給を試みたが、沈攸之は不審を抱いてこれを捕え、大量の米を得た。
- さらに丙辰、劉胡は歩卒一万を率い、夜に山を切り開いて布袋で米を運び、明け方に城下へ達したが、小壕を越えられなかった。沈攸之は諸軍を率いて襲い、劉胡軍を大破。大量の糧秣や兵仗を奪い、劉胡自身も負傷してようやく退いた。
- 守城側は大いに恐れ、夏四月辛酉、城を開いて突囲し、劉胡の陣へ逃げ込んだ。沈攸之は赭圻を奪取し、沈懐宝らを斬り、数千人を降伏させた。陳紹宗だけが小舟で鵲尾へ逃れた。
- 建安王休仁は虎檻から赭圻へ前進した。
四月:北方・荊襄・青州方面
- 明帝は禇淵を虎檻に遣わし、将士の功に応じて官を選授させた。このころ軍功による任官が多すぎて木の任命板が足りず、黄紙で代用するようになった。
- 鄧琬は袁顗を尋陽に召し、雍州の全軍を率いて下らせた。代わりに劉道憲を荊州行事、孔道存を雍州行事とした。
- 上庸太守柳世隆は隙を突いて襄陽を襲ったが、落とせなかった。
- 青州では明僧暠が起兵して沈文秀を攻め、平原・楽安二郡太守王玄黙、清河・広川二郡太守王玄邈、高陽・勃海二郡太守劉乗民も呼応した。いずれも沈文秀に対して何度も攻めたが、東陽城は落とせなかった。
五月:寿陽戦線で補給線を断つ
- 杜叔宝は朝廷軍が歴陽に留まり、すぐには進めないと見ていたが、劉勔が近づくと動揺した。
- 劉順軍は一か月分の食糧しか持たず、叔宝は米を積んだ車千五百と精兵五千で補給に向かった。
- 呂安国は、兵力では劣るが敵は糧が尽きかけているのだから、別道から補給車を襲うべきだと劉勔に進言した。
- 黄回とともに精兵千人で横塘に伏し、前衛の楊仲懐を討ち、叔宝がまだ現れぬうちに待機した。夜になると叔宝は米車を捨てて逃走し、安国はこれを焼き払い、牛二千余頭を奪って帰った。
- 五月朔の夜、劉順軍は潰走して淮西の常珍奇のもとへ逃れた。劉勔は進んで寿陽を包囲し、殷琰に利害を説く書を送った。明帝も赦免の詔を出し、琰の兄殷瑗の子邈からも手紙を送らせたため、殷琰・杜叔宝らには降意が生まれたが、城内の意見は一致せず、なお籠城を続けた。
五月〜六月:北方で薛索児敗死
- 弋陽西山の蛮田益之が建康に呼応して起兵し、輔国将軍・督弋陽蛮事に任じられた。
- 壬辰、沈攸之は雍州刺史に進められた。
- 張永・蕭道成らは薛索児と戦って大破し、索児は石梁に退いたが、食糧が尽きて潰走、楽平へ向かう途中で申令孫の子申孝叔に斬られた。申孝叔にとっては父の仇討ちでもあった。
- 薛安都の子薛道智は合肥に逃れ、裴季之に降った。傅霊越も捕えられて劉勔のもとへ送られた。
- 劉勔が叛逆を責めると、傅霊越は、天下の義兵は自分ひとりではなく、薛安都が賢者を用いず一族に任せたことが敗因だと語り、助命を乞わなかった。建康へ送られたが、最後まで節を曲げず、処刑された。
六月:袁顗来たるも軍心を失う
- 鄧琬は、劉胡が沈攸之らと対峙して決着をつけられないのを見て、袁顗に征討諸軍事都督を加えた。
- 六月甲戌、袁顗は楼船千艘、戦士二万を率いて鵲尾に入った。
- だが袁顗は軍略に乏しく、臆病でもあり、軍中で甲冑を着ることもほぼなく、戦陣の話を避け、詩や義理の談論ばかりして諸将との意思疎通を怠った。
