資治通鑑宋紀七 太祖文皇帝 元嘉 二十七年 450年
春正月・雍州蛮の制圧
- 正月、魏主は洛陽へ赴いた。
- 沈慶之は冬から春にかけて雍州の蛮をたびたび破り、その集積穀物を軍糧に充てた。前後で三千級を斬り、二万八千余人を捕らえ、降った者は二万五千余戸に及んだ。
- 幸諸山の大羊蛮は険阻に城を築いて固守したが、沈慶之は山中に連営を築いて互いに連絡できるようにし、各営内に池を掘って、外へ水汲みに出ずに済むようにした。
- 蛮が風の強い夜に火攻めしてきたときも、池の水で消火し、弓弩で挟撃して撃退した。
- その険固な拠点は急攻できなかったため、沈慶之は六つの戍を置いて封鎖し、食糧が尽きるのを待った。やがて蛮は次々に降伏したので、建康へ移して営戸とした。
二月から五月・魏の懸瓠攻撃
- 二月、魏主は梁川で大規模な狩猟を行い、続いて自ら歩騎十万を率いて急襲した。南頓太守鄭琨・潁川太守鄭道隠はいずれも城を捨てて逃げた。
- このとき豫州刺史の南平王鑠は寿陽に駐しており、行汝南郡事の陳憲に懸瓠を守らせていたが、守兵は千人に満たなかった。
- 三月、軍事費捻出のため内外百官の俸給を三分の一削減した。
- 魏軍は昼夜を分かたず懸瓠を攻め、高楼を築いて城内に矢の雨を降らせ、衝車に大鉤を付けて城壁を崩した。陳憲は内側に女墻、外側に木柵を設けて防ぎ、塹を埋めて肉薄してくる敵を督戦して防いだ。
- 死屍が城の高さに届くほどの激戦となり、短兵接戦の中で宋軍は一人で百人に当たる戦いぶりを見せた。魏軍の損害は万単位にのぼり、城中でも死者は過半に達した。
- 魏主は永昌王仁に歩騎一万余を率いさせ、掠め取った六郡の住民を北の汝陽へ移した。
- 宋では武陵王駿に命じ、彭城から騎兵一五〇〇を五軍に分けて汝陽を急襲させた。劉泰之らがこれを率い、三千余人を斬り、輜重を焼き、連れ去られていた住民を救った。
- だが魏軍は宋軍に後続がないと知ると反撃し、垣謙之が先に退いたため混乱が起こり、劉泰之は戦死、臧肇之は溺死、程天祚は捕虜となった。生還した兵は九百余、帰還した馬は四百にすぎなかった。
- 懸瓠包囲は四十二日に及んだが、宋は南平内史臧質と安蛮司馬劉康祖を寿陽へ送り、救援軍を編成した。魏の乞地真が迎撃したが、臧質らに斬られた。
- 四月、魏主は包囲を解いて撤退し、平城へ帰った。
- 宋では武陵王駿を降号し、垣謙之を処刑、尹定・杜幼文を尚方に付した一方、陳憲を龍驤将軍・汝南新蔡二郡太守に任じた。
魏主の書簡と対宋威嚇
- 魏主は宋帝に書を送り、蓋吳の反乱を宋がひそかに煽り、男には弓矢、女には腕輪を贈って辺民を誘ったと非難した。来投者に七年の租役免除を与えるのは姦を奨励することだとも言った。
- さらに、もし劉氏の宗廟を保ちたいなら江北の地を明け渡し、守備兵を江南へ退かせるべきだと迫り、さもなくば来秋に揚州を取りに行くと予告した。
- 柔然・赫連・沮渠・吐谷渾・高麗など、宋が以前に結んだ諸国はみな魏が制圧したのだから、宋だけが独立していられるはずはないとも誇った。
- また、自軍は白昼堂々と進軍して揚州を取るのであって、宋軍のように隠れて斫営を狙うものではない、裴方明のような功臣を殺す国にどうして自分と争えるか、と侮った。
- その一方で、南軍との会戦にはなお慎重で、夜営や偵察にも気を配る姿勢がうかがえる。
江湛・崔浩・高允
- 宋では侍中・左衛将軍江湛が吏部尚書に転じた。江湛は清廉で、徐湛之と並んで皇帝の信任が厚く、当時「江・徐」と並称された。
