資治通鑑宋紀十二 太宗明皇帝上之上 泰始 元年 465年
春正月 改元と大赦
- 正月乙未朔、廃帝は年号を永光に改め、大赦を行った。もっともこの年は政変が相次ぎ、江夏王義恭・柳元景・顔師伯らが廃帝を弑して景和に改元し、さらに明帝が立って泰始に改元したため、一年のうちに三度も改元が行われた。
- その翌日、北魏でも大赦が行われた。
二月 北魏主の巡幸と銭制の混乱
- 二月、北魏主は楼煩宮へ赴いた。
- 宋では孝建年間以来、民間での私鋳銭が横行し、貨幣の質が崩れて流通が滞っていたため、朝廷は二銖銭を新たに鋳造した。
- しかし官銭が出るたびに民間がこれをまねてさらに粗悪で小型の銭を作り、外縁も不明瞭で削りもしない極薄の銭が出回った。こうした銭は「耒子」と呼ばれた。
三月〜五月 北魏文成帝の死と乙渾の専横
- 三月、北魏主は平城へ帰還した。
- 五月、北魏の高宗文成帝が二十六歳で死去し、太子の拓跋弘が即位した。これはのちの献文帝で、時に十二歳であった。
- 文成帝は、太武帝末年の内乱と国力の疲弊ののち、時勢に応じて抑制的に政を行い、内外の人心を安定させていた。
- 幼帝の即位後、侍中・車騎大将軍の乙渾が権力を専断し、詔を偽って尚書楊保年、平陽公賈愛仁、南陽公張天度を宮中で殺した。
- 司徒の平原王陸麗は代郡の温泉で療養中だったが、司衛監の穆多侯が召しに来た際、乙渾に君主を軽んじる心があると警告した。だが陸麗は、君父の喪を聞いて赴かぬわけにはいかぬとして平城へ急行した。
- 陸麗は乙渾の違法をたびたび諫めたため、乙渾は陸麗と穆多侯をともに殺した。穆多侯は穆寿の弟であった。
- さらに乙渾は太尉・録尚書事となり、東安王劉尼が司徒、和其奴が司空となった。殿中尚書の順陽公郁が乙渾討伐を図ると、これも殺された。
- 幼主のもとで国家が疑心に包まれる中、乙渾は忠良を次々に誅し、北魏の朝廷は危機的な様相を呈した。
- 同月、淮南王他が凉州鎮守を命じられ、また北魏では酒禁が解除された。
夏 宋朝で柳元景・顔師伯が加任される
- 宋では柳元景に南豫州刺史、顔師伯に丹陽尹が加えられた。
七月 乙渾が丞相となる
- 七月、北魏では乙渾が丞相となり、諸王の上位に置かれ、大小あらゆる政務が彼の判断で決せられるようになった。
廃帝と戴法興の対立
- 廃帝は幼少から気性が激しく、即位当初こそ太后・大臣・戴法興らを恐れていたが、太后の死後、成長するにつれて独断を望むようになった。
- 戴法興はたびたびこれを抑え、「その振る舞いは営陽王のようになる」とたしなめたため、帝はしだいに法興を憎むようになった。
- 側近の宦官・華願児は帝から莫大な恩賞を受けていたが、法興がしばしばこれを削減したため、強く恨んだ。
- 願児は外の風聞を集め、世間では「宮中には二人の天子がいる。戴法興こそ本当の天子で、帝は偽物にすぎない」と噂していると告げた。さらに、法興が太宰義恭・柳元景・顔師伯と一体となって権勢を振るい、客が数百人も出入りして内外の士庶が皆これを恐れていること、ついには帝位も法興のものとなるかもしれないと讒言した。
- 帝はついに法興を罷免して郷里へ帰し、さらに遠方へ流そうとしたのち、八月辛酉に死を賜った。
奚顕度の処刑
- 中書通事舎人の巣尚之の部下で、員外散騎侍郎の奚顕度は、先帝以来の寵臣で工役を苛酷に督励し、人々に恐れられていた。
- 帝が冗談めかして「そのうち除く」と言ったのを側近がその場で勅命と受け取り、顕度は即座に殺された。