- 劉胡は南方からの米が届かず兵糧に苦しんでいたため、襄陽の蓄えを借りようとしたが、袁顗は建康にある自宅二つの整備に使うつもりだとして拒否した。
- さらに、建康では米価が高騰しており、放っておけば勝手に潰れると信じて、積極策を取らなかった。
- 田益之は蛮兵一万余で義陽を囲んだが、龐孟蚪が五千で救援に来ると戦わず退いた。
- 安成太守劉襲、始安内史王識之、建安内史趙道生も降った。
六月:南康・広州・巴蜀方面の動き
- 蕭道成の子蕭賾は南康贛令で、鄧琬に捕えられたが、門客桓康が妻子とともに救い出した。賾は一族や同志百余人を集めて郡城を攻め、獄を破って脱出し、自ら寧朔将軍を称して起兵した。
- 衡陽内史王応之も起兵し、長沙で何慧文と乱戦して両者とも重傷を負い、応之は殺された。
- 始興では劉嗣祖らが起兵し、広州刺史袁曇遠配下の李万周が討伐に向かった。ところが劉嗣祖が「尋陽はすでに平定された」と偽ると、李万周は引き返して番禺を襲い、袁曇遠を捕えて斬った。明帝は李万周に広州行事を命じた。
- 武都では楊元和が白水を捨てて魏に逃れたのち、従弟楊僧嗣が葭蘆で再起していた。蕭恵開が東下させた費欣寿は巴東に至ったが、白帝の任叔児に討たれて殺され、叔児はそのまま三峡を抑えた。
- 蕭恵開はさらに程法度を梁州から三千で出したが、楊僧嗣が氐人を率いて道を断ち、事態を朝廷へ知らせた。
七月:張興世の奇策
- 秋七月、朝廷は楊僧嗣を北秦州刺史・武都王に任じた。
- 濃湖での対陣が長引くなか、張興世は「賊は上流に拠って優位だが、上流のさらに上に奇兵を潜入させ、険地に築城し、糧道を断てば首尾に混乱が生じる」と進言した。候補地は江岸が狭く、横浦があって船を隠せる錢溪だった。
- 沈攸之・呉喜も賛同した。
- 劉勔は龐孟蚪の寿陽救援を大いに恐れ、援軍を求めてきた。建安王休仁は張興世を寿陽に回そうとしたが、沈攸之は張興世の行動こそ戦局の大機だとして反対し、別将段仏栄のみを寿陽救援に回した。
- 張興世は戦士七千・軽舟二百で上流へ向かったが、わざと数日進んでは戻る動きを繰り返し、劉胡を油断させた。
- 劉胡は「自分ですら朝廷軍の下流を越えて揚州を取れないのに、張興世ごときが自分の上流を取れるはずがない」と笑い、備えをしなかった。
七月:錢溪奪取
- ある夜、好風を得ると、張興世は一気に湖白を越え鵲尾を過ぎた。劉胡は気づいて胡霊秀に東岸から追わせた。
- 戊戌の夕方、張興世は景洪浦に宿営し、胡霊秀もその近くにとどまった。
- その夜、張興世は黄道標に七十艘を与えて密かに錢溪へ急行させ、営塁を築かせた。己亥、張興世本隊もそこに入り、胡霊秀は阻止できなかった。
- 庚子、劉胡は自ら水陸二十六軍で攻めてきた。将士は迎撃を望んだが、張興世は、賊はまだ勢いが盛んで矢も多いから、勢いと矢が尽きるのを待つべきだと命じ、あくまで築城作業を続けさせた。
- 敵船が洄洑に入りこんだところで、寿寂之・任農夫ら数百が打って出て、諸軍もこれに続いた。劉胡は敗走し、首級数百を失った。
- その後も劉胡は再度攻撃しようとしたが、袁顗が濃湖の危急を理由に呼び戻したため、錢溪城は無事築き固められた。
