資治通鑑宋紀十一 世祖孝武皇帝 大明 八年 464年

正月〜閏五月・末年の政局

  • 春正月、北魏主は弟の雲を任城王に立てた。
  • 戊子、徐州刺史新安王子鸞に司徒を兼ねさせた。
  • 閏五月、太宰義恭に太尉を領させた。
  • 皇帝は晩年、ことに財利を貪り、刺史・二千石が罷免や帰還の際には必ず献上を命じ、さらに樗蒲で奪い取って、全財産を吐き出させるほどであった。
  • 終日酒に酔っていることが多かったが、外から奏事があると居ずまいを正し、まったく酒気を見せなかったので、内外の者は恐れて怠ることがなかった。

閏五月庚申・孝武帝崩御

  • 庚申、皇帝は玉燭殿で崩じた。年三十五。
  • 遺詔で太宰義恭に尚書令を解かせて中書監を加え、柳元景には驃騎将軍・南兗州刺史のまま尚書令を領させ、城内に入って政務を統べさせた。
  • 大事は義恭・元景に、軍事は沈慶之に、尚書省の事は顔師伯に、外監の管掌は王玄謨に委ねるよう定めた。外監と領軍の関係についても沿革の注がある。

廃帝即位

  • その日のうちに皇太子子業が即位した。年十六。
  • 大赦を行った。
  • 吏部尚書蔡興宗が親しく璽綬を奉ると、皇太子はそれを受けながら傲慢で悲しむ様子がなく、興宗は退いて「魯の昭公が叔孫に見抜かれたように、国家の禍はここにある」と語った。これが翌年の弑逆の伏線とされる。

六月〜七月・新政と北方

  • 甲子、太宰義恭に再び録尚書事を命じ、柳元景には開府儀同三司・丹陽尹を領させ、南兗州を解かせた。
  • 六月、北魏主は陰山へ赴いた。
  • 七月、晋安王子勛を江州刺史に任じた。これは翌年の挙兵の伏線となる。
  • 柔然では処羅可汗が死に、子の予成が受羅部真可汗を称し、元号を永康と改めた。のちに部真は兵を率いて北魏に侵入したが、北鎮の遊軍に敗れた。
  • 北魏主は河西へ赴き、高車五部の大集会を自ら見に行ったところ、高車の人々は大いに喜んだ。

七月丙午・孝武帝の葬送

  • 丙午、孝武皇帝を景寧陵に葬り、廟号を世祖とした。陵は丹陽秣陵県巖山にある。
  • 庚戌、皇太后を太皇太后、皇后を皇太后と尊んだ。

八月・制度復旧と政権の実情

  • 乙卯、南北二つの馳道と、孝建以来に改められた諸制度を廃し、元嘉の旧制に戻した。馳道は大明五年に設けられたものであった。
  • 蔡興宗は尚書都座で顔師伯に対し、先帝に徳の不足はあっても即位から終わりまでの道筋は一貫しており、山陵もまだ遠くないのに制度を片端から削ってしまうのは、たとえ王朝交代でもここまではしないと嘆いた。
  • しかし顔師伯は従わなかった。
  • 太宰義恭はもとより戴法興・巢尚之らを恐れており、遺詔で輔政を受けても身を引いて事を避けた。そのため政治は近習に帰し、法興らが朝権を専らにした。
  • 詔勅はすべて彼らの手から出され、尚書の事も大小を問わず彼らが決裁し、義恭や顔師伯は名目だけの存在となった。

蔡興宗の抗争

  • 吏部を預かる蔡興宗は、朝見のたびに義恭へ賢者登用を進言し、得失を正し、朝政全般を論じた。
  • だが義恭は気が弱く、法興に迎合して、興宗の言に震えるばかりで応じられなかった。
  • 興宗が選曹の案件を上げるたびに、法興や尚之らは勝手に書き換え、人事はほとんど残らなかった。
  • 興宗は朝堂で義恭と師伯に向かい、「主上は諒陰の中で万機を親裁していないのに、選挙の密事がたびたび改竄され、それも公の筆ではない。いったいどの天子の意思なのか」と批判した。
  • 興宗はしばしば選事をめぐって義恭らと争論し、往復して主張を曲げなかったため、義恭や法興らに憎まれた。
  • その結果、新昌太守へ左遷されたが、世望を考慮されて建康にとどめ置かれた。新昌郡は交州の地である。

後宮・宗室・政局

  • 丙辰、先に亡くなった何妃を追って献皇后に立てた。
  • 乙丑、新安王子鸞は司徒兼領を解かれた。
  • 戴法興らは王玄謨の剛直さを嫌い、八月丁卯、南徐州刺史へ出した。
  • 王太后が重病になると、廃帝を呼んだが、帝は「病人のところには鬼が多い、どうして行けようか」と答えた。
  • 太后は怒って「刀を持ってきて私の腹を裂け。どうしてこんな不出来な子が生まれたのか」と罵った。
  • 己丑、太后が死去した。

秋〜冬・人事と州名復旧

  • 九月、北魏主は平城へ帰還した。
  • 癸卯、劉遵考を特進・右光禄大夫とした。
  • 乙卯、文穆皇后を景寧陵に葬った。注では、孝武帝の皇后なので諡は「武穆」とあるべきだとする。
  • 十二月、王畿の諸郡をふたたび揚州とし、従来の揚州は東揚州とした。
  • 癸巳、豫章王子尚を司徒・揚州刺史に任じた。

州県戸口と飢饉

  • この年、青州の州治は東陽へ移された。以前は歴城に移っていた。
  • 宋の版図には州二十二・郡二百七十四・県千二百九十九、戸数九十四万余があったとされるが、注では実際には当時二十一州であり、郡県数も新設分や荒外の実情を含めて概数だと詳しく補正する。各州の所属郡も列挙される。
  • 東方の諸郡では数年来の旱魃と凶作が続き、米一升が数百銭、建康でも百銭余となり、飢え死にする者が十人中六、七人に達した。