- 魏では司徒崔浩が才略と寵遇を頼みに朝権を専断していた。冀・定・相・幽・并の五州から数十人を推挙して、下積みを経させず一挙に郡守に就けようとしたため、太子晃は、既存の有能な官人を先に登用すべきであり、守令には経験者が必要だと反対した。
- 高允はこれを聞き、崔浩はついに災いを免れまいと語った。上位者に勝とうとして自説を押し通せば、どうして無事でいられようかというのである。
- 魏主は崔浩に命じて国史編纂を監督させ、「事実をそのまま記せ」とさせた。すると著作令史の閔湛・郗標が崔浩に取り入り、その撰した国史を石に刻んで郊壇の東に立て、直筆を天下に示すよう勧めた。高允は、これは崔氏一門の万代の禍であり、自分たちも巻き添えになると宗欽に語った。
- 崔浩はついにこの案を実行し、巨費を投じて石碑を立てた。そこには魏の先世の事跡がきわめて詳しく刻まれ、道行く人々の目に触れたため、北方出身の人々は自らの祖先の不名誉までさらされたとして深く憤った。
- これを機に、崔浩は国の醜を暴き立てたとして讒訴され、魏主は大いに怒って、秘書省の官人らの罪を調べさせた。
- ちょうどその前、寵臣の遼東公翟黒子が并州で布千匹を収賄した件で、高允は「正直に自首すべきだ」と勧めたが、別の者は隠せと助言した。翟黒子は高允を恨んだものの、結局虚偽申告して処刑された。
- 崔浩逮捕の際、太子は高允を東宮に留め、翌朝一緒に入朝して、もし帝に問われたら自分の言葉どおり答えよとほのめかした。だが高允は、太祖紀は鄧淵、先帝紀と当代紀は自分と崔浩の共作であり、崔浩は総裁にすぎず、著述そのものは自分の分担も大きいと率直に述べた。
- 帝は「高允の罪は崔浩以上だ」と怒ったが、高允は一族滅亡に値する場でも虚言は言えない、太子が助命したくてそう言っただけで、自分はそんな口裏合わせはしていないと答えた。
- 魏主はその誠実さを称え、高允だけは赦した。
- その後、崔浩は引き出されて取り調べられたが、狼狽して答えられず、高允が一件一件筋道立てて説明した。魏主は高允に詔を書かせ、崔浩および宗欽・段承根以下、童僕にいたるまで百二十八人を誅し、みな五族を滅ぼした。
- 高允は、崔浩の罪に他の余罪があるならともかく、国史を率直に記しただけで死罪は重すぎると最後までためらったため、怒った帝は武士に高允を捕らえさせた。太子の必死のとりなしでようやく怒りが解けた。
- 六月、清河崔氏のうち崔浩と同宗の者、さらにその姻戚であった范陽盧氏・太原郭氏・河東柳氏まで族誅された。その他の関係者は本人だけが誅された。
- 崔浩は檻車に入れられて城南へ送られ、護送兵に辱められながら絶命した。
- 宗欽は処刑に臨んで、高允はほとんど聖人だと嘆いた。
- 後日、太子は高允に、機を見ることも必要で、自分は救おうとしたのに帝を怒らせたではないかと責めた。高允は、史とは君主の善悪を記して後世への戒めとするものだ、崔浩の責任は私情で廉直さを失ったことにあり、国の起居や得失を書いたこと自体は本来そこまでの罪ではない、自分だけが生を貪るのは望まないと答えた。太子は感じ入った。
- この件の前から崔浩と不仲だった同宗別族の崔賾・崔模の二家だけは、今回の粛清を免れた。
- 六月ののち、魏主は北巡して陰山へ向かった。
- 崔浩を誅したのち、魏主はしばしば後悔した。李孝伯が危篤と聞くと「李宣城は惜しい」と言い、すぐに「いや、崔司徒が惜しく、李宣城は哀しい」と言い直したほどであった。