七月:濃湖でも朝廷軍優勢
- 建安王休仁は錢溪への圧力を分散させるため、辛丑、沈攸之・呉喜らに皮艦で濃湖を攻撃させ、多数を斬獲した。
- 同日、劉胡は歩卒二万・鉄馬一千を率いて再び錢溪へ向かったが、数十里の地点で袁顗に呼び戻された。
- 濃湖では「錢溪は破られた」との流言が流れたが、沈攸之は、もし本当に負けていれば逃げ帰る者が一人はいるはずだ、これは虚報だと見抜き、軍の動揺を抑えた。
- ほどなく錢溪勝利の報が届き、沈攸之は敵兵の耳鼻を示して濃湖軍を威圧した。袁顗は恐れおののいた。
七月:寿陽方面の好転
- 劉道符が山陽を攻め、程天祚は降った。
- 龐孟蚪は弋陽に進んだが、劉勔配下の呂安国らが蓼潭で迎撃して大破した。龐孟蚪は義陽へ逃れたが、王曇善が義陽を押さえて建康に応じており、龐孟蚪は蛮中で死んだ。
- 劉胡は薛道標に合肥を襲わせ、裴季之を殺させたが、劉勔は垣閎に追討を命じた。
- 淮西では鄭叔挙が起兵し、常珍奇を攻めて鄭黒に呼応したため、北豫州刺史に任じられた。
- 崔道固は土着民に攻められて城門を閉ざした。朝廷が慰撫の使者を送ると降伏を願い出たため、再び徐州刺史に任じられた。
八月:濃湖軍の崩壊
- 皇甫道烈らは龐孟蚪敗北の報を聞き、そろって城門を開いて降った。
- 張興世が錢溪を押さえたことで、濃湖の軍は食糧難に陥った。鄧琬は大規模な補給を送ろうとしたが、張興世を恐れて前進できなかった。
- 劉胡は当初、軽舟四百で鵲頭の内路から錢溪を攻めようとしたが、歩戦には慣れていても水戦は狭い船上で少人数がばらばらに戦うため危険だと考え、病を口実に留まった。
- 代わりに陳慶へ三百艘を与えて向かわせ、戦わずとも張興世は逃げると高を括った。
- しかし梅根に至った王起の百艘が撃破されると、劉胡は慌てて帰還した。
- 彼は袁顗に対し、張興世はすでに囲い込まれており心配ないと説明したが、袁顗は糧道が詰まっているのに何をしているのかと怒った。
- 劉胡はなおも、運糧船はこちらが上流を越えられたのだから敵を越えて下流へ行けるはずだと答え、沈仲玉に三十万斛の米などを積ませて南陵から貴口へ進めた。だが張興世は寿寂之・任農夫ら三千で襲い、資糧をことごとく奪った。
- これで劉胡軍の恐慌は決定的となり、張喜来までが降った。
- 鎮東中兵参軍劉亮が劉胡営へ迫ると、袁顗は「賊が肝肺に食い込んだようで、生き延びようがない」とまで言った。
- 己卯、劉胡は袁顗に「二万を率いて錢溪を取り、大雷の残る運糧も回収する」と偽って馬を徴発させ、そのまま梅根へ逃走した。薛常宝に船を整えさせ、南陵諸軍と大雷諸城を焼いて退いた。
- 庚辰、建安王休仁は袁顗営に入り、十万の降兵を受け入れた。
八月:袁顗・劉胡・鄧琬・子勛の最期
- 沈攸之らが袁顗を追うと、袁顗は鵲頭で薛伯珍ら数千とともに逃れ、尋陽へ向かおうとした。途中で将士を労うため馬を殺し、「まず尋陽で主上に謝罪してから自刎したい」と語ったが、翌朝、薛伯珍に斬られた。さらに俞湛之が伯珍も斬り、その首を戦功として送った。