顔師伯の失脚と大臣たちの不安
- 尚書右僕射・領衛尉卿・丹陽尹の顔師伯は長く権勢を握り、驕慢で奢侈・淫逸であったため、士大夫の反感を買っていた。
- 帝は親政を志し、八月庚午、師伯を尚書左僕射に移す一方、衛尉卿と丹陽尹を解き、吏部尚書王彧を右僕射として権限を分け与えた。師伯はここに至って危惧を抱いた。
- 孝武帝の時代には王公大臣は常に疑われ、互いの往来さえ慎んでいた。先帝の死後、義恭らはやっと横死を免れたと喜んだが、葬礼が終わるとほどなく音楽や酒宴にふけった。帝はこれを内心快く思っていなかった。
- 戴法興が殺されると、大臣たちは皆震えおののき、身の危険を感じた。
義恭・柳元景・顔師伯の謀議と沈慶之の告発
- 柳元景と顔師伯はひそかに廃帝を廃し、義恭を立てようと謀ったが、決断できずにいた。
- 元景はその計画を沈慶之に打ち明けた。だが慶之は義恭と親しくなく、また師伯が朝政を独断して自分を関与させなかったことを恨んでいた。師伯は「沈公は爪牙にすぎぬ」と令史に語ったとされる。
- 慶之はついにこの陰謀を帝に告げた。
癸酉 義恭・柳元景・顔師伯らの誅殺
- 癸酉、帝は自ら羽林兵を率いて義恭を討ち、その四子とともに殺した。死体は残酷に切り裂かれ、眼球を蜜に漬けて「鬼目粽」と呼ぶなど、異常な侮辱が加えられた。
- 柳元景は勅使に召され、左右から危険を知らされたが、朝服を整えて車に乗り応召した。弟の叔仁は武装して抵抗を勧めたものの、元景は厳しく制して出頭し、落ち着いた態度で処刑された。八子・六弟・諸甥も皆殺された。
- 顔師伯は道中で捕えられて殺され、六子も連座した。
- 廷尉の劉徳願も処刑された。
- 帝は景和に改元し、文武百官を二等進めた。
- さらに使者を派して湘州刺史・江夏世子の伯禽を誅した。義恭が世子に伯禽と名づけたのは、自らを周公になぞらえたためである。
- 以後、公卿以下は奴隷のように引きずられ、打ち据えられるありさまとなった。
袁顗・徐爰の登用
- 廃帝が太子であったころ失行が多く、孝武帝は新安王子鸞への廃立を考えたことがあったが、袁顗が太子の学問を強く称えたため、その計画はやんだ。帝はこの恩を覚えていた。
- 義恭らを誅したのち、帝は袁顗を吏部尚書に任じ、朝政に参与させた。
- 尚書左丞の徐爰もまた、同じ事件で功があったとして県子に封じられた。
- 徐爰は人に取り入ることに長け、経書にも通じ、元嘉年間から側近として重用されていた。大明年間にはことに委任が厚く、旧来の殿省の人物が多く誅逐される中で、巧みに迎合して最後まで寵を保った。
- 廃帝は徐爰をいよいよ厚遇し、外出の際には沈慶之や山陰公主と同じ車に乗せることすらあった。
山陰公主の放縦
- 山陰公主は廃帝の姉で、何戢に嫁いでいたが、きわめて放縦であった。
- 公主は帝に対し、「あなたには六宮の女が無数にいるのに、自分には夫が一人しかいないのは不公平だ」と訴えた。
- 帝は公主のために、美貌と髪の美しさを備えた男たち三十人を「面首」として付け、会稽郡長公主に進爵し、俸秩を郡王と同等にした。
- 吏部郎の褚淵は容姿端麗であったため、公主が帝に請うて侍らせたが、淵は十余日耐えたのち、死を誓って拒んでようやく免れた。褚淵は褚湛之の子である。
太廟での不敬
- 帝は太廟に祖先の肖像を別に描かせたうえで、廟中で高祖を指して「大英雄で、幾人もの天子を生け捕りにした」と言い、太祖についても末年には子に首を斬られたと嘲った。
