資治通鑑宋紀六 太祖文皇帝 元嘉 二十一年 444年

春正月 宋の籍田と魏太子の政務開始

  • 春正月、宋では上が籍田を耕し、大赦を行った。
  • 壬寅、魏では太子が正式に百官の政務を総覧しはじめ、穆寿・崔浩・張黎・古弼らがこれを補佐した。上書の儀礼も、太子に対して臣下として奉る形式に改められた。

古弼の諫言と魏の農政

  • 古弼は忠実で率直な人物で、苑囿が広すぎて民に田がないとして、半ばを削って貧民に与えるよう奏上しようとした。だが魏主は碁に夢中で、長く待っても聞き入れようとしなかった。
  • 古弼は激して劉樹を引きずり下ろし、「朝廷が治まらぬのはお前のせいだ」と叱った。魏主は驚いたが、古弼の趣旨を聞くとこれを認めた。
  • 古弼はのちに無礼を詫びたが、魏主は社稷と百姓の益になるなら遠慮なく尽くせと励ました。
  • 太子は農耕を奨励し、牛のない民には他人の牛を貸して耕作させ、その代わりに除草労働で返済させた。田ごとに名札を立てて勤惰を明らかにし、飲酒や遊興も禁じたため、開墾地が大いに増えた。

正月-二月 魏の宗教・教育統制

  • 戊申、魏は王公以下庶人にいたるまで、私宅に沙門や巫覡を養う者はすべて官に出頭させるよう命じ、期限後も隠していた場合は、沙門・巫覡を死罪、主人は一門誅戮とした。
  • 庚戌には、王公卿大夫の子は皆太学に入れ、百工・商賈の子は家業を学ばせること、私学の設立禁止も命じ、違反者は教師を死罪、主人を一門誅戮とした。
  • 二月、柔然遠征で期日に遅れた中山王辰・薛辨・奚眷ら八将は、都の南で斬られた。

劉絜の失脚

  • 尚書令劉絜は長く機要を握り、寵愛を恃んで専断していた。柔然遠征でも出兵に反対し、崔浩の進言が採用されると不満を抱いた。
  • 彼は諸将の集合日時を偽詔で変更し、鹿渾谷での攻撃を止めて柔然を逃がしたうえ、軍が功なく還ると今度は崔浩の罪を問おうとした。
  • 崔浩が偽詔の件を明かしたため、魏主は五原で劉絜を逮捕した。
  • さらに劉絜は「もし車駕が帰らなければ楽平王を立てる」と親しい者に語っていたことや、図讖に自分の名があるかを張嵩に尋ねていたことまで露見した。
  • 張嵩家から讖書が発見され、南康公狄鄰も連座し、劉絜・張嵩・狄鄰はいずれも三族誅滅となった。死者は百余人に及んだ。魏主は劉絜が諸将の戦利品を分け取って巨万の財を蓄えていたことを知り、たびたび憤った。

二月-三月 楽平王丕の死と占筮論

  • 癸酉、楽平王丕が憂死した。
  • 以前、丕は白台に登る夢を見て術士董道秀に筮させたところ、道秀は大吉と答え、丕は内心喜んでいた。
  • だが丕が死ぬと、道秀も責任を問われて処刑された。
  • 高允は、占筮する者は爻象に基づいて忠孝を勧めるべきであり、たとえば「高くして民なし」「亢龍に悔あり」といった不吉を示して戒めるべきだったのに、それをしなかったから死罪となったのだと論じた。

春-夏 宋の人事と魏の北方騒擾

  • 江夏王義恭が太尉・司徒領となり、沈演之が中領軍、范曄が太子詹事となった。皇子宏は建平王に封じられた。
  • 魏では司空長孫道生が統万鎮に出た。
  • 夏四月、魏の侍中・太宰・陽平王杜超が帳下に殺された。
  • 六月、魏北部の民が衡陽公莫孤を殺して北走したが、追撃軍が漠南でその首領を討ち、残党は冀・相・定三州へ移して営戸とした。

吐谷渾・河西・祭祀整理

  • 吐谷渾王慕利延の甥の緯世は魏の使者と通じて降伏を図ったが、慕利延に殺された。この月、緯世の弟の叱力延ら八人が魏へ逃れ、魏は叱力延を帰義王とした。
  • 沮渠無諱が死に、弟の安周が後を継いだ。
  • 崔浩は、魏が中原入りして以来、天地・宗廟・百神の祭祀に古礼を用いる一方で胡俗の神も多く祀っているとして、祀典に合う五十七所だけを残し、重複や小神は廃するよう求めた。魏主はこれに従った。

秋七月-九月 古弼の留守政と南朝人事

  • 秋七月、東雍州刺史の沮渠秉が謀反して誅された。
  • 八月、魏主が河西で狩猟した際、留守の尚書令古弼は、皇帝の命令に反して肥えた馬を狩猟ではなく軍用に回し、痩せた馬だけを与えた。魏主は最初激怒したが、古弼は柔然や南方との戦いに備えて軍国を優先したのだと説明した。
  • 魏主はこれを聞いて「国の宝である」と称え、衣一襲・馬二匹・鹿十頭を賜った。
  • その後も古弼は、秋の収穫期に民車五百台で獲物を運ばせる命を止め、穀物収穫を優先すべきだと奏して、魏主に社稷の臣と賞された。
  • 魏は員外散騎常侍高済を宋に派遣した。
  • 戊辰、衡陽王義季を征北大将軍・南兗州刺史とし、南譙王義宣を荆州刺史に転じた。上は義宣を無能と見ていたが、会稽公主のたび重なる要請で任じ、義季に劣れば朝廷の用人に非難が帰すると自ら戒める中詔を与えた。
  • 義宣は赴任後は勤勉に政務を処理した。
  • 庚辰、会稽長公主が死去した。

九月-十二月 吐谷渾遠征と李宝の入朝

  • 吐谷渾の叱力延らは魏に、慕利延討伐の軍を請うた。魏主は晋王伏羅に諸軍を率いさせた。
  • 宋では沮渠安周を都督涼・河・沙三州諸軍事、涼州刺史、河西王に任じた。
  • 魏主は漠南へ出たが、柔然の敕連可汗は遠く逃げ、攻撃は実現しなかった。ほどなく敕連は死に、子の吐賀真が立って処羅可汗と号した。
  • 魏の晋王伏羅は楽都に至り、間道から吐谷渾を急襲した。大母橋に及ぶと、慕利延は驚いて白蘭へ逃亡し、兄子の拾寅は河西へ走った。
  • 魏軍は五千余級を斬り、伏念ら一万三千落が魏に降った。
  • 冬十月、宋は徐瓊を兗州刺史、申恬を冀州刺史とし、兗州治所を須昌、冀州治所を歴下に移した。
  • 十二月、魏主は平城へ還った。
  • この年、李宝が魏に朝見したが、魏はこれを留めて外都大官とした。
  • また何承天は元嘉新暦を作って上奏し、日食・中星・二至の測定から旧暦の誤差を正そうとしたが、太史令銭楽之らは月の大小の配列が旧法と大きく異なるとして従来法を維持すべきと奏し、詔でこれを認めた。