- 劉胡は二万を率いて尋陽へ向かい、子勛には「袁顗はすでに降り、軍も散った。自分だけが帰ったので、一戦分の処置を急げ」と偽り、実際には江外から沔口へ逃げた。
- 鄧琬は狼狽し、張悦のもとで相談した。張悦は帳後に伏兵を置き、酒を求める合図で子の張洵に鄧琬を斬らせた。
- 中書舎人潘欣之が兵を率いて来たが、張悦は「鄧琬が謀反したので討った」と説明し、潘欣之も退いて鄧琬の子らを殺した。張悦は鄧琬の首を携えて単舟で建安王休仁に降った。
- 尋陽では混乱が広がり、蔡那の子蔡道淵が作部の拘束を脱して入城し、子勛を捕えて幽閉した。
- 沈攸之らが到着すると、晋安王子勛は斬られ、その首は建康へ送られた。年十一であった。
- さらに鄧琬が三呉方面に差し向けていた張淹も、劉胡敗北を聞いた副将費曄に上饒で斬られ、降伏した。
- 廃帝の時代、衣冠の人々は禍を避けようと外へ逃れたが、この乱で多くが流離して死に、蔡興宗の先見が改めて認められた。
九月:残党平定
- 九月壬辰、山陽王休祐は荊州刺史に移された。
- 癸巳、戒厳が解かれ、大赦が行われた。
- 庚子、司徒休仁は尋陽に至り、呉喜・張興世を荊州へ、沈懐明を郢州へ、劉亮・張敬児を雍州へ、孫超之を湘州へ、沈思仁・任農夫を豫章へ向かわせ、残敵の平定に当たらせた。
- 劉胡は石城まで逃れたが捕えられて斬られた。
- 郢州行事張沈は僧に化けて逃げたが、追われて殺された。
- 荊州行事劉道憲は濃湖敗北を聞いて軍を解き、使者を送って罪を謝したが、荊州治中宗景らが城に入り、劉道憲を殺し、臨海王子頊を捕えて降った。
- 孔道存も尋陽平定を知って降伏を願い出たが、柳世隆・劉亮の到着を聞くと、三子とともに自殺した。
- 明帝は何慧文に才があるとして呉喜に赦免を伝えさせたが、何慧文は忠臣を殺した身で天下の士に会う顔がないとして自殺した。
- 安陸王子綏、臨海王子頊、邵陵王子元はいずれも賜死となり、劉順とその一党も荊州で処刑された。
- 死節の臣には追贈が、有功者には褒賞が行われた。
九月:北魏で郡学設置
- 己酉、北魏は郡学を初めて設け、博士・助教・生員を置いた。高允と李訢の建議によるもので、五胡十六国の戦乱で停滞していた学制が、ここでようやく整えられ始めた。
十月:世祖の諸子を処刑
- 司徒休仁が尋陽から帰ると、松滋侯子房ら世祖の諸子がなお生きているのは将来の社稷にとって危ういと明帝に進言した。
- 冬十月乙卯、松滋侯子房、永嘉王子仁、始安王子真、淮南王子孟、南平王子産、廬陵王子輿、子趨、子期、東平王子嗣、子悦らが賜死となった。
- また路休之・路茂之、兗州刺史劉祗、中書舎人厳龍も連座して誅された。
- これで世祖の二十八子はすべて死に絶えた。
十月:合肥陥落
- 劉勔は寿陽を包囲し、垣閎は合肥を攻めたが、なかなか落とせなかった。
- 会議の席で馬隊主王広之が、将軍の乗馬を預けてくれれば合肥を落としてみせると言った。幢主皇甫粛はこれを無礼として怒ったが、劉勔はその気概を買い、鞍ごと馬を与えた。
- 王広之は三日で合肥を落とし、薛道標は淮西へ逃げて常珍奇のもとへ走った。
- 劉勔は王広之を軍主に抜擢した。広之は皇甫粛に、才能を見抜けぬ者はこういうことになると語ったが、のちには恨まず、かえって彼を推挙した。
