資治通鑑宋紀五 太祖文皇帝 元嘉 十四年 437年
正月から三月・北魏の動きと宋魏婚姻交渉の中止
- 正月戊子、北魏の長孫嵩が死去した。
- 辛卯、宋では大赦があった。
- 二月、北魏の太武帝は幽州へ行幸した。
- 三月、北魏は南平王拓跋渾を和龍鎮守に任じ、そののち太武帝は宮城へ帰った。
- 宋では劉熙伯を北魏に派遣して婚姻の贈物を議しようとしたが、帝女が亡くなったため中止となった。
蜀方面の平定
- 夏四月、趙広・張尋・梁顕らがそれぞれ降伏し、別将の王道恩が程道養を斬って首を送った。残党もみな平定された。
- 丁未、周籍之が益州刺史に任じられた。
北魏の民官監察
- 五月己丑、北魏は郡守・県令など民政をつかさどる官の貪汚を理由に、吏民が不法を告発できるようにした。
- しかし、この制度は姦猾な者が地方官の失を探して脅迫する口実にもなり、在任者は彼らにへつらうようになった。結果として貪縦はむしろ改まらなかった。
吐谷渾・西域・河西
- 九月丁酉、北魏は吐谷渾王の慕利延を鎮西大将軍・西平王に封じた。
- 十一月、北魏は再び董琬・高明らを西域に派遣し、多くの金帛を持たせて九国を招撫した。
- 董琬らが烏孫に着くと、烏孫王は大いに喜び、破落那・者舌の二国も魏に臣従・朝貢したがっているが道がないと語った。
- そこで導訳をつけて董琬を破落那へ、高明を者舌へ送ると、近隣諸国は争って使者を従わせ、合計十六国が入貢した。以後、西域諸国の朝貢は毎年続くようになった。
北魏と河西王牧犍
- 北魏の太武帝は妹の武威公主を河西王沮渠牧犍に嫁がせた。
- 河西王は宋繇を平城へ送り、謝恩するとともに、公主とその母の称号をどうすべきかを尋ねた。
- 群臣は、母は子によって貴び、妻は夫の爵に従うべきだと議し、牧犍の母は河西国太后、公主はその国では王后、京師では公主と称すべきだとした。太武帝もこれに従った。
- 牧犍は以前、凉の武昭王の娘李氏を娶っていた。魏公主が来ると、李氏とその母尹氏は酒泉へ移された。
- ほどなく李氏が死ぬと、尹氏は国が滅び家が亡びた以上、死が遅かったくらいだと語り、涙を見せなかった。
- 牧犍の弟の無諱が酒泉にいて、尹氏に伊吾の孫たちのもとへ行くかと問うた。尹氏は真意を測りかねていったん断ったが、まもなくひそかに伊吾へ逃れた。
- 無諱は騎兵を差し向けたが、尹氏が、許しておきながらなぜ追うのか、自分の首を持って帰るなら帰るが、もう戻らぬと言い切ったため、追手は押し迫れず帰還した。尹氏は伊吾で死んだ。史家はこれを義烈とした。
- 牧犍は将軍の沮渠旁周を北魏へ入貢させ、北魏は古弼・李順を遣わして侍臣に衣服を賜り、世子封壇の入侍も求めた。
- この年、封壇は北魏へ赴き、また建康にも使者を送り、書物や暦書を献じ、さらに各種の書籍を求めた。宋の文帝はその求めに応じた。
- 李順が河西から帰ると、太武帝はすぐに西征できるかを問うたが、李順は従前の見立てを維持しつつも、たび重なる出兵で兵馬が疲れているので先送りすべきだと答え、太武帝もそれに従った。