車伊洛・吐谷渾
- 車師の大首長車伊洛は代々魏に服していたが、入朝しようとした際、沮渠無諱に道を塞がれた。何度も戦ってこれを破ったものの、無諱の死後、弟安周がその子乾寿の兵を奪い、情勢は再び乱れた。
- 車伊洛は乾寿を説得してその民五百余家を魏に帰順させ、また李宝の弟欽ら五十余人も帰順させた。
- その後、西へ焉耆を攻めている間に、安周が柔然兵を率いて間道からその本拠を襲い、城を落とした。子の歇は父のもとへ逃れ、焉耆鎮に拠って魏主へ救援を求めた。魏主は焉耆の倉を開いてこれを賑恤した。
- 吐谷渾王慕利延は魏に圧迫され、越巂へ入って保護を求めたいと上表した。宋帝はこれを許したが、慕利延は結局来なかった。
北伐決定をめぐる論争
- 宋帝は魏への北伐を望み、丹陽尹徐湛之・吏部尚書江湛・彭城太守王玄謨らはこれを強く勧めた。
- 左軍将軍劉康祖は、すでに季節が遅いので来年を待つべきだとしたが、帝は、北方では魏の苛政に苦しむ者が義兵として立っており、ここで一年軍を止めればその心を挫くと述べた。
- 太子歩兵校尉沈慶之は反対し、歩兵主体の宋軍は騎兵の魏軍にかなわず、檀道済も到彦之も成功していない、王玄謨らは彼らに及ばないと論じた。皇帝は、以前の失敗にはそれぞれ理由があり、今は夏秋の水量を利用して河道を下り、碻磝・滑台を抜けば虎牢・洛陽も揺らぐはずだと反論した。
- 沈慶之がなおも不可を強く述べると、徐湛之・江湛がこれを問い詰めた。沈慶之は「国を治めるのは家を治めるようなもので、耕作は奴に、機織りは婢に聞くべきだ。今、戦争を白面の書生と相談してどうして成功するか」と言い、帝は大笑いした。
- 太子劭や護軍将軍蕭思話も諫めたが、帝は聞き入れなかった。
魏主の再度の書簡
- 魏主は、宋帝が和好に飽き足らず辺民を誘い続けていると再び非難し、もし来るなら中山でも桑乾川でも好きなように進めばよい、迎えも見送りもしないと書いた。
- さらには、平城に住みたければ来ればよい、自分は揚州へ行くから土地を交換しよう、五十歳になる宋帝は戸外にも出たことがなく、馬上で育った鮮卑人と比べものになるまいと嘲った。
- そのうえで、使者に馬十二匹や氈、薬を贈って返した。
七月・北伐軍の発動
- 七月、詔を下し、河朔・秦雍方面の漢胡が魏の窮政から救済を求めており、柔然もまた掎角の約を結んでいるので、今こそ経略の好機だと宣言した。
- 寧朔将軍王玄謨に水軍を率いて黄河へ入らせ、青冀二州刺史蕭斌の指揮下に置いた。太子歩兵校尉沈慶之と鎮軍諮議参軍申坦がこれを助けた。
- 太子左衛率臧質・驍騎将軍王方回には許・洛方面へ進ませ、武陵王駿・南平王鑠にも東西から同時に兵を動かさせた。梁・南北秦三州刺史劉秀之には汧隴を動揺させる任務を与えた。
- 江夏王義恭は彭城に進んで諸軍を節度した。
- 王公・妃主・朝士・地方長官から富民に至るまで、みな金帛や雑物を献じて軍費を助けた。
- それでも兵力不足のため、青・冀・徐・豫・南兗・北兗の六州から三丁に一人、五丁に二人の割合で民丁を徴発し、符到着後十日で装備を整えさせた。沿江・沿淮の諸郡民も所定の地点に集結させた。さらに資産家や僧尼からも軍費を借り上げた。
七月末から九月・宋軍の初動
- 建武司馬申元吉が碻磝へ進み、七月乙亥、魏の済州刺史王買徳は城を捨てて逃げた。
- 蕭斌は将軍崔猛に命じて楽安を攻めさせ、魏の青州刺史張淮之も城を捨てた。
- 蕭斌と沈慶之は碻磝に留まり、王玄謨に滑台を囲ませた。
