資治通鑑宋紀十 世祖孝武皇帝上 孝建 二年 455年

春 沈慶之の引退願い

  • 正月、北魏では車騎大将軍の楽平王拓跋抜が罪を得て自殺を命じられた。
  • 宋では鎮北大将軍・南兗州刺史の沈慶之が老齢を理由に引退を願い出た。
  • 二月、朝廷は沈慶之を左光禄大夫・開府儀同三司としたが、慶之は数十回にわたって上表し、面前でも額ずいて泣きながら辞退したため、帝もついに押し切れず、始興公として邸第に退かせ、手厚い俸給を与えた。
  • その後、帝は再び慶之を起用しようとして何尚之を使いにやったが、慶之は「沈公は何公のように行ってまた戻るようなことはしない」と笑って断った。これは、かつて何尚之自身が志を貫けず復職したことを踏まえた皮肉だった。
  • 南兗州刺史には劉延孫を任じた。

夏 人事と北魏改元

  • 五月、湘州刺史劉遵考を尚書右僕射とした。
  • 六月、北魏は年号を太安と改め、大赦を行った。
  • 北魏主は平城へ戻ったが、どこへ行っていたかは史書に記されていない。

秋 諸王の封建と武昌王渾の事件

  • 七月、皇弟の休祐を山陽王、休茂を海陵王、休業を鄱陽王に立てた。
  • 北魏主は河西へ巡幸した。
  • 雍州刺史の武昌王劉渾は、側近たちと戯れに檄文を作り、自ら楚王を名乗って永光と改元し、百官まで立てた。長史王翼之がその自筆文書を封じて上奏したため、八月、渾は庶人に落とされ始安郡へ流された。
  • 朝廷は戴明宝を派遣して渾を詰問し、そのまま自殺に追い込んだ。渾は十七歳であった。

郊廟の楽制整備

  • 八月、北魏主は平城へ帰還した。
  • 宋では郊祀・宗廟において、ようやく設備や音楽を整える詔を出した。これはかつて荀万秋の議に従ったものである。

冬十月 宗室・王侯の待遇削減

  • 孝武帝は王侯を弱体化させようとして、江夏王義恭と竟陵王誕に命じ、王侯の車服・器用・楽舞の制度を制限する案を出させた。
  • その九項目をもとに、さらに有司に示唆して二十四条へ拡大させた。謁見の座り方、帳や幡、武器装飾、車や舟の形式、舞楽・胡伎・女性の服飾に至るまで細かく抑制した。
  • たとえば、聴事では南面して座れないこと、刀剣を鹿盧形にしてはならないこと、内史・相・封内官長は「臣」と称せず「下官」と称すること、罷官後は特別敬礼を追って受けないことなどが定められた。
  • 北魏では遼西王常英を太宰とした。
  • 宋では太傅義恭が揚州刺史を兼ね、竟陵王誕が司空・領南徐州刺史、建平王宏が尚書令となった。

氐族への対応

  • その年、旧仇池の氐王楊保宗の子・楊元和を征虜将軍、楊頭を輔国将軍とした。楊頭は楊文徳の従祖兄にあたる。
  • 元和は楊氏の正統と見られたが、まだ幼く力量も弱く、部落も安定した主を欠いていた。一方の楊頭は母妻子弟を北魏に捕らわれながらも、宋に対して節を曲げず葭蘆を守っていた。
  • 王玄謨は、まず楊頭を仮節・西秦州刺史として衆を安撫し、数年後に元和が成長すれば故業を継がせ、もし元和に才がなければ楊頭に帰すべきだと上言した。漢川防衛のためには仇池方面の維持が重要だという主張であったが、帝は採用しなかった。