正月 謝晦、情勢を疑い始める
- 正月、謝晦の弟で黄門侍郎の謝㬭が急使を立て、朝廷の変事を知らせた。
- しかし謝晦はまだ半信半疑で、傅亮からの手紙を何承天に見せて「万幼宗が一、二日中に来て事情を説明するはずだ」と語った。
- 何承天は、外ではすでに西討が決まったと噂されており、万幼宗が上辺だけの説明に来るはずがない、と警告した。謝晦はなお虚報と思い、北伐を延期する内容の返答草案まで作らせた。
- その後、江夏内史程道惠が尋陽からの書を受け取り、朝廷が大きな処分を下すのは確実だとして、楽冏を通じて封書で謝晦に知らせた。謝晦は何承天に対策を問うた。
何承天の進言と謝晦の決断
- 何承天は、率直にいえば国外へ出て身を全うするのが上策であり、次善としては腹心の兵を義陽に置き、自分は大軍で夏口で戦い、敗れれば北方へ脱出することだと説いた。
- 謝晦は、荊州は兵糧豊かで戦いやすい土地であり、ひとまず決戦してからでも遅くないとして起兵を決断した。
- 彼は表と檄文を作らせ、また顔邵とも相談したが、顔邵は薬を飲んで死んだ。
- 謝晦は戒厳を敷き、庾登之に三千人で城を守れと命じたが、庾登之は老親が都にあり兵も持たぬとして断った。
- 周超が守備を引き受けると答えると、謝晦はその場で周超を司馬・南義陽太守に抜擢し、庾登之を長史に転じた。
徐羨之・傅亮誅殺
- 文帝は、王弘・檀道済は廃立に全面参加したわけではなく、王曇首も自分に近いとして、ひそかに出兵計画を知らせたうえで檀道済を召し、謝晦討伐に使うことを決めた。王華らは反対したが、文帝は「脅されて従っただけで創謀者ではない」として押し切った。
- 乙丑、檀道済が建康に到着。
- 丙寅、文帝は詔を下し、徐羨之・傅亮・謝晦が営陽王と廬陵王を殺した罪を暴き、有司に誅殺を命じた。謝晦が上流に拠って抵抗するなら、自ら六軍を率いて征討すると宣言した。
- 同日、徐羨之と傅亮が召された。徐羨之は西明門外まで来たところで宮中の異変を知り、西州へ戻って郭外へ逃れ、新林の陶窯で首をくくって死んだ。
- 傅亮は兄の墓へ逃れようとしたが、郭泓に捕らえられた。皇帝は詔書を示し、「江陵での誠意に免じて子らは害さぬ」と伝えたが、傅亮は廃昏立明は社稷のためだったと抗弁したうえで誅された。妻子は建安へ流された。
- 徐羨之の二子も誅され、兄の子である徐珮之は助命された。
- 謝晦の子謝世休も誅され、謝㬭も捕らえられた。
檀道済起用と謝晦の挙兵
- 文帝が謝晦討伐の策を檀道済に問うと、檀道済は、謝晦には十策のうち九つを備えるほどの才略があるが、孤軍で勝ったことはなく軍事の実戦家ではない、自分は相手の知恵を知り、相手も自分の勇を知るから、王命を奉じて行けば陣を敷く前に捕らえられるだろうと答えた。
- 丁卯、王弘を侍中・司徒・録尚書事・揚州刺史に徴し、彭城王義康を都督荊湘等八州諸軍事・荊州刺史に任じた。
- 楽冏は再び使者を送り、徐羨之・傅亮・謝㬭らがすでに誅されたと告げた。
- 謝晦はまず徐羨之と傅亮のために哀礼を行い、それから軍を整えた。数日のうちに四方から兵が集まり、精兵三万を得た。
- そして上表し、徐羨之・傅亮は忠貞なのに冤罪で殺されたと主張した。さらに、もし自分たちが権力欲だけなら、武帝の幼い子を擁して号令できたのに、わざわざ三千里をさかのぼって義隆を迎えたはずがないと論じ、王弘・王曇首・王華こそ君側の悪であると非難した。
閏月 皇子劭誕生
- 袁皇后が皇子劭を生んだとき、后は自らその容貌を見て、異常な相なので国と家を破るだろう、育ててはならないと言ってすぐ殺そうとした。
- 文帝は慌てて后殿の戸外まで駆けつけ、帳を押し上げて制止し、ようやく思いとどまらせた。
- 当時はまだ諒闇中だったため、この出産は秘されていたが、閏月丙戌になって初めて劭の誕生が公にされた。
二月 謝晦討伐戦
- 文帝は戒厳を布き、大赦して諸軍を進発させた。謝晦は弟の謝遯を竟陵内史として一万人をもって後方に残し、自身は二万人を率いて江陵を発した。江津から破塚に至るまで船艦を連ね、旌旗で川を覆い、「これが勤王の兵であれば」と嘆いた。