- 雍州刺史随王誕は、柳元景・尹顕祖・曾方平・薛安都・龐法起らを弘農方面に出撃させた。
- 七十余歳の龐季明は関中の豪族として自ら長安入りを願い出て、資谷から盧氏に入り、現地の趙難の協力を得て士民を説得し、多くを呼応させた。薛安都らも熊耳山からこれに続いた。
- 南平王鑠も胡盛之を汝南に、梁坦を上蔡から長社へ向かわせた。魏の荊州刺史魯爽は長社を捨てて逃げた。
- 王陽児が魏の豫州刺史僕蘭を破り、僕蘭は虎牢へ逃れた。劉康祖も援軍として進み、虎牢へ圧力をかけた。
- 魏の群臣は黄河沿いの城邑と軍糧・布帛の救援を願ったが、魏主は馬がまだ肥えておらず暑さも残るので、今急いで出ても勝てない、宋軍が来たら陰山まで退いて避ければよいと述べ、十月まで待てば心配ないと判断した。
九月・魏の本格反攻と王玄謨の失敗
- 九月、魏主は南下して滑台救援に向かい、太子晃を漠南に留めて柔然に備えさせ、呉王余に平城を守らせた。さらに州郡兵五万を発して諸軍に配した。
- 王玄謨の軍は兵数も多く器械も整っていたが、玄謨は貪欲で独断的、しかも苛烈であった。
- 滑台包囲の当初、城中は茅屋が多かったので、部下は火箭で焼くよう求めたが、玄謨は「いずれ自分の財産になる城だ」と言って許さなかった。城中は家屋を撤去して穴居し、防戦体制を整えた。
- 河洛の民は続々と糧穀を納め、兵を執って宋軍に加わろうとしたが、玄謨はその首長たちをきちんと組織せず、私的に親しい者へ配属したうえ、一家ごとに布一匹、大梨八百を求めた。人々は失望し、城攻めも数か月進展しなかった。
- 魏救援軍接近の報に、部下は車営を築くよう請うたが、玄謨は従わなかった。
- 十月、魏主は枋頭に到着し、代人陸真に夜のうちに包囲をくぐらせて滑台城中を慰撫し、宋軍陣形を偵察させた。
- ほどなく魏主は黄河を渡った。大軍の号令と鼓声は天地を震わせ、王玄謨は恐れて退却した。魏軍が追撃すると、宋兵一万人余が死に、軍資器械も山のように捨てられた。
- 先に石済を押さえていた垣護之は、滑台急攻を勧めていたが容れられなかった。王玄謨敗走後、魏軍は奪った戦艦を鉄鎖三重につないで河を遮断したが、垣護之は急流を利用し、長柄の斧で鎖を断ち切りながら突破して帰還した。失った船は一隻だけだった。
- 蕭斌は沈慶之に五千で救援を命じたが、慶之は小兵では無益だと反対した。結局、王玄謨が逃げ帰ると、蕭斌はいったん斬ろうとしたものの、慶之が、魏主ほどの強敵に王玄謨一人で当たれるわけがなく、ここで将を殺せばかえって自軍を弱めると諫めて思いとどまらせた。
- 蕭斌は碻磝を固守したいと考えたが、沈慶之は、青冀が手薄なまま孤城にこもれば、敵が東へ抜けたとき収拾がつかず、碻磝も朱修之の滑台の二の舞になると説いた。
- ちょうど朝廷からの使者が来て撤退を許さなかったため、蕭斌は諸将と再議したが、多くはなお留まるべきだとした。沈慶之は、遠方から来る詔では現地情勢がわからない、しかも「范増」がいながら用いられないのだ、と鋭く言った。諸将は笑ったが、慶之は、皆は学問はあっても自分の耳学問にはかなわぬと言い返した。
- 結局、王玄謨に碻磝を守らせ、申坦・垣護之に清口を押さえさせ、蕭斌自身は歴城へ退いた。
閏月・柳元景の関中進出
- 閏月、龐法起らは盧氏に入り、県令李封を斬って趙難を県令に据え、道案内をさせた。柳元景も百丈崖から合流した。