- 孝武帝の像を見ては鼻が赤いことを笑い、画工を呼んでわざわざその特徴を誇張させた。
諸王の任命と留京
- 建安王休仁を雍州刺史、湘東王彧を南豫州刺史としたが、いずれも実際には赴任させず都に留め置いた。
- 司徒・揚州刺史の豫章王子尚に尚書令を兼ねさせ、沈慶之を侍中・太尉としたが、慶之は固辞した。
- 青・冀二州刺史の王玄謨が領軍将軍に徴された。
九月 湖熟への行幸と新安王子鸞の死
- 九月癸巳、帝は湖熟へ行幸し、戊戌に建康へ戻った。
- 新安王子鸞は先帝の寵愛を受けていたため、帝はこれを憎み、辛丑に使者を送って死を賜った。
- さらに同母弟の南海王子師と、その母妹を殺し、生母の殷貴妃の墓を暴いた。景寧陵も掘り返そうとしたが、太史が帝に不利としたため中止した。
謝莊の拘禁
- かつて謝莊が殷貴妃の誄で「堯の門を助けた」と述べたことについて、帝はこれを鉤弋夫人に比したものと受け取って激怒し、謝莊を殺そうとした。
- しかし側近は、すぐ殺すより尚方に繋いで苦しみを味わわせてからでも遅くないと勧め、帝はこれに従った。
義陽王昶討伐と北魏への奔走
- 徐州刺史の義陽王昶は以前から孝武帝に嫌われ、しばしば謀反の流言があったが、この年はいよいよ噂が激しかった。帝はむしろそのような緊張状態を好んでいた。
- 昶が典籤の蘧法生を建康へ送り、入朝を願うと、帝は「義陽王は太宰と謀反した」と言い、法生を厳しく問いただした。法生は恐れて彭城へ逃げ帰った。
- 帝はこれを口実として詔を下し、昶討伐を命じ、自ら兵を率いて渡江し、沈慶之を先鋒とした。
- 昶は配下の郡に檄を飛ばしたが、いずれも命に従わず、使者を斬ったため内心は皆離反していた。
- 昶は成算がないと知ると、母妻を捨て、愛妾を連れて夜中に数十騎で北門から脱出し、北魏へ亡命した。
- 昶は学問と文才があり、北魏はこれを重んじて公主を娶らせ、侍中・征南将軍・駙馬都尉とし、丹陽王に封じた。
袁顗の外任と蔡興宗との議論
- 袁顗は一時は帝に寵任されたが、まもなく意にかなわず待遇が急に衰えたため、弾劾されて白衣のまま職務を執ることになった。袁顗は恐れて、口実を設けて外任を願い出た。
- 甲寅、袁顗は雍州刺史となった。
- その舅の蔡興宗は、襄陽は星回りが悪いから行くべきでないと止めたが、袁顗は目の前の刃を避けるので精一杯で、遠い天道などかまっていられないと答えた。
- 蔡興宗には臨海王子頊の長史・南郡太守として荊州に赴き州府を執らせる案があったが、興宗はこれを辞した。
- 袁顗は、朝廷の情勢は危険極まりなく、いま外に出れば荊州・襄陽の兵力を用いて桓公・文公のような功業も立て得ると説いたが、興宗は、自分は宮中にいて変を待ち、内乱が収まれば外の形勢は計り難いと述べ、それぞれ志を異にした。
- 袁顗は狼狽して出発し、尋陽まで来てようやく助かったと喜んだ。
- 尋陽では鄧琬が晉安王子勛の長史として江州政務を代行しており、袁顗は彼と異常なほど親密に交わったため、人々はその異志を察した。
- その後、蔡興宗は再び吏部尚書に任じられた。
戊午 解厳と白下・瓜歩への行幸
- 戊午、戒厳令は解除され、帝は白下から江を渡って瓜歩まで至った。
私鋳容認による貨幣崩壊
- 沈慶之の建議により、民間の私鋳銭が再び許されると、貨幣はますます粗悪化した。
- 千枚連ねても三寸に満たない銭が出回り、これを「鵝眼銭」と呼んだ。さらに劣るものは「綖環銭」と呼ばれ、糸で貫いても水に沈まず、手で持つだけで割れるほどであった。
