資治通鑑宋紀二 太祖文皇帝 元嘉 二年 425年

正月 文帝親政の開始

  • 正月、徐羨之と傅亮が相次いで上表して政権返上を願い、三度に及んでようやく文帝は許し、丙寅から万機を親ら執ることになった。
  • 徐羨之はなお辞職して私第に退こうとしたが、徐珮之・程道惠・王韶之らがそれでは不適当だと強く勧めたため、結局は再び政務を見た。
  • 辛未、文帝は南郊を祀って大赦を行った。
  • 同じ頃、北魏主は平城へ帰還した。

二月から四月 北燕・北魏・西秦・北魏の交聘

  • 二月、北燕で女子が男子に変じたという怪異があり、傅権はこれを「臣下が君主となる兆し」と解した。
  • 三月、北魏主は養母の竇氏を保太后に尊んだ。竇氏は密后の死後、幼い世祖を恩愛と礼をもって育てたため、その徳に報いたものだった。
  • 北魏では長孫嵩を太尉、長孫翰を司徒、奚斤を司空に任じた。
  • 夏四月、西秦王乞伏熾磐は叱盧犍らに河西の将沮渠白蹄を襲わせ、臨松で捕らえ、その民五千余戸を枹罕へ移した。
  • 北魏は歩堆らを宋に派遣して通好を再開した。

六月から八月 武都・黒水羌・夏の皇位継承

  • 六月、武都王楊盛が死去した。楊盛は晋滅亡後も義熙年号を改めず、生涯晋臣であることを望み、子の楊玄に宋帝へよく仕えるよう遺言していた。
  • 楊玄は都督・征西大将軍・秦州刺史・武都王を自称し、使者を遣わして父の喪を告げ、このときから元嘉年号を用いた。
  • 秋七月、西秦は吉毗らを派遣し、黒水羌の酋長丘担を大破した。
  • 八月、夏の武烈帝赫連勃勃が死去し、嘉平陵に葬られた。太子赫連昌が即位し、大赦して承光と改元した。
  • 王弘は当初、廃立の定策に加わらなかったことを理由に司空の任を固辞していたが、この年ようやく許され、車騎大将軍・開府儀同三司となった。

十月から十一月 北魏の大規模対柔然遠征

  • 冬十月、丘担は部衆を率いて西秦に降った。西秦はこれを帰善将軍とし、乞伏信帝を平羌校尉としてその地を鎮させた。
  • 同月、北魏主は柔然討伐のため五道から同時に出兵した。長孫翰らは東道、長孫道生らは白黒二漠の間、北魏主は中道、奚斤らは西道を進んだ。各軍は漠南で輜重を置き、軽騎が十五日分の糧を持って砂漠を越えた。柔然は驚いて北走した。
  • 十一月、宋は武都世子楊玄を北秦州刺史・武都王に任じた。

年末 文帝と近臣たち、謝晦討伐の布石

  • 会稽の孔甯子は、かつて文帝が鎮西将軍だったころの属官で、即位後は歩兵校尉となった。彼は王華とともに富貴を望み、徐羨之・傅亮の専権を日夜文帝に訴えた。
  • ちょうど謝晦の二女が彭城王義康・新野侯義賓に嫁ぐことになり、その送迎で一族が建康に来ていた。
  • 文帝は、徐羨之・傅亮を誅し、あわせて謝晦討伐の兵を起こそうと決し、表向きは北魏征討や陵墓参拝の準備だと称して、装備と船を整えた。
  • 傅亮は謝晦に手紙を送り、北伐論議が続いていること、朝士の多くが諫めていること、万幼宗が相談に向かうだろうと伝えたが、朝廷の異様な動きから、謝晦側にも謀計の気配はかなり漏れ始めていた。