資治通鑑宋紀五 太祖文皇帝 元嘉 十七年 440年
正月から四月・河西残党の動き
- 正月己酉、沮渠無諱が北魏の酒泉を攻めた。守将の元絜は敵を軽く見て城外で応対し、壬子に無諱に捕えられ、そのまま酒泉は包囲された。
- 二月、北魏は仮の通直常侍として邢穎を宋に派遣し、聘問した。
- 三月、沮渠無諱は酒泉を奪取した。
- 四月戊午朔、日食があった。
- 庚辰、無諱はさらに張掖を侵し、禿髪保周は刪丹に駐屯した。丙戌、北魏は永昌王健に諸将を督させてこれを討たせた。
劉義康専権と劉湛
- このころ司徒劉義康は朝権をほぼ専断していた。
- 文帝は多年の病で衰弱し、心労が加わるたび危篤に陥ったが、義康は寝ずに看病し、薬も自ら確かめて進めるほど尽力した。
- また義康は実務を好み、公文書の点検にも明敏で、帝はますます彼に政務を委ねた。州郡の長官以下の人事も多くが義康の選任となり、大きな刑政ですらその録命で決まることがあった。
- 門前には毎朝数百台の車が並び、義康は身を低くして客を迎え、疲れを見せなかった。記憶力も強く、人材のうち実務に長けた者を多く引き立てた。
- だが学問・大局観に乏しく、朝廷の才士をみな自分の府に引き入れ、意に逆らう者は台官へ追いやった。兄弟の親しさに頼って君臣の分を軽んじ、自前の僮僕も六千余人に及んだ。
- 四方からの献上品も、まず最上品を義康に送り、次善の品が宮中に入るほどであった。文帝が冬の甘の味を嘆いたところ、義康は自邸からより良いものを取り寄せて帝に供した。
- 劉湛は殷景仁との対立から義康に結びつき、その権勢を借りて景仁を圧倒しようとした。義康の勢いが増すほど、湛はますますこれを持ち上げ、臣下の礼を失った。
- 文帝は当初、劉湛を厚遇していた。湛は政治論・歴代故事に詳しく、話は条理に富み、人を飽かせなかった。
- しかし晩年には義康をあおり立てたため、帝は内心で離反しながらも表面上は待遇を変えなかった。近臣には、以前は湛と話す時間の短さを惜しんだが、今は長居するのを苦にする、と漏らした。
- 殷景仁は密かに、義康の権力は国家のためにならないから少し抑えるべきだと進言し、帝もこれを認めた。
義康周辺の不穏
- 司徒左長史の劉斌、大将軍従事中郎の王履、主簿の劉敬文、祭酒の孔胤秀らは、義康に媚びて重用された。
- 彼らは帝の病を見て、幼主では天下を保てないとして長君を立てるべきだと考えた。
- かつて帝が危篤となり、義康に顧命の詔を整えさせたことがあった。義康は宮中から退出して涙を流しつつ、これを劉湛・殷景仁に告げた。
- 劉湛は、天下の難局を幼主が支えるのは無理だと言ったが、義康と景仁は答えなかった。
- ところが孔胤秀らは、尚書の儀曹に晋の咸康末に康帝が立った旧事を求めるまでした。義康自身はこれを知らなかった。
- 文帝は病が癒えた後にこの動きをほのかに聞き知った。劉斌らはなお義康に天下が帰するよう密かに党与を集め、禁中をうかがい、反対者を陥れ、また殷景仁の短所を集めて劉湛へ伝えた。
- こうして帝と義康、また景仁と湛の対立は決定的になった。
義康への疎遠化
- 義康は劉斌を丹楊尹にしたいと願ったが、帝はその貧しさを口にする話の途中で、呉郡に任じると言って遮った。
- 後に会稽太守羊玄保が帰還を願うと、義康はまた斌を後任にしようとしたが、帝はとっさにすでに王鴻を用いたと言った。
- このころから、帝は東府へ行かなくなった。これは義康への忌避が深まったことを示す。
五月から十月・劉湛誅殺と義康失脚
- 五月癸巳、劉湛は母の喪に遭って罷免された。湛は自分の罪が顕著になり、もはや保身できないと悟っていた。
- 乙巳、沮渠無諱は再び張掖を囲んだが落とせず、臨松に退いた。北魏はそれ以上討たず、詔で諭すにとどめた。
- 六月丁丑、北魏では皇孫の拓跋濬が生まれ、大赦のうえ改元して太平真君とした。寇謙之の神書にある語を採ったのである。
- 七月、北魏の永昌王健は番禾で禿髪保周を破り、保周は逃げ、のち自殺した。八月、沮渠無諱は中尉梁偉を送り、北魏に降伏を願って酒泉郡と捕虜の元絜らを返した。
- 宋では九月、元皇后袁氏を葬った。
- 文帝は、義康との隙が明らかとなり、いずれ大禍になると判断した。
