資治通鑑宋紀五 太祖文皇帝 元嘉 十五年 438年

二月から四月・吐谷渾と北燕馮弘の最期

  • 二月丁未、宋は吐谷渾王慕利延を都督西秦河沙三州諸軍事・鎮西大将軍・西秦河二州刺史・隴西王とした。
  • 三月、北魏は五十歳以下の沙門を還俗させ、壮年の者を民として徴発に充てようとした。
  • もと北燕王馮弘が遼東へ着いたとき、高麗王璉は使者を遣わして労いの言葉を送ったが、その言い回しが相手を国を失って野にある者として扱う趣きだったため、馮弘は恥じて怒り、高麗に対してもなお皇帝同様にふるまった。
  • 高麗は当初、馮弘を平郭、次いで北豊に移したが、馮弘は高麗の地にありながら政刑賞罰をなお自国の主のように行い、高麗を侮った。
  • このため高麗は馮弘の侍者を奪い、太子王仁を人質に取った。
  • 馮弘は高麗を怨み、宋に使者を送って迎えを求めた。文帝は王白駒らを派遣して迎えさせ、高麗にも送還の便宜を命じた。
  • しかし高麗王は馮弘の南来を望まず、孫漱・高仇らに命じて北豊で馮弘とその子孫十余人を殺した。のちに宋は馮弘へ昭成皇帝と諡した。
  • 王白駒らは率いる七千余人で孫漱らを急襲し、高仇を殺し、孫漱を生け捕りにした。
  • 高麗王は、白駒らが自国で勝手に人を殺したとしてその身柄送致を求めた。宋は遠国との関係を乱したくなく、いったん王白駒らを獄に下したが、後に赦した。

北魏の柔然遠征

  • 五月、北魏は大赦を行った。
  • 七月、太武帝は五原から北へ出兵し、柔然を討った。楽平王拓跋丕が東道、永昌王拓跋健が西道を率い、太武帝は中道から進んだ。
  • 浚稽山に至るとさらに中道を分け、陳留王崇を大沢経由で涿邪山へ向かわせ、自身は浚稽の北から天山方面へ進み、西に白阜へ登った。
  • しかし柔然本隊には遭遇できず、そのまま引き返した。この年は漠北が大旱で、水草がなく、人馬の死が多かった。
  • 冬十一月丁卯朔、日食があった。
  • 十二月丁巳、太武帝は平城に帰着した。

雷次宗と宋の四学

  • 豫章の雷次宗は学問を好み、廬山に隠棲していた。かつて散騎侍郎に召されたこともあったが応じなかった。
  • この年、処士として建康に召され、鶏籠山に館を設けて弟子を集め、教育にあたるよう命じられた。
  • 文帝は文芸を好み、何尚之に玄学、何承天に史学、謝元に文学を立てさせ、雷次宗の儒学とあわせて四学とした。
  • 帝はしばしば雷次宗の学館を訪れ、巾褠姿での侍講を命じ、厚く資給し、さらに給事中にも任じたが、雷次宗は就任せず、のちに廬山へ帰った。

司馬光の評

  • 司馬光は、学問は本来「道」を求めるためのものであり、天下に道は一つなのに四学を立てるのは本旨にかなわないと論じる。
  • 一方で、文帝の政治については、仁厚・恭倹で政務に勤め、法を守らせつつ苛酷にならず、官の任期を長くして吏民を安定させたと評価する。
  • 元嘉の三十年間、国内は安定し、戸口は増え、租税・徭役も常賦に限られ、民は朝出て暮れに帰って自らの仕事に従うことができた。
  • 里には講誦の声が聞こえ、士人は節操を重んじ、江南の風俗が最も美しかった時代として、後世これを「元嘉の治」と称した。