資治通鑑宋紀二 太祖文皇帝 元嘉 四年 427年

正月から二月 北魏の夏再征計画と秦の動揺

  • 正月辛巳、文帝は南郊を祀った。
  • 北魏主は平城へ帰還したが、統万から移した住民は道中で多くが死に、生きて平城に着いた者は十のうち六、七ほどだった。
  • 己亥、北魏主は幽州へ赴いた。夏主赫連昌は平原公赫連定に二万を授けて長安方面へ向かわせた。これを聞いた北魏主は陰山で木を伐り、大規模に攻城具を製作し、再度夏を討つ計画を立てた。
  • このころ山地の羌が西秦に叛いた。
  • 二月、西秦王熾磐は曇達を武始、吉毗を洮陽の羌の慰撫に派遣したが、曇達は羌に捕らえられて夏へ送られ、吉毗も攻撃されて敗走し、兵馬の大半を失った。
  • 乙卯、文帝は丹徒へ行幸し、己巳に京陵を拝した。高祖がかつての耕作用具を保存して子孫に見せるよう命じていたため、文帝は旧居でそれを見て恥じ入り、近臣は舜・禹の例を引いて、先帝の徳と農の苦労を知るためのものだと述べた。

三月から四月 北魏の長安支配と宋・西秦の人事

  • 二月丙子、北魏は高涼王拓跋礼を長安に鎮させ、また桓貸に君子津の橋を造らせた。
  • 丁丑、北魏の広平王拓跋連が死去した。
  • 丁亥、文帝は建康に帰還し、戊子には右僕射鄭鮮之が死去した。
  • 西秦王熾磐は、段暉を涼州刺史として楽都に、麴景を沙州刺史として西平に、出連輔政を梁州刺史として赤水に置いた。
  • 夏四月、北魏は歩堆らを宋へ遣わして聘問した。
  • 庚戌、宋は廷尉の王徽之を交州刺史とし、前刺史杜弘文を召還した。杜弘文は病身ながら、「わが家は三代にわたり節を持って交州を守った。まして召命を受けた以上、都で命を終えたい」と言って出発し、広州で死んだ。