- 市場では数を数えて価値を量ることすらできず、十万銭でも一掬に満たず、米一斗が一万銭にもなって商業は機能しなくなった。
冬十月 王藻・孔霊符の死
- 十月丙寅、帝は建康へ帰った。
- 己卯、帝の舅である東陽太守王藻は、妻の臨川長公主の讒言によって獄死した。王藻は王太后の弟であった。
- 会稽太守孔霊符は赴任先ごとに治績があったが、近臣に逆らったため讒言を受け、使者に鞭打ち殺され、二子も誅された。
新蔡長公主と何邁の事件
- 寧朔将軍何邁は新蔡長公主の夫であったが、帝はこの公主を後宮に入れて「謝貴嬪」と呼び、公主が死んだと偽って宮婢の遺体を何邁の邸へ送り、葬礼まで行わせた。
- 庚辰、帝はこの貴嬪を夫人に立て、鸞輅・龍旂・出警入蹕など、皇后に近い待遇を与えた。
- 何邁は豪侠で死士を多く抱えており、帝の外出を機に廃して晉安王子勛を立てようと謀ったが、事前に漏れた。
- 十一月壬辰、帝は自ら兵を率いて何邁を誅した。
沈慶之への謀議
- 顔師伯・柳元景の事件を告発して以来、沈慶之は帝に近づいたが、たびたび諫言したためしだいに帝に嫌われ、自らも恐れて門を閉ざし客を断った。
- 蔡興宗は、慶之が請託を避けているだけだろうと使者に伝えたうえで、自ら慶之を訪ねた。
- 興宗は、帝の所業は人倫の道を尽くしており、もはや改悛は望めないこと、天下の人望は慶之一人に集まっていること、いま決断すれば殿中旧部や三呉の勇士、沈攸之・陸攸之らも応じて大事はたやすく定まること、そして今動かなければ、先に別人が起っても慶之自身が昏君に従った責任を免れないことを説いた。
- また、帝が酔って貴臣の邸に長居し、左右を遠ざけて閣内に入ることもあるから、千載一遇の機会だと勧めた。
- しかし慶之は、危うさは承知しているが、忠を尽くして天命に任せるほかない、自分は老いて兵力も乏しく大事は成し得ないと答え、ついに決起しなかった。
沈文秀の説得
- 青州刺史沈文秀は慶之の弟子にあたり、赴任前に部曲を率いて白下に屯していた。
- 文秀もまた、帝の狂暴さでは大乱は近く、自分たち一門が恩寵を受けている以上、世人は同心と見なすだろうし、帝は愛憎が定まらず予測不能だから、今この軍勢で図るのが容易だと涙ながらに再三説いた。
- だが慶之は最後まで従わず、文秀はそのまま赴任した。
沈慶之の死
- 何邁誅殺の際、帝は慶之が必ず諫めに来ると見て、あらかじめ青溪の諸橋を閉ざした。慶之は果たして赴いたが入れず、引き返した。
- そこで帝は、慶之の従兄の子で直閤将軍の沈攸之に薬を持たせて送った。慶之が飲まないと、攸之は寝具で覆って殺した。攸之は以前、慶之に戦功の賞を抑えられた恨みを抱いていたという。
- 慶之は八十歳であった。
- 長子の沈文叔は、義恭のように遺体を切断されることを恐れ、弟の文季に「自分は死ねる、お前は報いよ」と言って薬を飲んで死んだ。秘書郎の昭明も首をくくって死んだ。
- 文季だけは刀を振り回して馬で逃れ、追手も近づけず生き延びた。
- 帝は慶之を病死と偽り、侍中・太尉を追贈し、忠武公と諡し、葬礼は厚く行った。
王玄謨・蔡興宗の策動未遂
- 領軍将軍王玄謨もまた、刑罰と殺戮の行き過ぎをたびたび泣いて諫めたため、帝の怒りを買った。宿将として名望が高く、すでに誅されたという流言まで立った。
- 蔡興宗は、玄謨の典籤である包法栄を通じて決起を勧めたが、玄謨は容易でないとして断り、秘密だけは漏らさぬと答えた。
- 右衛将軍劉道隆は帝の寵臣で禁兵を掌握していた。興宗は夜の随従中に遠回しに誘ったが、道隆はその意図を察して、これ以上言うなと手を強くつねって止めた。