- 法起らは弘農を攻め、辛未にこれを落とし、魏の弘農太守李初古抜を捕らえた。薛安都を弘農に留めて守らせ、龐法起は潼関へ向かった。
- 同時に魏主は諸将を分道進撃させた。永昌王仁は寿陽へ、長孫真は馬頭へ、楚王建は鍾離へ、高涼王那は下邳へ向かい、魏主自身は東平から鄒山へ進んだ。
- 十一月、魏主は鄒山に到達し、魯郡太守崔邪利を捕らえた。秦始皇の石刻を倒させたうえで、太牢をもって孔子を祀った。
- 楚王建は蕭城、歩尼公は留城に駐屯した。宋側では馬文恭・嵇玄敬が迎撃に出たが、馬文恭は敗れた。歩尼公は苞橋を渡ろうとしたが、沛県民が橋を焼き、夜中に林中で太鼓を打ったため、魏軍は宋の大軍到来と誤認して争って渡河し、溺死者が多数出た。
- 一方、柳元景は弘農太守に任じられ、薛安都・尹顕祖を先発させて陝へ向かわせ、自らは後続の軍糧を督した。
- 陝城は険固で簡単には落ちなかったが、魏の洛州刺史張是連提が二万で崤を越えて救援に来ると、薛安都らは城南でこれと戦った。魏軍の突騎に宋軍は苦しんだが、薛安都は兜鍪と鎧を脱ぎ、軽装で単騎突入して奮戦し、夾射の中を何度も突破した。やがて函谷関方面から魯元保の軍が到着し、魏軍はいったん退いた。
- 翌日、宋軍は城西南に陣を敷き、曾方平が「今こそ死地であり、互いに進まねば斬るべきだ」と鼓舞した。柳元怙が南門から鼓噪して出撃すると魏軍は驚き、薛安都も再び挺身して戦い、終日激戦の末、魏軍は大敗した。
- 張是連提と将卒三千余が討たれ、二千余人が生け捕られた。翌日、柳元景は、彼らは本来中国の民であって、騎兵に後ろから追い立てられてやむなく戦ったのだろうとして、諸将の皆殺し論を退け、全員を釈放した。
- 甲午、陝城を陥し、龐法起らはさらに潼関を攻めた。魏の守将婁須は城を捨て、宋軍がこれを占拠した。
- これにより関中の豪傑や周辺山地の羌胡が続々と帰順を申し出た。だが宋帝は、王玄謨敗退により魏軍が深く侵入した以上、柳元景らだけを独進させるのは危険と判断し、全軍を召還した。元景は薛安都に殿を務めさせて襄陽へ帰り、自ら襄陽太守となった。
劉康祖の戦死と寿陽方面
- 魏の永昌王仁は懸瓠を再び攻め、項城を陥した。
- 宋帝は魏軍の寿陽接近を恐れ、劉康祖に帰還を命じた。だが癸卯、仁は八万騎で尉武まで追いついた。
- 劉康祖の兵は八千。軍副の胡盛之は山険を頼って間道で寿陽へ向かおうとしたが、康祖は、敵を求めて来たのに出会って避けるわけにはいかぬとして、車営を結んで前進した。
- 軍中には「振り返る者は斬首、一歩退く者は足を斬る」と厳命した。魏軍は四面から攻めたが、宋軍は朝から夕方まで奮戦し、一万余を殺した。血が足首を浸すほどであった。
- 康祖自身も十創を負いながら、気力は衰えなかった。魏軍は兵を三隊に分けて交代で戦い、日暮れには騎兵に草を負わせて車営に火を放った。康祖はその都度破れを補ったが、流れ矢が頸を貫き、落馬して戦死した。
- 残兵は戦いきれず潰走し、ほとんどが討たれた。
- 南平王鑠は左軍行参軍王羅漢に三百人で尉武を守らせたが、魏兵に捕えられた。首に鎖をかけられて監視されたものの、夜中に三郎将の首を斬り、その鎖を抱えたまま逃げて盱眙へたどり着いた。
- 永昌王仁はそのまま寿陽へ逼り、馬頭・鍾離を焼き掠めた。南平王鑠は城にこもって固守した。
彭城の危機
- 魏軍は蕭城にいて彭城から十余里に迫った。彭城には兵は多かったが、食糧が乏しかった。
- 太尉江夏王義恭は彭城を捨てて南へ帰ろうとした。沈慶之は、兵の少ない歴城へ精兵で直行し、函箱車陣で二王と妃女を護送する案を出した。何朂は海路で鬱洲へ逃れ、そこから京師へ帰る案を出した。
