資治通鑑宋紀六 太祖文皇帝 元嘉 十九年 442年
正月 魏の道教儀礼と宮殿造営
- 春正月、魏主は盛大な儀仗を整えて道壇に赴き、道教の符籙を受けた。以後、魏では新帝即位のたびに同様の儀礼を行うことになる。
- 寇謙之はさらに、道壇の近くに静輪宮を造り、あまりに高くして地上の鶏や犬の声すら聞こえぬようにし、天上の神々に近づけようと願い出た。崔浩もこれを後押ししたため、魏主は工事を命じた。
- しかし工費は莫大で、年をまたいでも完成しなかった。太子晃は、天と人とは本来隔たるもので無益な土木は国庫と民力を損なうと諫めたが、魏主は聞き入れなかった。
夏四月 河西・西域の動揺
- 沮渠無諱は一万余家を率いて敦煌を捨て、西方の沮渠安周を頼って移動した。だが到着前に、鄯善王比龍はこれを恐れて人々を率いて且末へ逃れ、その世子は安周に降った。無諱はそのまま鄯善を奪った。
- ただし流沙越えで兵士の多くが渇死し、大きな損耗を受けた。
- 李宝は伊吾から二千人を率いて敦煌に入り、城郭と官府を修復し、旧民の安撫に努めた。
- かつて高昌を拠っていた闞爽のもとへ、柔然に圧迫された唐契が西走してきて地を奪おうとしたが、柔然の追撃を受けて敗死した。契の弟の唐和は残党を集め、車師前部王のもとに走ったのち、横截城・高寧・白力の諸城を攻略し、魏に降伏を願い出た。
五月 宋の仇池攻撃
- 上は病気が平癒したため大赦を行った。
- 裴方明らが漢中に到着し、劉真道らと兵を分けて武興・下辯・白水を攻め、これらを奪取した。
- 楊難当は建節将軍符弘祖に蘭皋を守らせ、さらに子の楊和に大軍を率いさせて後詰とした。
- 裴方明は濁水で符弘祖を大破して斬り、さらに赤亭まで追って楊和も撃ち破った。楊難当は上邽へ逃亡した。
- 難当の子の楊虎は益州刺史として陰平を守っていたが、父の敗走を聞いて退却したところを裴方明の子の裴粛之に襲われ、捕らえられて建康へ送られ処刑された。
- これにより仇池は平定され、胡崇之が北秦州刺史としてその地を鎮め、楊保熾が楊玄の後継として仇池を守ることとなった。
秋七月 魏の対宋反攻準備
- 劉真道が雍州刺史、裴方明が梁・南秦二州刺史に任じられたが、方明はこれを辞退した。
- 魏は大規模な反撃を開始した。古弼が隴右諸軍と禁衛兵を率いて祁山から南下し、楊保宗もこれに同行した。皮豹子と司馬楚之は関中軍を率いて散関から西へ進み、仇池で合流する計画だった。
- また司馬文思には洛・豫の諸軍を率いて襄陽方面へ、刁雍には広陵方面へ進ませ、徐州には「楊難当の仇討ち」と称して文書を送った。
- この月の末には日食があった。
八月-九月 沮渠無諱の高昌奪取
- 唐契が闞爽を攻めた際、闞爽は沮渠無諱に偽って降り、協力して唐契を撃とうとした。
- だが無諱が高昌へ着いた時にはすでに唐契は敗死しており、闞爽は城門を閉ざして無諱を拒んだ。
- 九月、無諱の将の衛興奴が夜襲をかけ、高昌城を攻略して住民を殺戮した。闞爽は柔然へ逃れ、無諱が高昌を支配した。
- 無諱は常侍の汜雋を建康へ送り、宋に臣従を表した。宋は無諱を都督涼・河・沙三州諸軍事、征西大将軍、涼州刺史、河西王に任じた。
冬十月-十二月 魏の諸王封建と各地の動き
- 冬十月、魏は皇子の伏羅を晋王、翰を秦王、譚を燕王、建を楚王、余を呉王に封じた。
- 甲申、柔然が使者を建康へ送った。
- 十二月、魏の襄城孝王盧魯元が死去した。
- 丙申、宋は魯郡に命じて孔子廟と学校施設を修復させ、墓のそばの五戸の租税・役を免じて祭掃の費用に充てさせた。
年末の人事・軍政・襄陽の余波
- 李宝は弟の懐達と子の承を平城へ遣わして表を奉った。魏は李宝を西方辺境の軍政長官とし、沙州牧・敦煌公に封じ、四品以下の官を臨機に任命する権限も与えた。
- 雍州刺史の劉道産が死去した。彼は善政で知られ、襄陽の民は安んじて生業に励み、民謡まで生まれるほどだった。山蛮もその徳に服していたが、死後まもなく再び騒乱が起きた。
- 征西司馬朱脩之の討伐はうまくいかず、朝廷は沈慶之を後任とした。慶之は一万余を斬獲した。
- 魏主は李順に群臣への爵位配分を任せたが、李順は賄賂を受けて不公平に品定めしたうえ、以前から沮渠氏をかばって国を欺いた件もあって、徐桀の告発により死を賜った。