- 暴政の下で誰もが危機を感じており、興宗の非常策は多くに知られながらも漏れなかった。
路皇后の立后と諸王への虐待
- 壬寅、路氏が皇后に立てられた。路氏は太皇太后の弟・道慶の娘である。
- 帝は諸父たちを恐れて皆建康に集め、殿中に拘禁し、殴打・引きずり回して人の道を失った扱いをした。
- 湘東王彧・建安王休仁・山陽王休祐はいずれも体格が大きく、竹籠に入れて重さを量り、彧を「猪王」、休仁を「殺王」、休祐を「賊王」と呼んだ。年長の三王をことに憎み、常に手元に置いた。
- 東海王禕は愚鈍なので「驢王」と呼ばれ、桂陽王休範・巴陵王休若はまだ若かったため、比較的自由があった。
- あるときは木槽に飯と雑食を混ぜて入れ、泥水の坑に裸の彧を入れて、口で槽の飯を食わせて笑いものにした。
- 三王を殺そうとしたことは十数回に及んだが、休仁は知略があり、談笑と迎合で帝の気持ちをそらし、その都度切り抜けた。
劉曚の妾の出産と皇子誕生
- 少府劉曚の妾が臨月になると、帝はこれを後宮に入れ、男子を産めば皇太子にしようと考えた。
- 湘東王彧がかつて帝の意に逆らうと、帝は裸にして手足を縛り、棒に通して担がせ、太官へ運ばせて「今日は猪を屠る」と言った。
- 休仁は笑って「まだ殺すべきではない。皇子が生まれたら、その肝肺を取るのに使えばよい」と言い、帝は怒りを解いて一夜だけ廷尉に留め、釈放した。
- 丁未、劉曚の妾は男子を産み、帝はその子を「皇子」と名づけ、大赦を行い、父の後を継ぐ者には一級の爵を加えた。
晉安王子勛への死命と鄧琬の決起
- 帝は、太祖・世祖が兄弟中三番目であったこと、そして江州刺史の晉安王子勛もまた三番目であることを不吉として嫌った。
- 何邁の事件に関連して、左右の朱景雲に薬を持たせ、子勛に死を賜おうとしたが、景雲は湓口で止まって進まなかった。
- 子勛の典籤謝道遇、主帥潘欣之、侍書褚霊嗣がこれを知って長史鄧琬に告げ、泣いて方策を求めた。
- 鄧琬は、自分は南方の寒門出身だが先帝の恩で子勛を託された以上、百口の家を惜しまず幼主のために死ぬべきだと述べ、昏君を廃して明君を立てるべきだと主張した。
- 戊申、琬は子勛の教令を称して所部に戒厳を命じ、子勛を戎服で庁に出させて群臣に諭告した。録事参軍陶亮が真っ先に效死を誓い、他も皆これに従った。
- 陶亮・張沈・沈懐宝・薛常宝・陳紹宗らが軍事指揮に任じられた。
- もと荊州で行事を務めていた張悦が湓口に送られてくると、琬は子勛の命と称してその拘束を解き、車を与えて司馬にした。張悦は張暢の弟である。
- 鄧琬と張悦は内外の政務を掌握し、俞伯奇に五百を率いさせて大雷を遮断し、商旅や公私の使者を止めた。
- さらに江州配下の諸郡から民丁を徴し、兵器を集め、十日ほどで甲士五千を得て、大雷の両岸に営塁を築いた。孫冲之も中兵を領して前軍に加わった。
戊午 妃主への暴虐
- 戊午、帝は諸妃・公主を前に並べ、左右に命じて辱めさせた。
- 南平王鑠の妃・江氏だけは従わなかったため、帝は怒ってその三子、南平王敬猷・廬陵王敬先・安南侯敬淵を殺し、江妃を百回鞭打った。
湘中天子の流言と弑逆計画の進展
- 以前から民間では「湘中から天子が出る」という流言があり、帝はこれを厭うため荊州・湘州へ南巡しようとした。翌朝には湘東王彧を先に殺してから出発するつもりであった。