十月:淮北諸鎮の降伏と北伐決定
- 沈霊宝は廬江から兵を出して晋熙を攻め、晋熙太守閻湛之は城を棄てて逃げた。
- 徐州刺史薛安都、益州刺史蕭恵開、梁州刺史柳元怙、兗州刺史畢衆敬、豫章太守殷孚、汝南太守常珍奇らは、いずれも使者を送って降伏を願い出た。
- 南方がほぼ平定された明帝は、今度は威勢を淮北へ示そうとして、乙亥、張永と沈攸之に甲士五万を率いさせ、薛安都を迎えさせた。
- 蔡興宗は、安都は本心から帰順しているのだから、単使と一通の書で足りる、重兵で迎えれば疑って北魏を招く恐れがあると反対した。罪を問うにしても、これまで赦した者は多いし、安都は辺鎮を押さえる大物だから、懐柔するのが国益だと論じた。
- 征北司馬として南徐州を代行していた蕭道成も、安都は狡猾で兵を向けるのは得策でないと述べたが、明帝は諸軍の鋭さを過信して退けた。
十月〜十一月:薛安都・常珍奇、魏に降る
- 宋の大軍北上を聞いた薛安都は恐れ、北魏に降伏を願い、常珍奇も懸瓠をもって魏に降った。いずれも救兵を求めた。
- 戊寅、明帝は王子昱を皇太子に立てた。
- 薛安都は子を人質として魏に送った。北魏は尉元・孔伯恭らに騎兵一万を与えて東道から彭城を救わせ、西河公石・張窮奇には西道から懸瓠救援に向かわせた。
- 薛安都は魏から都督徐雍等五州諸軍事・鎮南大将軍・徐州刺史に、常珍奇は平南将軍・豫州刺史に任じられた。
十一月:畢衆敬も魏へ
- 申纂は魏に偽降して尉元を迎え入れたが、内心では備えを固めていた。魏軍が無塩に着くと、申纂は門を閉ざして拒んだ。
- 薛安都が魏を呼んだ際、畢衆敬はそれに同調しなかったため、宋朝は彼を兗州刺史とした。
- しかし建康にいた畢衆敬の子畢元賓は、以前の別件で処刑されていた。衆敬はこれを知り、白髪の身にただ一人の子すら守れなかったと激怒した。
- 十一月壬子、魏軍が瑖丘に至ると、畢衆敬は魏に降った。尉元は部将を先に城へ入れて実権を奪ったため、衆敬は後悔して数日食を断った。
十二月:懸瓠・寿陽・益州
- 十二月己未、尉元軍は秺に進んだ。
- 西河公石は上蔡に至り、常珍奇が文武を率いて迎えた。石は汝北に留まろうとしたが、中書博士鄭羲が、珍奇の真意は測りがたいから、直ちに城へ入って鍵と庫を押さえるべきだと進言した。石はそれに従い、城中を掌握した。夜、珍奇は府舎を焼いて変を起こそうとしたが、石の警戒が厳しく断念した。
- 淮西七郡の民は魏に属するのを嫌って南へ逃げる者が多かったが、魏の建安王陸馛が新附の民を慰撫し、捕虜奴婢になっていた者も解放したため、人心はようやく安定した。
- 乙丑、明帝は尋陽に従ったことで削官・禁錮としていた者を赦し、原籍に戻して能力に応じて再任すると詔した。
十二月:寿陽降伏
- 劉勔は春から冬末まで寿陽を包囲し、内攻外禦で一度も敗れず、しかも寛厚で将士の信頼を得ていた。
- 尋陽平定後、明帝は中書に詔を書かせて殷琰を諭そうとしたが、蔡興宗は、天下が定まった今こそ皇帝自筆の数行を与えて安心させるべきで、中書作成の詔では偽物と疑われ、かえって収拾が遅れると進言した。だが採用されなかった。