- 謝晦は湘州刺史張邵を誘おうとした。何承天は、張邵の兄張茂度が謝晦と親しいので意向が読めないから軽々しく攻めるべきでないと述べた。謝晦が書で招いても、張邵は応じなかった。
- 二月戊午、王敬弘を左僕射、鄭鮮之を右僕射とした。
- 庚申、文帝は建康を発ち、王弘と義康を留守に置いて中書下省に入り、殷景仁が政務を補佐した。姉の会稽長公主が宮中に留まり、六宮を総括した。
- 謝晦が東下して江口に着くころ、到彦之はすでに彭城洲にいた。庾登之は臆病で進まず、雨が続く中、劉和之は敵味方とも同じ雨なのだから速戦すべきだと説いたが、庾登之は火攻めには晴天が要ると言って決戦を引き延ばした。
- 謝晦は十五日も停軍したのち、孔延秀に命じて彭城洲の蕭欣を破らせ、さらに洲口の柵を落とした。
- 宋の諸将は夏口への退却を望んだが、到彦之は退かず、隠圻に拠って持ちこたえた。
- 謝晦はさらに表を上げ、自分の勝利を誇りつつ、王弘・王曇首・王華らを誅せば自分は兵を引いて任地へ戻ると述べた。
戊辰 謝晦軍の総崩れ
- もともと謝晦・徐羨之・傅亮は、謝晦が上流を、檀道済が広陵を握っていれば、羨之・亮が中央で権を執って長く持ちこたえられると考えていた。だが檀道済が朝廷軍を率いて来ると聞き、謝晦側は大きく動揺した。
- 檀道済が到彦之軍と合流すると、戦艦は岸に沿って次々と連なり、謝晦は最初こそ船数の少なさを侮ったが、夕方になると追い風に乗って前後の艦隊が江上を塞ぐように並び、西軍は意気を失った。
- 戊辰、朝廷軍が忌置洲の尾に達し、列艦して江を渡ると、謝晦軍は一時に潰走した。
- 謝晦は夜のうちに巴陵へ逃れ、小舟で江陵へ帰った。
- これより前、文帝は劉粹にも陸路から江陵を襲わせていたが、沙橋で周超に大敗し、死傷者は半数を超えた。だが謝晦敗報が届くと戦況は一変した。
- 文帝は、劉粹がかつて謝晦と親しく、その子曠之も謝晦の参軍だったため疑っていたが、王弘は私心はないと保証した。実際、劉粹は命を受けると一切顧みず南討に従い、文帝はその忠誠を賞した。謝晦も曠之は殺さず劉粹のもとへ返した。
謝晦の最期
- 丙子、文帝は蕪湖から東へ引き返した。
- 謝晦は江陵へ戻っても有効な処置を取れず、ただ周超に恥じ入るばかりだった。するとその夜、周超は軍を捨てて小舟で到彦之に降った。
- 謝晦の兵はほぼ散り、彼は弟の謝遯らと七騎で北へ逃れた。謝遯は肥えて馬に乗りにくく、謝晦はたびたび待ったため逃走は遅れた。
- 己卯、安陸の延頭で戍主の光順之に捕らえられ、檻車で建康へ送られた。到彦之は馬頭で何承天の自首を受け、荊州府の事務を監した。周超は参軍とされた。
- 劉粹は沙橋敗戦の報告を行ったが、これにより周超は逮捕され、謝晦・謝㬭・謝遯とその兄弟の子、および孔延秀・周超ら同党も誅された。
- 謝晦の娘で彭城王妃となっていた女性は、父と別れる際、髪を乱し裸足で、「大丈夫なら戦場に屍を横たえるべきで、都で狼藉の罪人として死ぬべきではない」と言った。
- 庾登之は任に堪えなかったとして免官・禁錮。何承天や王玄謨らは赦された。
- 謝晦が敗走した際、延陵蓋だけは最後まで見捨てず従ったため、文帝は彼を鎮軍功曹督護に任じた。
北辺と蜀・荊の後処理
- 謝晦は起兵に際し、北魏の南蛮校尉王慧龍を援軍として引き込んでいた。王慧龍は一万を率い思陵戍を取り、項城を囲んだが、謝晦敗北を聞いて退いた。
- 益州刺史張茂度も江陵襲撃を命じられたが、白帝に着いたころにはすでに決着していた。疑う声もあったが、弟張邵の忠節をもって不問とされ、代えられて帰還した。
三月以後 謝霊運・顔延之・慧琳の登用
- 三月辛巳、文帝は建康に還った。
- 謝霊運を秘書監、顔延之を中書侍郎に任じ、厚く遇した。
- また、僧慧琳が議論に長けるとして、朝廷の大事にも参与させ、権要に近づけた。その門前には来客の車が常に数十台並び、贈り物も絶えず、座席はいつも満ちていた。慧琳は高い木履を履き、貂裘をまとい、取次や書記まで置くほどであった。