- 先に諸公を殺した後、帝は群臣が自分を謀ることを恐れ、宗越・譚金童・太一・沈攸之ら勇力ある者を爪牙として引き立て、美人や金帛で満たした。彼らは殿中に久しくあり、諸人に恐れられていた。
- だが帝の不道はいよいよ甚だしく、中外の人心は騒然とし、宿衛の士も皆異志を抱きながら、宗越らを恐れて実行できずにいた。
弑逆計画
- このころ三王は長く幽閉されており、どうすべきかも分からなかった。
- 湘東王彧の主衣・会稽の阮佃夫、内監の王道隆、学官令の李道児、直閤将軍の柳光世、帝の側近の淳于文祖らが、ひそかに廃帝を弑する計画を立てた。
- 帝が立后に際して諸王に宦官を付けたため、彧の側近の銭藍生も宮中におり、帝の行動を密かに報告する役を担った。
- 以前、帝は華林園の竹林堂で宮女たちを裸にして追いかけさせ、一人が従わないと斬っていた。夜にはその竹林堂で女に「お前は道に背く暴君で、来年の熟を待たずして死ぬ」と罵られる夢を見たという。似た女を宮中で見つけて斬ったが、再び夢に現れ、上帝に訴えたと罵られた。巫覡は竹林堂に鬼がいると言った。
- その日、夕方に帝が華林園へ出ると、建安王休仁・山陽王休祐・会稽公主は同行したが、湘東王彧だけは秘書省にとどめられ、ますます不安を募らせた。
- 帝が平素から憎んでいた主衣の寿寂之に、阮佃夫は計画を告げ、朱幼・姜産之・王敬則・戴明宝らもこれに応じた。
- 樊僧整も柳光世の説得に応じ、結局十数人が同志となった。阮佃夫は人数が足りないのではと心配したが、寿寂之は多くなれば漏れるとして少数決行を主張した。
夕刻 竹林堂で廃帝が弑される
- その夜、帝は侍衛を退け、巫や綵女数百人とともに竹林堂で鬼を射る儀式をしていた。
- 儀式が終わって音楽を奏させようとしたとき、寿寂之が抜刀して進み、姜産之、淳于文祖らがこれに続いた。
- 休仁は足音の異変を聞いて休祐に「事が起こった」と告げ、二人で景陽山へ走った。
- 帝は寂之を見ると弓で射たが当たらず、綵女たちは四散した。帝も走って「寂之」と三度呼んだが、寂之は追いついてこれを殺した。廃帝は十七歳であった。
湘東王彧の擁立
- 寿寂之は宿衛に向かって、湘東王が太皇太后の命で狂主を除いた、すでに平定したと宣言した。
- 休仁は秘書省へ赴いて湘東王に拝礼し、西堂へ導いて御座に上らせ、諸大臣を召した。
- 変事は急で、王は履物を失い裸足のまま西堂へ着き、なお烏帽子を被っていた。休仁は主衣を呼んで白帽に替えさせ、羽儀を整えた。
- 即位前でありながら、以後の命令文書はすべて令書の形式で施行され、太皇太后の令として廃帝の罪悪が列挙され、湘東王が皇位を継ぐべきことが宣言された。
- 夜が明けるころ宗越らも入ってきたが、湘東王は手厚く遇して彼らを安心させた。
子尚・会稽公主の死と謝莊の釈放
- 廃帝の同母弟で司徒・揚州刺史の豫章王子尚は愚かで反逆的な気質が兄に似ていた。己未、湘東王は太皇太后の令として子尚と会稽公主に死を賜った。
- 建安王休仁らはようやく外邸へ出ることを許され、謝莊も獄から釈放された。
廃帝の葬礼
- 廃帝の遺体はなお太医閤の入口に横たえられていた。
- 蔡興宗は王彧に対し、たとえ暴君でも天下の主であった以上、最低限の葬礼は整えるべきで、そうでなければ四方がこの無礼を口実に兵を挙げかねないと進言した。
- そこで廃帝は秣陵県南に葬られた。
路太后への配慮と論功行賞
- 湘東王の生母沈婕妤は早くに亡くなり、路太后がこれを養育していた。王は太后にきわめて孝順で、太后も深くこれを愛した。
