資治通鑑宋紀六 太祖文皇帝 元嘉 二十年 443年

春正月-二月 魏の反攻で仇池陥落

  • 春正月、魏の皮豹子が進撃し、楽郷将軍王奐之らは敗没した。魏軍は下辯へ進み、強玄明らも敗死した。
  • 二月、胡崇之は濁水で魏軍と戦って捕らえられ、残兵は漢中へ逃れた。姜道祖も敗れて魏に降った。
  • こうして魏は仇池を奪回し、楊保熾は逃走した。

三月 魏の石廟祭祀

  • 魏主は恒山の南に行幸し、のち還宮した。
  • 烏洛侯国が魏に使者を送ってきた。魏の先祖を祀る石廟は、もともと北方時代に岩を穿って造ったもので、烏洛侯の西北に残っていた。
  • 魏主は李敞を派遣して石廟に祭祀を行わせ、祝文を壁に刻ませた。

夏四月 楊文徳の挙兵

  • 河間公拓跋斉と楊保宗は雒谷で対峙していたが、保宗の弟の楊文徳が兄に険阻を頼んで自立するよう勧めた。これを斉に密告する者があり、斉は保宗を誘い出して捕らえ、平城へ送って殺した。
  • これを受けて、前鎮東司軍苻達・征西従事中郎任朏らが兵を挙げ、楊文徳を主として白崖に拠らせた。諸戍を奪って仇池を包囲し、楊文徳は征西将軍・秦河梁三州牧・仇池公を自称した。
  • この月、宋では皇子誕を広陵王に封じた。
  • 魏では大赦が行われ、魏主は陰山へ赴いた。

五月-七月 宋の援助と裴方明・劉真道の処刑

  • 魏の古弼が上邽・高平・岍城の諸軍を発して楊文徳を討つと、文徳は退いた。
  • 皮豹子は仇池の包囲が解けたのを聞いて撤退しようとしたが、古弼は、宋は敗北を恥じて必ず再度来るから、兵を鍛え力を蓄えて待ち受けるべきだと説き、豹子も従った。魏は豹子を仇池鎮将とした。
  • 楊文徳は宋に援軍を求め、七月、宋は彼を都督北秦・雍二州諸軍事、征西大将軍、北秦州刺史、武都王に任じた。任朏は左司馬となり、武都・陰平の氐の多くが文徳に帰附した。
  • その一方で、前雍州刺史劉真道と梁南秦二州刺史裴方明は、仇池平定の際に金宝や名馬を隠した罪に問われ、下獄のうえ死罪となった。

九月 魏の柔然遠征と劉絜失策

  • 魏主は漠南へ赴き、輜重を捨てて軽騎で柔然を急襲した。軍は四道に分かれ、楽安王範・建寧王崇・楽平王丕・中山王辰らが各方面を担当した。
  • 魏主は鹿渾谷で敕連可汗に遭遇した。太子晃は「敵は急襲を予期していないから即時攻撃すべきだ」と進言したが、尚書令劉絜は「敵は多く、平地へ出れば逆に囲まれる」と強く止めた。
  • 魏主は疑って攻撃を急がず、その間に柔然は逃走した。のちに捕えた斥候によれば、柔然側は当初大混乱していたが、追撃がないと知ってゆるゆると北へ去ったという。
  • 魏主は深く悔い、この後は軍国の大事をほぼ太子と相談して決めるようになった。

軍糧防衛と濁水の戦い

  • 司馬楚之は別働隊を率いて軍糧輸送を監督していたが、北鎮将軍封沓が柔然へ亡命し、楚之の補給線を断つよう柔然に進言した。
  • まもなく営中で驢馬の耳だけが切り取られる事件が起き、諸将は意味を測れなかったが、楚之は「敵の間者が潜入し、合図の証拠を作ったのだ」と見抜いた。
  • 楚之は急ぎ柳で囲いを作り、水をかけて凍らせた。柔然が来たが、氷が固く滑って攻められず、散って去った。
  • 十一月、姜道盛が楊文徳と合流して二万の兵で魏の濁水戍を攻めたが、皮豹子と河間公斉が救援し、姜道盛は敗死した。

十一月-十二月 太子への権限委譲

  • 甲子、魏主は朔方に至って詔を出し、皇太子に万機を副理させ、百官の政務を総べさせるとした。
  • さらに功臣たちは久しく勤労したので、爵位を保ったまま本職から退き、必要時の朝請・論議に与る形に改め、現務には新たな賢俊を登用するとした。
  • 十二月、魏主は平城へ帰還した。