- 孔覬が訪れた際、雑踏の中でただ寒暖の挨拶をしただけで終わったため、「ついに黒衣の宰相が現れた。冠と履物の置き場所が逆になったようなものだ」と嘆いた。
五月から年末 文帝政治の整備と周辺諸国
- 五月乙未、檀道済を征南大将軍・開府儀同三司・江州刺史とし、到彦之を南豫州刺史とした。
- 袁渝ら十六人を諸州郡県へ分遣し、吏治を観察し、民の困窮と政策の損益を広く調べさせた。
- 丙午、文帝は延賢堂で訴訟を聴断し、以後毎年三度の訊問を行うようになった。
- 王敬弘は名望はあったが実務に淡く、文書もほとんど読まなかった。あるとき皇帝が裁判で質問しても答えられず、「牒を受け取っても自分では理解できない」と述べたため、文帝は不快に思い、礼は保ったが政務には関与させなくなった。
- 六月、王華は中護軍に転じたが、王弘・王曇首と並び立つ状況に不満を持ち、「宰相が何人もいては天下は治まらない」と嘆いた。当時は固定の宰相職がなく、君主が政務を委ねる者が実質上の宰相だった。
- 王華・劉湛・王曇首・殷景仁は侍中として一時を代表する人物と称され、謝弘微を加えて「五臣」と呼ばれた。謝弘微は言動に節度があり、上下一同に神のように敬われた。文帝は王曇首や王華らに封爵を与えようとしたが、曇首は国難によって身を利することはできないと固辞し、文帝もやめた。
- 北魏では赫連氏・柔然・北燕のいずれを先に討つべきか議論になり、長孫嵩らは柔然先討、崔浩は赫連先討、劉絜・安原は北燕先討を主張した。北魏主は雲中から五原を巡り、陰山で狩猟して平城へ戻った。
- 秋八月、吉恒が北魏へ使いした。
- 北燕では太子慕容永が死に、次子の翼が太子に立った。
- 西秦王熾磐は河西を攻めたが、河西王沮渠蒙遜が夏に援軍を求めたため、夏の呼盧古・韋伐が苑川と南安を攻め、西秦軍は引き返した。
- 九月、西秦は老弱と家畜を澆河・莫河・寒川へ移し、曇達を枹罕に残した。韋伐は南安を抜き、吐谷渾握逵ら二万落が西秦に叛いて吐谷渾王慕璝に附いた。
- 大旱と蝗害があり、范泰は謝晦の妻女が尚方に禁繋されている件について赦免を願い、文帝はこれを許した。
- 北魏主は夏で諸子が相争って国内不安であると聞き、夏征討を考えた。長孫嵩らは柔然の侵入を恐れて反対したが、崔浩は天文の兆しから西伐の好機だと主張し、皇帝は嵩を厳しく叱って出兵を決めた。
- 奚斤に蒲阪襲撃を、周幾に陜城襲撃を命じ、薛謹を案内役とした。李順に前軍を委ねる案もあったが、崔浩は婚姻関係を理由にその性格の危うさを述べ、採用を止めさせた。
- 冬十月、北魏主が平城を発した。
- 西秦では曇達が嵻㟍山で夏軍に敗れ、十一月には呼盧古・韋伐が枹罕を攻めた。趙寿生が三百の死士でこれをしりぞけたが、ほかにも湟河や西平が攻められ、大きな被害を受けた。
- 仇池の楊興平が宋への内附を求め、梁南秦州刺史吉翰が龐咨を武興に入れたが、氐王楊玄の弟難当がこれを防ごうとして敗れた。
- 十一月から十二月、北魏主は君子津で黄河の結氷を利用して渡河し、冬至の日に統万へ急襲した。夏主赫連昌は城外で敗れて城内に逃げ込み、北魏軍は西宮門を焼き、城外で大量の殺獲を行ったが、城そのものは落とせず、住民一万余家を移して引き返した。
- 夏の弘農太守曹達は周幾を恐れて逃げ、北魏軍は三輔に入り込んだ。蒲阪の守将乙斗も統万陥落の報を聞いて逃げ、奚斤は蒲阪を、さらに長安も占領した。十二月、関中の秦・雍・氐・羌は相次いで北魏に降り、河西王沮渠蒙遜や氐王楊玄も北魏に使者を送って帰附した。
- 宋では徐珮之が仲間百余人と翌年正会での乱を謀ったが露見し、斬られた。営陽太妃張氏も死去した。
- 西秦では辛澹が南漒で吉毗を追い、仇池へ走った。
- 北魏は中原で漏戸整理のため特別に織物税を取っていたが、これを悪用して郡県の賦役を逃れる者が多かったので、この年からすべて郡県所属に戻して課役を均一化した。