資治通鑑宋紀十 世祖孝武皇帝上 孝建 三年 456年

春正月 皇族婚姻と北魏皇后

  • 正月、皇弟の休範を順陽王、休若を巴陵王に立てた。
  • 皇子の子尚を西陽王に封じた。
  • 右衛将軍何瑀の娘を皇太子妃に迎えた。何瑀は何澄之の曾孫である。
  • 大赦を行った。
  • 北魏では馮氏を皇后に立てた。遼西郡公馮朗の娘で、父が秦・雍二州刺史を務めた後に罪死したため、彼女は宮中に没入していた。

二月 北魏太子冊立と典籤の権力

  • 北魏主は子の拓跋弘を皇太子に立てた。まずその母の李貴人に、後事を託す兄弟らを記させてから、旧例に従って死を賜った。
  • 宗慤を豫州刺史に任じた。
  • この頃、府州で政務を扱う際に「典籤」が実権を握る弊害が目立っていた。もとは諸王が幼少で地方に出る場合、近習が文書出納を補佐する役であったが、しだいに教命の出納と政務の要を抑えるようになり、刺史が専断できなくなっていた。
  • 宗慤の下では、臨安の呉喜が典籤となり、慤の施政をたびたび差し止めた。宗慤は、自分は老いて国に尽くしてきたのに、わずかな州でさえ典籤と並んで治めねばならぬのかと激怒し、呉喜は額から血を流して詫び、ようやく事がおさまった。

北魏 丁零討伐

  • 井陘山中に隠れて盗賊化していた丁零数千家を、北魏の選部尚書陸真が州郡兵とともに討って滅ぼした。

閏月・夏 人事と休業の死

  • 閏月、劉遵考を尚書左僕射・丹陽尹に任じた。
  • 鄱陽哀王休業が死去した。
  • 太傅義恭は、西陽王子尚が寵遇されるのを避けるため、揚州刺史を辞した。

秋七月 子尚の揚州移鎮と天変

  • 七月、義恭の揚州を解き、子尚を揚州刺史とした。
  • この時、熒惑が南斗にとどまっていたため、帝は不吉を避けるべく西州の旧館を廃し、子尚を東城へ移して治所とした。揚州が南斗の分野に当たるため、その災いを厭ったのである。
  • しかし揚州別駕従事の沈懐文は、天の示す変異には徳で応じるべきで、建物を空けても益はないと諫めた。帝は従わなかった。

秋冬 北魏と宋の人事

  • 八月、北魏の尉眷が伊吾を攻め落とし、多くを獲て帰った。
  • 九月、劉遵考を再び尚書右僕射にした。
  • 十月、北魏主は平城へ帰還した。
  • 丙午、太傅義恭を太宰・領司徒に進めた。
  • 十一月、北魏は源賀を冀州刺史とし、隴西王に改封した。

源賀の辺境策

  • 源賀は、北虜の脅威が続く以上、国境守備には兵が要るとして、死罪相当でも大逆や手ずからの殺人以外、贓罪・盗罪・過失で死に当たる者は赦して辺境守備に充てるべきだと上言した。これにより死を待つ者は更生の恩を受け、民家の徭役も休めるという理屈である。
  • 北魏高宗はこれを採用し、のちに一年で多くの人命を救え、戍兵も増えたとして源賀を賞賛した。
  • その後、武邑の石華が源賀を謀反と誣告したが、高宗は、源賀の忠誠を自ら保証し、厳しく調べさせた。石華の虚偽が明らかになるとこれを誅し、忠臣であっても誣告を免れないのだから、他の者はいっそう慎むべきだと側近に語った。

十二月 青・冀州統合と銭貨論争

  • 濮陽太守姜龍駒・新平太守楊自倫が郡を棄てて北魏に奔った。両郡は僑郡で、所在について注が考証を加える。
  • 孝武帝は青州・冀州を合わせて歴城に鎮させることを望んだが、反対論も多かった。垣護之は、青州北辺には黄河・済水と沼沢が多く、敵はいつも歴城経由で侵掠するから、二州を一鎮に併せるのは長期策であり、帰順民にも便利だと論じ、最終的に採用された。
  • さらに銭制が大問題となっていた。元嘉年間の四銖銭は五銖と同型で、鋳造費と額面がほぼ釣り合ったため私鋳が少なかった。だが孝武帝即位後の孝建四銖は薄小で輪郭も不完全となり、民間では鉛・錫を混ぜたり古銭を削ったりする私鋳が横行した。
  • 昨年春には、輪郭のない薄小銭の流通を禁じたが、民間は騒擾した。
  • この年、沈慶之は、民間にも鋳銭を認め、郡県に銭署を置いて鋳造者をその中に住まわせ、規格を統一し、私鋳を取り締まる案を出した。新型銭を一斉に流通させ、万ごとに三千を税として取るべきだという提案であった。
  • これに対し顔竣は、五銖の軽重は漢代以来の標準であり、貨幣価値が均衡している以上、改鋳はかえって偽造を招くと反対した。細銭を許せば、官には利益がなく、民の奸巧だけが増し、数年で通貨が塵のように砕けると論じた。
  • また別案として二銖銭を鋳る議も出たが、顔竣は、官庫空虚と銅不足という二重の難を、さらに小銭を作っても救えず、市井の混乱と貧民の窮迫を招くだけだと述べ、結局この案は退けられた。

年末 北魏の法執行と顔延之の死

  • 北魏の定州刺史許宗之は、深沢の民・馬超から悪評を立てられ、これを殴り殺した上で、家族が告発するのを恐れ、超が朝政を誹謗したと逆に上奏した。高宗はこれを疑い、調べた結果、宗之の誣告と判明したため、都南で斬った。
  • 宋では金紫光禄大夫の顔延之が死去した。子の顔竣は貴顕であったが、延之は財物を一切受けず、布衣茅屋のまま質素に暮らした。竣の豪華な行列に出会えば道端によけ、立派な邸宅を見ても、後世に愚拙を笑われぬよう慎めと戒めた。
  • かつて早朝に竣の家を訪れた際、門に賓客が満ちているのに竣がまだ起きていないのを見て、低い身分から一気に栄達したのにすでに傲慢になっている、長くはもつまいと叱ったという。
  • 顔竣は父の喪に服したが、一月余りで右将軍・丹陽尹として復職を命じられた。十度上表して辞退したが許されず、戴明宝が抱いて車に乗せ、郡舎へ連れて行った。喪服として布衣一襲を賜り、主衣がその場で着せた。