- 去就が決まりかねる中、安北長史張暢は、歴城や鬱洲に安全に行き着ける道理が本当にあるなら自分も賛成するが、今ここで動けば城内の百姓は一斉に散ってしまい、到達不能になると主張した。食糧は乏しくとも朝夕に窮するほどではなく、万全の策を捨てて危地へ走るべきではない、もしその計画を強行するなら自分は公の馬蹄を血で汚すとまで言って止めた。
- 武陵王駿も、城主たる以上この城と存亡を共にすると述べ、張暢の意見を支持したので、義恭も思いとどまった。
魏主と張暢の応酬
- 壬子、魏主は彭城に至り、城外の戲馬台に氈屋を建てて城中を望んだ。
- 先の蕭城敗戦で魏に捕らわれていた蒯応を小市門へ送って酒や甘蔗を求めさせると、武陵王駿はそれを与え、逆に槖駝を求めた。
- 翌日、尚書李孝伯が南門に来て、義恭には貂裘、駿には槖駝と騾を贈り、魏主の意向として「しばらく城外で会いたい、攻城するつもりはないのに何をそこまで守るのか」と伝えた。
- 駿は張暢を出して応対させた。張暢は、辺鎮が備えを厳にするのは常の務めであり、将士が喜んで守れるなら苦労も怨みにならないと答えた。
- 魏主は甘橘や博具、楽器、さらに氈や九種の塩、胡豉などをやりとりしつつ、使者を通じて宋側の様子を探った。
- 孝伯が「なぜ急いで門を閉ざし橋を絶ったのか」と問うと、張暢は、魏軍十万が疲労している今こそ軽んじられぬよう閉城しただけで、兵馬が休めばあらためて戦場を定めて「交戯」しようと皮肉った。
- 孝伯はまた、王玄謨の器量不足をあげつらい、七百里も深入りしながら宋軍はろくに迎撃できなかったと嘲笑した。張暢は、玄謨は偏将にすぎず、まだ大軍は到着していなかった、崔邪利一人を捕らえた程度で誇るのかとやり返した。
- 孝伯が、魏主はこの城を囲まずそのまま瓜歩に向かい、南方の成否がどうであれ彭城は問題にならない、今度は江湖の水を飲んで渇を癒すつもりだと脅すと、張暢は、もし本当に虜馬が長江の水を飲むなら天道はないことになると返した。このころ「虜馬江水を飲み、佛狸は卯年に死す」という童謡もあり、張暢はそれを踏まえていた。
- 張暢の容貌と言辞は雅やかで、李孝伯と随行者はみな感嘆した。孝伯も弁舌に富み、別れ際には、わずかな距離ながら手を執れぬのが残念だと言った。張暢は、いつかそちらが平定された暁には、今日を交誼の始まりとしようと応じた。
漢中・隴右の動揺
- 宋帝は楊文徳を再び輔国将軍として起用し、漢中から西へ出して汧隴方面を動揺させた。
- 文徳の同族楊高が陰平・平武の氐を率いてこれを拒んだが、文徳はこれを斬り、陰平・平武を平定した。
- しかし梁南秦二州刺史劉秀之が文徳に啖提氐を討たせたところ、勝てず、ついには荊州へ送って拘禁した。文徳の従兄楊頭が葭蘆を守った。
十二月・魏軍の南下と盱眙
- 十二月朔日、魏主は彭城を攻めても落とせず、さらに南下した。中書郎魯秀を広陵へ、高涼王那を山陽へ、永昌王仁を横江へ向かわせた。通過地はことごとく残滅され、城邑は望風して崩れた。
- 建康では戒厳が敷かれた。
- 宋帝は臧質に一万を率いて彭城救援を命じたが、臧質が盱眙へ着いたときには魏主はすでに淮を渡っていた。臧質は胡崇之・臧澄之・毛熙祚らに東山や前浦を守らせ、自身は城南に営した。
- 乙丑、魏の燕王譚が三営を攻め、胡崇之らの陣はすべて敗没した。臧質は兵を動かして救わず、その夜、自軍も潰走して、わずか七百人を率いて城へ逃げ込んだ。
