資治通鑑宋紀五 太祖文皇帝 元嘉 十三年 436年
春正月・帝の病と檀道済召還
- 春正月癸丑朔、宋の文帝は病のため朝会に出なかった。
- 司空・江州刺史の檀道済は、先朝以来の名将で威名が高く、腹心や子弟にも有能な者が多かったため、朝廷は以前からこれを警戒していた。
- 文帝の病が長引くなか、劉湛は司徒の劉義康に対し、もし天子に万一のことがあれば檀道済は制御できなくなると説いた。
- 文帝が重態になると、義康は帝に言上して檀道済を入朝させた。道済の妻・向氏は、功が高すぎる者は古来忌まれるとして凶事を予感した。
- 檀道済は建康に来たのち、しばらく留め置かれた。帝の病がやや軽くなって江州へ帰されることになり、すでに舟は渚に下っていたが、病状再発に乗じて義康が詔を偽り、送別の場で道済を捕えた。
三月・檀道済誅殺
- 三月己未、詔書で檀道済が財貨を散じて無頼を招き、帝の病に乗じて乱を企てたとされ、廷尉に下されて処刑された。
- あわせてその子の給事黄門侍郎・檀植ら十一人も誅されたが、幼い孫だけは助けられた。
- また、道済の腹心で勇力をもって知られた薛彤・高進之も殺された。当時の人はこの二人を関羽・張飛になぞらえた。
- 捕えられた檀道済は憤激して、国家の長城を自ら壊すのかと叫んだという。北魏ではこの死を聞いて喜び、以後の宋は恐れるに足りないと評した。
- 翌日、大赦が行われ、南譙王劉義宣が江州刺史となった。
北魏の対北燕戦
- 二月壬辰、北魏は北燕討伐を決め、東方の高麗など諸国へ使者を送り、北燕王の罪を告げ、今後これと通じたり逃亡者を受け入れたりしないよう命じた。
- 二月辛未、北魏は娥清・古弼らに精騎一万を与えて北燕を攻めさせ、平州刺史の拓跋嬰も遼西の軍を率いて合流した。
- 四月、白狼城が陥落した。
- そのころ高麗は、前年に北燕から求められていた迎えの軍を葛盧孟光らに率いさせ、和龍へ向かわせていた。
- 和龍では北燕の尚書令・郭生が住民の遷都への恐れに乗じて開城門から魏兵を入れようとしたが、魏軍はこれを疑ってすぐには入らなかった。郭生は自ら兵を率いて北燕王を襲ったが、宮門下の戦いで流れ矢に当たって死んだ。
- 葛盧孟光は入城すると、自軍に燕の武庫の精良な兵器を与え、さらに城中を大いに掠奪した。
五月・北燕滅亡と馮弘東遷
- 五月乙卯、北燕王馮弘は龍城の戸口を率いて東方へ移り、宮殿に火を放って去った。火は十日余り消えなかった。
- 婦人たちにも甲を着せて隊列の中に置き、陽伊らの精兵をその外側に配し、葛盧孟光の騎兵が殿軍となった。隊列は前後八十余里にも及んだ。
- 古弼の部将・高苟子は追撃しようとしたが、古弼が酔っていてこれを刀で制したため、馮弘は逃げ延びることができた。
- 北魏の太武帝はこれに怒り、古弼と娥清を檻車で召して平城へ送らせ、二人を門卒に落とした。
- その後、北魏は高麗に使者を送り、馮弘を送還するよう命じた。
西方・楊難当と蜀方面
- 氐王の楊難当は自ら大秦王と称し、年号を建義と改め、后や太子を立て、百官も天子と同じ制度にしたが、なお宋・魏の双方への朝貢は続けた。
- 赫連定が西へ去ったのち、楊難当は上邽を占拠していた。
- 秋七月、北魏は楽平王拓跋丕・劉絜らに河西・高平の諸軍を率いさせて楊難当討伐に向かわせ、先に崔賾を派遣して詔で諭した。
- 九月、拓跋丕らが略陽に着くと、楊難当は恐れて上邽の守備兵を引き揚げ、仇池へ帰ると申し出た。
- 諸将は、豪族を討たずに撤兵すれば再び乱れる上、遠征軍にも戦利品が必要だとして攻撃続行を主張した。
- しかし高允は、帰服しようとする者の心を傷つけてはならず、今は慰撫すべきだと諫めた。拓跋丕はこれに従い、軍は秋毫も犯さずに鎮撫したので、秦・隴は安定した。
- 楊難当は子の楊順を雍州刺史として下辨に置いた。
六月・程道養の残党
- 六月、宋では蕭汪之が兵を率いて程道養を討ち、郪口まで進んだ。
- 帛氐奴は降伏を願い出たが、程道養は敗れて郪山へ退いた。
高麗と北魏の関係
- 高麗は北魏の命に従って馮弘を送らず、むしろ馮弘とともに北魏の王化に従うと表した。
- 北魏の太武帝は高麗征討を議したが、劉絜は秦・隴の新附の民に休養を与えるべきだとし、拓跋丕も和龍の農桑を整え軍需を充実させてから攻めるべきだと述べたため、遠征は中止された。
天文器械と周辺諸国
- 閏月壬子、北魏の太武帝は宮城へ還った。
- この年、宋では太史令の銭楽之に命じて、新たな渾儀を鋳造させた。水力で回転させ、昏明や中星の位置が天象と合うようにした。
- 柔然は北魏との婚姻関係を断って辺境を侵した。
- 吐谷渾では恵王の慕璝が死に、弟の慕利延が立った。