資治通鑑宋紀五 太祖文皇帝 元嘉 十六年 439年
正月から三月・宗室人事と農時を重んじる話
- 正月庚寅、司徒の劉義康は大将軍に進み、なお司徒を領した。江夏王劉義恭も司空に進んだ。
- 北魏の太武帝は定州へ行幸した。
- もともと高祖の遺詔では、諸子が順番に荊州に赴任することになっていた。臨川王劉義慶が八年在任したため次は南譙王劉義宣の番だったが、文帝はその器量を凡庸と見て任用しなかった。
- 二月己亥、代わって衡陽王劉義季を荊州刺史に任じた。
- 義季はかつて春の狩猟に出た際、蓑を着て耕す老人に出会い、家臣が追い払おうとしたところ、老人は農時を妨げる遊猟を古人も戒めたと諫めた。
- 義季はこれを賢者として賞し、食を与えようとしたが、老人は農時を奪わなければ民はみな食えるとして一人だけ賜物を受けるのを辞し、名も告げず去った。
三月・西北辺境の変動
- 三月、北魏の雍州刺史葛那が上洛を侵した。上洛太守の鐔長生は郡を棄てて逃亡した。
- 辛未、北魏の太武帝は宮城へ戻った。
- 楊保宗・楊保顕の兄弟は童亭から北魏へ逃れた。庚寅、太武帝は楊保宗を都督隴西諸軍事・征西大将軍・秦州牧・武都王として上邽に鎮させ、公主を妻に与えた。保顕も晋寿公となった。
河西王牧犍と北魏の対立激化
- 河西王沮渠牧犍は、自らの嫂の李氏と通じ、兄弟三人がかわるがわる寵愛した。
- 李氏は牧犍の姉とともに魏公主を毒殺しようとしたが、北魏の太武帝は解毒の医者を駅伝で急派して助け、公主は回復した。
- 太武帝は李氏の送還を求めたが、牧犍は応じず、厚く資給して酒泉に住まわせた。
- また、北魏が西域に使者を送るたび、牧犍は流沙の護送を命じられていたが、その配下が魏使に対し、柔然可汗が「昨年北魏皇帝が来攻したが疫病と敗走で大敗し、楽平王丕を捕えた」などと吹聴していること、さらに西域諸国へも「魏は弱ったので今後は牧犍こそが強国だ、魏使が来ても再び奉貢するな」と触れ回っていることを密告した。
- 魏使は帰朝してこの状況を報告し、賀多羅もまた、牧犍は表面こそ臣礼を修めるが内心は背反していると奏した。
北魏朝廷の凉州征討論
- 太武帝は牧犍討伐を考え、崔浩に意見を求めた。
- 崔浩は、牧犍の反意はすでに明らかで、討たぬわけにはいかないとし、前年の北伐でも損耗は大きくなく、遠方が虚実を誤認して魏の衰えを信じている今こそ、不意を突けば必ず擒えられると説いた。
- 太武帝はこれに同意し、西堂で公卿を集めて大議を開いた。
- しかし奚斤ら三十余人は、牧犍は辺境の小国とはいえ朝貢を欠かさず、公主も与えた藩臣であり、罪状もまだ明確でないこと、柔然征討の後で士馬も疲れていること、土地は鹵瘠で水草に乏しく、敵が籠城すれば危険だとして反対した。
- 崔浩はこれに対し、漢書地理志で凉州は牧畜豊饒の地とされるのに水草がないはずがなく、城郭や郡県が置かれた以上、居住不能な荒地であるはずもないと反論した。
- 李順は、自分は実見したので水草は乏しいと重ねたが、崔浩は賄賂を受けて河西をかばっているのだと面前で非難した。
- 太武帝は屏風の陰でこれを聞き、姿を現して群臣を厳しく責めたため、反対論はしぼんだ。
- 退出後、伊馛が、もし本当に水草がないなら相手はそもそも国を成せないはずだとして崔浩支持を言上し、太武帝もよしとした。
六月から九月・北魏の凉州征服
- 五月丁丑、北魏は西郊で兵を整え、六月甲辰に平城を発した。太子晃には穆寿を付して留台の政務を監させ、また嵇敬・建寧王崇に兵二万を率いさせて漠南に駐屯させ、柔然に備えさせた。
- 太武帝は牧犍に書を送り、十二の罪を数え、群臣を率いて遠く出迎えて降るのが上策、六軍が至ってから面縛・輿櫬するのが次策、籠城して悔い改めなければ身死族滅だと警告した。
- 七月、太武帝は上郡属国城に至り、輜重を留めて前軍と後軍に分け、源賀を郷導とした。
- 源賀は、姑臧城外の四部鮮卑は自家の旧民なので、自分が軍前で禍福を説けば必ず帰順すると進言し、太武帝は採用した。
- 八月、永昌王健は河西の畜産二十余万を獲得した。牧犍は魏軍来襲に驚きつつも、姚定国の策に従って出迎えず、柔然に救援を求めた。