五月から六月 北魏の統万攻略

  • 奚斤は長安で赫連定と対峙していたが、北魏主はその隙を突いて統万を攻めるため、兵を選抜して諸将に分配した。長孫翰ら騎兵三万を前駆、常山王素ら歩兵三万を後続、伏真ら歩兵三万に攻城具を運ばせ、賀多羅に精騎三千で先候させた。
  • 五月、北魏主は平城を発し、陸俟に諸軍を督させて大磧を守らせ、柔然に備えた。
  • 辛巳に君子津を渡り、壬午には中護軍王華が死んだ。
  • 北魏主が抜鄰山に着くと、城を築いて輜重を置き、軽騎三万だけで倍速進軍した。群臣は歩兵と攻具を揃えて進むべきだと諫めたが、皇帝は、重装で行けば夏は警戒して籠城する、軽騎で示弱して出戦を誘う方がよいと論じ、これを押し切った。
  • 六月癸卯朔、日食があった。
  • 北魏主は統万に着くと、主力を深谷に伏せ、少数を率いて城下に現れた。夏の将狄子玉が降ってきて、夏主は赫連定を呼び戻したが、赫連定は長安攻略を優先すると答えたため、夏主は城を固守していたと伝えた。
  • 北魏主は夏主を出戦させるため退却するふりをし、娥清と永昌王健に西方の居民を掠めさせた。そこへ魏軍から逃げた者が、魏軍は糧が尽きて兵は菜を食い、輜重は後ろ、歩兵も未着だと夏側へ告げた。
  • これを信じた夏主は、甲辰、歩騎三万を率いて出撃した。長孫翰らは敵歩兵陣は堅いから避けるべきだと言ったが、北魏主は「遠来して敵を求めたのに、今さら避けては敵を勢いづける」として、偽退して敵を疲れさせる戦法を取った。
  • 風雨と砂塵が東南から吹く中、宦者の趙倪は風向きが不利だと退避を勧めたが、崔浩は叱りつけ、風を利用して敵の後方へ分兵すべきだと主張した。皇帝はこれを採り、左右から騎兵で掎角した。
  • 戦闘中、北魏主は落馬して危うく捕らえられかけたが、拓跋斉が身を挺して救い、皇帝は再騎乗して夏の尚書斛黎文を刺殺し、自ら矢傷を負いながらも戦い続けた。
  • 夏軍は大敗し、赫連昌は城に入れず上邽へ逃れた。北魏軍は追撃して夏主の弟や甥らを殺し、死者は万を超えた。
  • 皇帝は微服で逃兵を追って統万城内に入りかけ、諸門が閉じられて危険に陥ったが、宮中で得た婦人の裙を槊に結んで城壁を越え、辛うじて脱出した。夕暮れには夏の尚書僕射問至が夏主の母を奉じて逃れた。
  • 乙巳、北魏主は統万城に入り、王公・卿将・后妃・宮人を万単位で捕らえ、馬三十余万匹、牛羊数千万頭、府庫・車旗・器物を数え切れぬほど得て、将士に分け与えた。
  • 夏の都城統万は、勃勃が高さ十仞・基厚三十歩の堅城として築いたもので、宮室も奢侈を極めていた。北魏主は、わずかな国がこれほど民力を酷使したのだから亡ばぬはずがないと評した。
  • 夏の太史令張淵・徐辯を再び太史令に任じ、晋の旧将毛脩之や秦の庫洛干を得た。庫洛干は西秦へ返したが、毛脩之は料理に巧みとして太官令にした。
  • 夏の著作郎趙逸の文章に赫連勃勃への過剰な賛美が見えたため、北魏主は怒ったが、崔浩が文士の誇張はやむを得ぬと弁じて罪を免れさせた。
  • 北魏主は赫連勃勃の三女を貴人として納れた。
  • 奚斤はなお長安で赫連定と対峙していたため、北魏主は娥清・丘堆に騎兵五千を与えて関中各地を攻略させた。赫連定は統万陥落を聞いて上邽へ逃げ、奚斤は雍まで追ったが及ばなかった。
  • 奚斤は、赫連昌は上邽に逃れ、今こそ残党を滅ぼしやすいと上表して増兵を求めた。北魏主は当初許さなかったが、重ねて請われて兵一万と馬三千を与え、娥清・丘堆も留めて共に夏を攻めさせた。
  • 辛酉、北魏主は統万から東還し、常山王素を征南大将軍・仮節として統万に留め、桓貸・莫雲を補佐につけた。
  • 西秦王熾磐も枹罕へ戻った。

七月から九月 北魏の威勢と文帝政権

  • 七月己卯、北魏主が柞嶺に着くと、柔然は雲中へ侵攻していたが、統万陥落を聞いて退いた。
  • 西秦王熾磐は群臣に、以前から赫連氏に成算はないと見ていたが、今果たしてその通りになったと語った。
  • 八月、西秦は叔父の渥頭らを北魏に遣わして入貢した。
  • 壬子、北魏主は平城に帰り、戦利品を留台の百官にも分け与えた。
  • ここで北魏主の人となりが評される。勇猛でみずから矢石を冒し、倹約を好み、賞罰を身分に左右されずに行い、才能ある者を出自に関係なく抜擢した。一方で、命令違反には厳しく、残忍で殺戮に果断すぎる面もあり、後悔することもあった。
  • 九月丁酉、安定の人々が城を挙げて北魏に降った。
  • 氐王楊玄は将軍苻白作に命じて西秦の梁州刺史出連輔政を赤水で包囲させた。城中の兵糧が尽きると、民が輔政を縛って降ったが、輔政は駱谷で逃げ帰った。

十月から十二月 西辺再編と年末の情勢

  • 十月、西秦は呉漢を平南将軍・梁州刺史として南漒に置いた。
  • 十一月、北魏主は公孫軌を大鴻臚の使節として遣わし、楊玄を都督荊梁等四州諸軍事・梁州刺史・南秦王に冊封した。楊玄は国境で出迎えなかったため、公孫軌は策書を持ち帰ろうとしたが、楊玄が恐れて郊外まで迎えに出たので、北魏主はこれを是として公孫軌を尚書に抜擢した。
  • 十二月、西秦の梁州刺史呉漢は羌の攻撃を受け、二千戸を率いて枹罕へ戻った。
  • 北魏主は中山へ行幸し、癸卯に平城へ帰った。