資治通鑑宋紀七 太祖文皇帝 元嘉 二十六年 449年

春正月・二月・柔然遠征と宋帝の巡幸

  • 正月朔日、魏主は漠南で群臣に宴を賜い、ほどなく再び柔然討伐を行った。高涼王那が東道、略陽王羯児が西道を進み、魏主と太子は涿邪山方面から数千里を進軍した。柔然の処羅可汗は恐れて遠くへ逃れた。
  • 二月、宋の皇帝は丹徒に行幸して京陵を拝した。
  • 三月、大赦を行い、諸州から移住を望む者数千家を募って京口に住まわせた。
  • 魏主は平城へ帰還した。

五月以後・北伐論の高まり

  • 五月、宋帝は建康へ戻り、魏主は再び陰山へ赴いた。
  • 宋帝は中原経略を考え始め、群臣は競って献策した。なかでも彭城太守王玄謨は進言を好み、帝はその意見を聞いて、まるで匈奴征討の大功を立てる気概があると評した。
  • 御史中丞袁淑も、趙魏を席巻し泰山で封禅を行うべき時機だと煽り、帝はこれを喜んだ。

七月・襄陽体制の強化

  • 七月、広陵王誕を雍州刺史とした。
  • 皇帝は、襄陽が関・河方面と接する重要拠点であることから、その財力・軍事力を増強しようとした。そこで江州軍府の文武官を廃して、その人員を雍州に配属した。
  • また湘州の中央への租税収入を、そのまま襄陽に充てることとした。

九月・魏の柔然攻撃での大勝

  • 九月、魏主はまた柔然を攻めた。高涼王那は東道、略陽王羯児は中道を進んだ。
  • 処羅可汗は国中の精兵を率いて那を幾重にも包囲したが、那は塹壕を掘って固く守り、たびたびの挑戦を撃退した。兵が少ないのに守りが堅いので、柔然側は大軍の到着を疑い、夜中に囲みを解いて退いた。
  • 那は九日九夜これを追撃し、処羅は輜重を捨てて穹隆嶺を越え、遠く逃れた。那はその輜重を接収して魏主と広沢で合流した。
  • 略陽王羯児も柔然の民と家畜を非常に多く捕獲した。これ以後、柔然は衰え、魏の塞を侵しにくくなった。

冬十二月・雍州蛮討伐の開始

  • 十二月、魏主は平城へ帰還した。
  • このころ、沔北の山蛮が雍州を寇掠したため、建威将軍沈慶之が後軍中兵参軍柳元景・随郡太守宗慤ら二万人を率いて討伐に向かった。
  • 先例では諸将は山下に営して蛮を圧迫していたが、蛮は高所から矢石を加えられるため官軍は不利だった。沈慶之は、昨年の豊作で蛮は深山に食糧を蓄えているから持久戦は不利と見て、八道から同時に木を伐って登山し、一斉に鼓噪して中枢へ突入した。
  • 蛮は大いに恐れ、動揺したところを撃たれて各所で潰走した。