資治通鑑宋紀七 太祖文皇帝 元嘉 二十五年 448年

春正月・楊文徳の敗走

  • 正月、魏の仇池鎮将皮豹子が諸軍を率いて楊文徳を攻めた。楊文徳は敗れて城を捨て、漢中へ逃げた。
  • 皮豹子はその妻子・僚属・軍資を接収し、さらにかつて楊保宗に嫁いでいた魏の公主も連れ帰った。保宗が叛こうとした際、この公主は成功すれば一国の母となれるといって叛逆を勧めたため、魏主は彼女に死を賜った。宋では楊文徳に対し、守地を失った罪で免官・削爵とした。

二月・閏月・朝廷人事と庾炳之失脚

  • 二月、魏主は定州に赴き、塞囲の築造に従事していた者たちを解散させ、さらに上党へ向かって潞県の叛民二千余家を誅し、西河・離石の民五千余家を平城に移した。
  • 閏月、宋の皇帝は宣武場で大規模な閲兵・狩猟を行った。
  • このころ、劉湛誅殺後に寵任を得て吏部尚書となっていた庾炳之は、学識に乏しく、性格はせっかちで浅薄、選官の職にありながら賓客を罵り、賄賂も多く受け取っていたため、士大夫の評判を大きく落としていた。さらに尚書省の令史二人を私宅に泊めたことが問題となる。
  • 皇帝は軽い過失として不問にしようとしたが、僕射何尚之は、炳之は選挙不公正・朋党形成・風俗破壊に及んでおり、范曄よりも悪い点が多いとまで述べて強く糾弾した。
  • 皇帝はいったん丹陽尹への転任を考えたが、何尚之はそれではかえって威勢を増すだけだと諫めたため、ついに庾炳之を免官し、徐湛之を丹陽尹とした。

徐州強化

  • 彭城太守王玄謨は、彭城は水陸交通の要衝なので、皇子を派遣して州政を統べさせるべきだと上言した。
  • 四月、武陵王駿を安北将軍・徐州刺史に任じた。

五月・六月・貨幣改制の撤回と義宣進位

  • 五月、魏は韓拔を鄯善王とし、鄯善に駐させた。
  • 宋で実施された「大銭一枚を二枚分とする」制度は、しばらく運用されたが官民とも不便とし、五月のうちに廃止された。
  • 六月、荊州刺史の南譙王義宣が司空に進んだ。
  • 同月、魏主は広徳宮へ赴いた。

秋八月・九月・西域情勢

  • 八月、皇子の彧を淮陽王に封じた。
  • 西域の般悦国が魏に使者を送り、東西から協力して柔然を攻めたいと願い出たため、魏主はこれを許し、内外に戒厳を命じた。
  • 九月、何尚之を左僕射に、領軍将軍沈演之を吏部尚書に任じた。
  • 魏主は陰山へ赴いた。
  • 魏の成周公万度帰は焉耆を攻めて大勝し、焉耆王鳩尸卑那は龜兹へ逃れた。魏主は唐和と車師の前部王車伊洛に命じて兵を合わせ、西域を討たせた。唐和は柳驢など六城を説得して降し、さらに波居羅城を攻略した。

冬十月・十二月・西域平定の進展

  • 十月、魏の弘農昭王奚斤が死去した。子の它観が継いだが、魏主は奚斤の過去の敗戦を理由に、それでも先朝への功を考えて爵邑を保ってきたのだから十分だとして、它観の爵位を王から公へ落とした。
  • 十二月、万度帰は焉耆からさらに龜兹を攻め、唐和を焉耆鎮に留めた。柳驢の戍主乙直伽が叛こうとしたが、唐和が討ち斬ったので、諸胡はみな服し、西域は再び平定された。
  • 魏の太子は陰山の行宮に朝し、そのまま柔然征討に従って受降城に至った。しかし柔然に会えず、城内に糧を蓄えて守備兵を置き、引き返した。