- もともと盱眙太守沈璞は、王玄謨がまだ滑台にいて江淮に警報のなかったころから、この郡が要衝であるとして城壁・濠・兵糧・矢石を整備していた。僚属も朝廷も行き過ぎだと見たが、魏軍南下で多くの守宰が逃げる中、沈璞はここが報国の秋であり、数十万の大軍が小城を攻めて勝てなかった例は過去にもあるとして、城を守る決意を崩さなかった。
- 臧質が城下に来ると、部下の中には兵が多すぎて城の防衛の妨げになる、あるいは敗走時の船の争奪が起こるから入れぬほうがよいという者もあった。沈璞は、もし敵が城を攻めぬならそれでよし、攻めるなら人数が多いほど敵の退去も早まる、専功のために援軍を拒むべきではないとし、城門を開いて受け入れた。臧質は城内の備蓄の充実を見て大いに喜んだ。
- 魏軍は南侵の際に糧秣を持たず、掠奪に頼っていたが、淮を渡ると住民は避難していて思うように食糧を得られず、人馬とも飢えていた。盱眙に積粟があると聞き、北帰の糧にしようとしていた。
- だが一度攻めても城を抜けなかったため、韓元興に数千を与えて盱眙を抑えさせ、自らは大軍を率いてさらに南へ進んだ。これにより盱眙側は態勢をいっそう整えることができた。
瓜歩・建康の危機
- 庚午、魏主は瓜歩に至り、民家を壊し、葦を刈って筏を作り、長江を渡る構えを見せた。建康は震え上がり、民衆は荷を担いだまま、いつでも逃げ出せるように立っていた。
- 壬午、中央と近郊で厳戒態勢が敷かれ、丹陽支配下では全戸から壮丁を徴発した。王公以下の子弟もことごとく軍務に就いた。
- 劉遵考らに津要を守らせ、巡察線を上は干湖、下は蔡洲まで広げ、采石から暨陽に至る六、七百里の江辺に軍船と陣営を連ねた。
- 太子劭は石頭に出鎮して水軍を総括し、徐湛之は石頭倉城を守り、江湛が領軍軍事を兼ねて全体の処置を委ねられた。
- 宋帝は石頭城に登って憂色を見せ、江湛に、北伐を共に議した者は少なく、今日の士民の労怨を思えば恥じる、さらに檀道済が生きていたなら胡馬をここまで来させなかっただろうと漏らした。
- 幕府山にも登って形勢を視察し、魏主や王公の首に賞を懸け、野葛入りの酒を空村に置いて魏軍を毒殺しようともしたが、効果はなかった。
和婚交渉と太子劭・江湛の対立
- 魏主は瓜歩山に坂道を切り開いてその上に氈屋を設けた。河南の水は飲まず、河北の水を槖駝に負わせて運ばせた。
- 宋帝は奉朝請田奇を遣わして珍味を送り、魏主は黄甘を食し、さらに湘南産の美酒を飲んだ。側近が毒を疑って耳打ちしても、魏主は聞き流し、天を指し、その孫を示して、遠く来たのは功名のためではなく、和好を継ぎ民を安んじるためだ、宋が皇女をこの孫に嫁がせるなら、自分も娘を武陵王に嫁がせ、今後は一匹の馬も南を顧みないと語った。
- 田奇が戻ると、宋帝は太子劭と群臣を集めて協議した。多くは許すべきだとしたが、江湛は、異民族には親義がなく、許しても益はないと主張した。
- 劭は怒り、今や三王が危地にあるのに、どうして頑なに異論を唱えるのかと色をなして責め、散会後には班剣や近侍に江湛を押しのけさせ、倒れそうになるほど辱めた。
- 劭はさらに、北伐で数州が失われた責任を謝するため、江湛と徐湛之を斬るべきだと帝に進言した。帝は、北伐は自分の意思であり、江・徐はそれに異を唱えなかっただけだとして退けた。
- こうして太子と江湛・徐湛之の間には深い遺恨が残った。魏との婚姻も、結局成立しなかった。