- 殷琰は詔を見て劉勔の偽作だと思い、降らなかった。杜叔宝は尋陽敗北の報を隠し、伝える者を殺して守りを固めた。
- 明帝は降人をすべて寿陽城下へ送り、城内の知人と語らせたため、城中では士気が大きく崩れた。
- 殷琰は魏への降伏を考えたが、主簿夏侯詳が、もとは忠義のために挙兵したのだから、社稷の主が定まった今は朝廷へ帰るべきであり、北面して異族に従うのは誤りだと説いた。
- 夏侯詳は劉勔にも会い、寛恕を約束させて城下で城内に呼びかけた。
- 丙寅、殷琰は将佐を率い、面縛して出降した。劉勔は誰一人殺さず、兵にも厳命して民の財産を侵させなかったため、寿陽の人々は大いに喜んだ。
- 魏軍は師水まで来て寿陽を救おうとしたが、すでに殷琰が降っていたため、義陽の民数千を掠めて去った。
- 殷琰はのち再び仕え、少府にまで昇って卒した。
十二月:益州の再乱と蕭恵開の帰順
- 益州刺史蕭恵開は刑罰を多用して蜀人に怨まれていた。費欣寿の敗死と程法度の進軍不能が伝わると、晋原郡がまず叛き、諸郡も呼応して成都を包囲した。
- 城中の東兵は二千にも満たなかったため、蕭恵開は蜀人を城外へ出し、自分の手勢だけで守った。尋陽平定の報を聞いた蜀人は城を屠ろうとして十余万に膨れ上がったが、蕭恵開は出撃するたび勝った。
- 明帝は弟の蕭恵基を陸路から派遣して赦免を伝えたが、涪で蜀人に阻まれた。恵基は部曲を率いてこれを破り、ようやく前進した。
- 蕭恵開は詔を受けて帰順し、成都包囲は解けた。
- しかし明帝が同族の蕭宝首を水路で派遣して益州慰撫を行わせると、宝首は平蜀の功を自分のものにしようとして、かえって蜀人を煽って蕭恵開を攻めさせた。各地の離散兵も戻って再び二十万を号する大軍となった。
- 将佐は、慰労の使者が来ているのに戦うわけにはいかないと反対したが、蕭恵開は、上奏の道が断たれている以上、戦って事実を朝廷へ通じるほかないと断じた。
- 宋寧太守蕭恵訓ら一万を出して大破し、蕭宝首を生け捕りにした。事実を奏聞すると、明帝は宝首を建康へ送らせ、蕭恵開を召還した。
- 明帝が挙兵の理由を問うと、蕭恵開は、自分はただ逆順を知るのみで天命は知らず、また自分がいなければ乱も平定もできなかったと答えた。明帝はこれを許した。
年末:僑州設置と彭城攻防
- この年、兗州を淮陰、徐州を鍾離に僑置し、青州・冀州は一人の刺史が兼ねて鬱州に治める形とした。鬱州は海中の島で、石を積んだ城があるだけの荒れた土地だった。
- 張永・沈攸之は彭城に迫って下礚に軍し、王穆之に五千を与えて武原で輜重を守らせた。
- 魏の尉元が彭城に至ると、薛安都は出迎えた。尉元は李璨を先に入城させて鍵を回収し、孔伯恭に精兵二千で城内外を抑えさせてから入った。降伏者を敵のように扱う慎重な措置だった。
- その夜、張永は南門を攻めたが落とせず退いた。
- 尉元は薛安都を礼遇せず、薛安都は魏に降ったことを悔いて再叛を企てた。だが尉元らに重賂を贈って和解を図り、罪を女婿裴祖隆に着せて殺した。
- 尉元は李珠に彭城守備を任せ、自ら張永を攻めて糧道を断ち、さらに武原で王穆之を破った。王穆之は残兵を率いて張永の軍に合流し、魏軍の圧力は強まった。