- 王は太后を慰めるため、太后の弟の子である休之を黄門侍郎、茂之を中書侍郎とした。
- 寿寂之ら十四人は県侯に、また別の十二人は県子に封じられた。
十二月 新体制の発足
- 十二月庚申朔、東海王禕を中書監・太尉とした。
- 晉安王子勛を車騎将軍・開府儀同三司に進めた。
- 癸亥、建安王休仁を司徒・尚書令・揚州刺史、山陽王休祐を荊州刺史、桂陽王休範を南徐州刺史とした。
- 乙丑、安陸王子綏を江夏王に改封した。
- 丙寅、湘東王彧が即位し、大赦を行い、年号を泰始に改めた。廃帝時代の不当な封爵は削除・訂正された。
劉道隆・宗越らの粛清
- 庚午、右衛将軍劉道隆を中護軍としたが、道隆は廃帝に近く、建安太妃にも無礼を働いていたため、休仁が辞職を願い出ると、明帝は道隆に死を賜った。
- 宗越・譚金童・太一らも、表面上は新帝に厚遇されたが、内心では不安を抱いていた。明帝も彼らを中枢に置きたくなかったため、外地の大郡を選ばせようと穏やかに告げた。
- 彼らはかえって異変を疑い、反乱を相談して沈攸之に打ち明けたが、攸之はこれを帝に報告し、三人は逮捕されて獄死した。攸之は再び直閤に入った。
追尊・諸王の改封・路太后の待遇
- 辛未、臨賀王子産を南平王に、晉熙王子輿を廬陵王に改封した。
- 壬申、王景文が尚書僕射となった。景文とは王彧の字であり、皇帝の名を避けて字で呼ばれたのである。
- 乙亥、生母の沈太妃を宣太后と追尊し、その陵を崇寧陵と名づけた。
- 路太后については、有司が本来の称号に戻して外宮へ移すべきだと上奏したが、明帝は許さず、戊寅に崇憲皇太后と尊び、崇憲宮に住まわせ、奉養・礼遇を旧と変えなかった。
- 皇后には王氏を立てた。王氏は王景文の妹である。
銭制の是正
- 明帝は二銖銭を廃止し、鵝眼銭・綖環銭を禁じ、それ以外の銭は通用を認めた。
江州での鄧琬の野心
- 江州では、朝廷から下った令書を見て、佐吏たちは暴政が除かれ、子勛にも開府の栄誉が与えられたのだから公私ともに慶ぶべきだとした。
- しかし鄧琬は、子勛が兄弟の三番目であること、尋陽で兵を挙げたことが孝武帝の旧事に符合すると見て、必ず大事が成ると思い込み、「黄閤どころか端門を開くべき方だ」と言って令書を地に投げ捨てた。
- 人々は驚愕したが、琬はさらに陶亮らと兵甲を整え、四方から兵を募った。
袁顗・子勛方の挙兵拡大
- 袁顗は襄陽に着くと、諮議参軍劉胡とともに兵器を整え、兵士を選抜し、太皇太后の密令を受けたと偽って挙兵した。
- 牙旗を立て、檄を飛ばし、子勛に帝位へ即くよう勧める上表を送った。
- 辛巳、朝廷は山陽王休祐を江州刺史とし、子勛に代えようとした。臨海王子頊は引き続き荊州に留め置かれた。
- 先に廃帝が邵陵王子元を湘州刺史とし、沈仲玉を道路行事として派遣していたが、鵲頭で尋陽挙兵を聞き、先に進めなかった。鄧琬はこれを劫迎して、子勛に桑尾で牙旗を立てさせた。
- 子勛方は檄文を建康に送り、自らを「孤」と称して前例に従い、昏君を退けて明君を立てると述べた。さらに明帝を太皇太后の命を偽り、世祖の宗統を奪い、兄弟十三人を危うくして先帝の祭祀を絶やそうとする者だと非難した。
- 郢州刺史安陸王子綏も子勛に呼応した。もとは廃帝討伐の檄を受けて兵を解いていたが、江州・雍州がなお兵備を進めていると知り、行事の茍卞之が危険を感じて中兵参軍鄭景玄に軍糧を持たせて急行させた。
- 荊州では行事の孔道存が臨海王子頊を奉じ、会稽では将佐が尋陽王子房を奉じて、それぞれ兵を挙げて子勛に応じた。