- 牧犍の弟董来が一万余で城南に出戦したが、見るまに潰走した。劉絜は卜者の不吉な占いを信じて追撃しなかったため、太武帝はこれを怒った。
- 丙申、太武帝は姑臧に至り、使者を送って降伏を諭したが、牧犍は柔然が魏辺を犯して太武帝が東帰するのを当て込んで籠城した。
- 牧犍の兄の子祖が城を越えて降り、城内事情を知らせた。源賀は諸部を招慰して三万余落を帰服させたため、太武帝は外患を気にせず姑臧攻めに専念できた。
- 太武帝は実際に姑臧城外の水草が豊かなのを見て、李順の報告を深く恨んだ。太子晃にも詔して、城西門外の泉が大河のように北へ流れ、他の溝渠も漠中へ入るので、乾いた地などないのだと知らせ、以前の疑念を解かせた。
- 九月丙戌、牧犍の兄の子万年が部衆を率いて降ると、姑臧城は崩れ、牧犍は文武五千人とともに面縛して降伏した。
- 太武帝はその縛を解いて礼遇し、城中の戸口二十余万、倉庫の珍宝は数えきれぬほど接収した。
- 禿髪保周・穆羆・源賀らを諸郡に分遣すると、雑胡もまた数十万が帰降した。
河西諸郡の処理と文化人の登用
- 牧犍は弟の無諱を酒泉、宜得を張掖、安周を楽都、従弟の唐児を敦煌に置いていた。
- 姑臧陥落後、北魏は奚眷を張掖に、封沓を楽都に向かわせた。宜得は倉庫を焼いて酒泉へ逃れ、安周は吐谷渾へ走った。封沓は数千戸を掠めて帰還した。
- 奚眷が酒泉を攻めると、無諱と宜得は遺民を収めて晋昌へ奔り、のち敦煌の唐児と合流した。
- 北魏は酒泉・武威・張掖に守将を置いた。
- 太武帝は姑臧で酒宴を開き、崔浩の知略はもはや驚くにあたらぬほどだが、武人の伊馛が同じ見識を示したのは特にめずらしいと賞した。
- その後、河西の学者たちも礼遇され、闞駰・劉昞は楽平王丕の属官となり、胡叟・常爽・索敞・江強らも北魏に取り立てられた。
- 特に常爽は温水のほとりに館を置いて七百余人を教え、北魏の儒風振興に大きな役割を果たした。
- 江強は経史諸子千余巻と書法を献じて中書博士となった。
- 太武帝は崔浩に秘書事を監させ、高允・張偉・殷仲逵・段承根らに国史編纂を助けさせた。
- 崔浩は暦家を集めて漢初以来の天文記録を校し、魏暦を作ったが、高允は漢高祖元年の五星聚会の記事に誤りがあることを指摘した。崔浩は後に再検討してこれを認め、衆人は高允に感服した。
- また高允は、政治の第一は農であり、田地の禁を広く解けば公私ともに備蓄が整うと説き、太武帝は田禁を除いて民に田を与えた。
冬十月・柔然の平城侵攻
- 太武帝の西征に際し、穆寿には、柔然の呉提が牧犍と深く結んでいるので、刈り入れ後に兵を出して漠南の要地に伏せ、深入りした敵を撃てと命じてあった。
- しかし穆寿は公孫質を謀主として信用し、二人とも卜筮を信じて柔然は来ないと思い、備えを怠った。
- 柔然の勅連可汗は、魏主が姑臧へ向かった隙を突き、兄の乞列帰に北鎮方面で嵇敬・建寧王崇を牽制させ、自らは精騎を率いて善無の七介山まで深入りした。
- 平城は大いに驚き、民は中城へ逃げ込んだ。穆寿は西郭門を塞ぎ、太子を南山へ避難させようとしたが、竇太后がこれを止めた。
- 長孫道生・張黎が吐頽山でこれを防ぐ間に、嵇敬と建寧王崇が陰山北で乞列帰を破り、乞列帰とその伯父他吾無鹿胡、将帥五百人を捕え、万余級を斬った。
- 勅連可汗はこれを聞いて退き、魏軍は漠南まで追って帰還した。
十月から十二月・帰還と牧犍の処遇
- 十月辛酉、太武帝は東還し、楽平王丕と賀多羅を凉州鎮守に残した。沮渠牧犍の宗族と吏民三万戸を平城へ移した。
- 癸亥、禿髪保周が諸部鮮卑を率いて張掖を拠し、北魏に叛いた。
- 十二月乙亥、太子劭が加冠し、大赦が行われた。太子は美男子で読書を好み、弓馬にも長じ、賓客を引き寄せることを好んだ。東宮には羽林に等しい兵も置かれた。
- 壬午、太武帝は平城に着いた。柔然の侵攻で大きな損害がなかったため、穆寿らは誅されずに済んだ。
- 太武帝はなお妹婿として牧犍を遇し、征西大将軍・河西王の号も旧のままとした。牧犍の母が死ぬと太妃の礼で葬り、武宣王の墓には守冢三十家を置いた。