- 冬十月戊申、劉湛を収えて廷尉に付し、詔で罪悪をあばいて獄中で誅した。子の黯・亮・儼、および劉斌・劉敬文・孔胤秀ら八人も処刑し、何黙子ら五人を広州へ流した。
- 同日、義康には中書省に宿らせたまま留め置き、その夜に湛らを各所で一斉に逮捕した。青州刺史杜驥には殿内で兵を率いさせ、異変に備えた。
- 使者が義康に湛らの罪状を告げると、義康は位を辞した。詔により、義康は侍中・大将軍の号はそのまま江州刺史とされ、豫章へ出鎮させられた。
- 殷景仁は五年ものあいだ臥病していたが、見舞いを受けずとも密書で日に十数回も帝と往復し、朝政の大小は必ずこれに相談されていた。
- 劉湛逮捕の夜、景仁は衣冠を整え、帝は華林園の延賢堂にこれを召し、足の病を理由に小牀で参じた景仁に、誅殺の処分を一任した。
- 檀道済に推挙されていた沈慶之も、この夜、召されるや戎装で駆けつけ、劉斌を収えて斬った。咄嗟の備えから、帝はその識略を認めた。
- 徐湛之は義康と特に親しかったため死罪相当とされたが、母の会稽公主が泣きながら、高祖の貧賤時代に臧皇后が作った粗末な納衣を示して命乞いしたため、文帝は赦した。
- 王履も義康・劉湛に深く結んでいたが、叔父の王球がふだんから戒めていたことにより、死は免れて家に廃された。
義康に距離を置いた人々
- 義康の権勢が盛んなころ、人々はこぞってこれに近づいたが、司徒主簿の江湛は早くから身を引いて武陵内史への出外を求めた。
- 檀道済が江湛の子に婚姻を求め、義康もこれを後押ししたが、江湛は固く拒んだ。そのため二人の失敗に連座しなかった。
- 文帝はこれを聞いて賞賛した。
- 義康が南へ下るにあたり、かつてたびたび自分を諫めて劉湛を退けるよう勧めた謝述が今は亡く、逆に劉湛が生き残って自分を進ませたことを悔い、その敗亡は当然だと嘆いた。
- 文帝もまた、もし謝述が生きていれば義康はこの事態に至らなかっただろうと言った。
送別と兄弟の情
- 文帝は蕭斌を義康の諮議参軍兼豫章太守とし、実務を委ね、蕭承之に兵を率いさせて防守させた。
- 義康の側近のうち愛念する者は随行を許され、物資や金品の支給も厚く、朝廷の大事も報せられた。
- のちに会稽公主の家で宴を開いた際、公主は再拝して泣き、義康を年の瀬までにはきっと助けぬのではないかと訴えた。
- 文帝も涙を流し、蔣山を指して、そのようなことは決してない、もし誓いに背けば初寧陵に対しても負い目があると誓った。
- さらに、自分が飲み残した酒を封じて義康に送り、会稽公主との宴で弟を思った余りの酒だという手紙を添えた。公主の生前、義康は無事であり続けた。
司馬光の評
- 司馬光は、文帝と義康の兄弟愛は当初きわめて深かったのに、最終的に兄弟の情も君臣の義も傷ついたとし、その乱れの階梯は劉湛の権利欲に際限がなかったためだと断じる。
- 『詩経』の「貪人敗類」を引き、この事例に当てはめている。
年末の人事
- 劉義恭が司徒・録尚書事となり、臨川王義慶は南兗州刺史、殷景仁は揚州刺史・僕射・吏部尚書のままとなった。
- 義恭は義康の失敗を戒め、総録でありながら文書執行に徹し、文帝はこれを安堵した。
- 文帝は相府に毎年二千万銭を与えたが、義恭は奢侈で常に不足し、さらに別に千万銭を受けた。
- 十一月、北魏の太武帝は山北へ行幸した。
- 殷景仁は揚州刺史拝命後まもなく病が重くなり、文帝は西州へ至る道で車の音を立てぬよう命じたほどであったが、癸丑に死去した。
- 十二月、王球が僕射となり、始興王劉濬が揚州刺史となった。幼少のため州務は范曄・沈璞らに委ねられた。
- 范曄はのち左衛将軍、沈演之は右衛将軍、庾炳之は吏部郎となって機密に参与した。
- 何尚之は、范曄は志向が常軌を外れ、早めに広州刺史へ出すべきだと文帝に進言したが、文帝は、劉湛を誅ったばかりでまた范曄を追えば人に讒言を信じて才を容れないと見られるとして採らなかった。
- この年、北魏では王慧龍が死に、呂玄伯はその墓を守って終身離れなかった。
- 伊馛は尚書・郡公への進用を辞し、中書省・秘書省の文士に交わりたいと願ったため、中護軍将軍・秘書監となった。
- 楊難当は再び武都王を称した。