資治通鑑宋紀二 太祖文皇帝 元嘉 一年 424年

正月 魏の改元と営陽王への諫言

  • 春正月、北魏は年号を始光に改めた。
  • 北魏では安定殤王・拓跋彌が死去した。
  • 宋の営陽王は喪中にもかかわらず礼を失い、近習とむやみに遊興し、後園で武備のまねごとまでしていた。これに対し、致仕していた范泰が上封事を出し、宮中での軍事遊戯や小人との親近は国家のためにならないと強く戒めたが、聞き入れられなかった。

廬陵王義真と文人たち

  • 南豫州刺史の廬陵王義真は聡明で文芸を好み、謝霊運・顔延之・僧の慧琳と親しく交わった。義真は、もし志を得れば霊運と延之を宰相に、慧琳を西豫州都督にしたいと語っていた。
  • しかし謝霊運は傲慢で法を守らず、顔延之も放縦で、いずれも政治家向きではないと朝廷に見られていた。徐羨之ら執政は、義真がこうした人物と交わるのを危険視し、謝霊運を永嘉太守、顔延之を始平太守へ外任に出した。
  • 義真は歴陽で財貨や物資を多く求めたが、執政側はその要求を抑制したため、義真は深く恨み、不満を公然と口にした。還都願いも出したが、何尚之がたびたび諫めても従わなかった。

廬陵王義真の廃黜

  • 徐羨之らはすでに営陽王廃立を密かに計画しており、次の皇位継承者として義真が有力だった。そこで先に義真を排除することとし、その罪状を列挙して上奏し、庶人に落として新安郡へ流した。
  • これに対し、かつての吉陽令・張約之が上疏し、義真には非があるにせよ武帝の愛子であり今上の弟なのだから、段階を踏んで教導すべきで、いきなり辱めて遠流にするのは宗室結束を損なうと諫めた。
  • しかしこの意見は容れられず、張約之は梁州府参軍に左遷されたのち、まもなく殺された。

四月から五月 執政が兵権を固める

  • 夏四月、北魏の皇帝は大寧へ東巡した。
  • 西秦王の乞伏熾磐は、吉毗らに一万の兵を与えて南方の羌系諸国を討たせ、白苟・車孚・崔提旁為の四国を降した。
  • 宋では徐羨之らが、旧将で兵も持つ檀道済を警戒し、さらに江州刺史王弘も呼び寄せた。二人が建康に着くと、徐羨之らは廃立計画を打ち明けた。

五月 営陽王の廃位

  • 五月甲申、謝晦は自邸に兵を集め、中書舎人の邢安泰・潘盛を宮中の内応とした。夜、檀道済を誘って同宿したが、謝晦が不安で眠れない一方、檀道済は平然と熟睡し、謝晦はその胆力に感じ入った。
  • 当時、営陽王は華林園で市を立てて自ら商売ごっこをし、近習たちと舟遊びをして、そのまま龍舟で寝るような有様だった。
  • 乙酉の早朝、檀道済が先頭に立ち、徐羨之らが続いて宮中へ突入した。宿衛兵は内応者に抑えられて抵抗せず、営陽王はまだ起きていないところを襲われ、侍者二人が殺され、自身も指に傷を負った。
  • その後、璽綬を接収し、群臣は廃帝に拝辞して旧東宮へ移した。
  • 程道惠は義恭を立てるよう勧めたが、徐羨之らは、もとより人望があり瑞兆も多かった宜都王義隆を立てることにした。皇太后の令を称して営陽王の罪を数え、営陽王に落とし、宜都王義隆の即位を決めた。皇后も廃されて営陽王妃とされた。
  • 営陽王は呉へ移され、檀道済が朝堂の警備に当たった。

六月 営陽王と義真の殺害

  • 六月癸丑、徐羨之らは邢安泰を呉へ遣わし、営陽王を殺させた。営陽王は力が強く、門から逃げ出したが、追手に倒されて殺された。
  • これに先立ち、蔡廓は尋陽で傅亮に会い、「営陽王を厚遇せよ。もし不慮があれば、あなた方は弑逆の名を負って立つことができなくなる」と忠告した。傅亮は慌てて殺害中止の使いを飛ばしたが間に合わず、徐羨之は傅亮の態度を激しく怒った。
  • 徐羨之らはさらに使者を遣わして、新安に流されていた前廬陵王義真も殺害した。

七月 宜都王義隆の迎立

  • 徐羨之らは、荊州を掌握する謝晦が宜都王に取って代わられることを恐れ、急いで謝晦を荊州刺史として外に出し、精兵と旧将を付けて後ろ盾にしようとした。
  • 秋七月、傅亮が行台百官を率いて江陵へ赴き、宜都王に璽綬と儀物を奉って即位を請うた。
  • 宜都王はなお辞退の姿勢を見せ、まずは都へ戻って陵墓に哀を尽くし、賢者たちと胸中を語りたいと述べた。また、州府や王国の統治下で刑に処されている者を赦し、滞納債務も免除した。
  • 諸将佐は、営陽王と義真がすでに殺されたことを知って不審を抱き、東下を止めた。だが王華は、徐羨之らは司馬懿や王敦のような逆心を抱く人物ではなく、せいぜい権力維持のため少主を立てたにすぎない、殿下が東下すれば人心は必ず従うと説いた。
  • 王曇首・到彦之も進発を勧め、義隆はついに決断した。到彦之は、もし相手に逆意がないなら兵を見せずに朝服で下るべきで、兵を先行させればかえって疑いを生むと進言した。
  • ちょうど雍州刺史褚叔度が死んだため、到彦之はその代わりに襄陽を仮に鎮した。

七月から八月 道中の警戒と西方情勢

  • 甲戌、義隆は江陵を発し、傅亮を引見して義真と少帝の死の経緯を問い、涙を流して悲しんだ。傅亮は汗を流して返答に窮し、到彦之・王華らに深く取り入ろうとした。
  • 義隆は自衛のため、府州の兵を厳重に整え、朱容子が刀を抱えて乗船の戸外に付き従い、長く帯を解かないほど警戒した。
  • この頃、西秦の乞伏熾磐は太子暮末らに三万を与え、河西を攻めて白草嶺・臨松郡を破り、住民二万余口を移して帰った。

八月 文帝即位

  • 八月丙申、宜都王義隆が建康に到着し、新亭で群臣の出迎えを受けた。
  • 徐羨之が傅亮に「新王は誰に比すべきか」と問うと、傅亮は「晋の文帝・景帝以上の人物だ」と答えた。徐羨之は自らの忠心を理解してくれると期待したが、傅亮はそうは見ていなかった。
  • 丁酉、義隆は初寧陵に拝してのち中堂に入り、百官の奉る璽綬を受けて即位した。法駕を備えて宮城に入り、太極前殿に御し、大赦して元号を元嘉と改めた。
  • 戊戌には太廟に拝し、廬陵王義真の旧封を回復し、その柩と母の孫修華、妃の謝氏を建康に迎えるよう命じた。

新政権の布陣

  • 謝晦は正式に荊州刺史となった。出発前に蔡廓へ、自分はこの難局を免れられるかと尋ねたところ、蔡廓は、廃昏立明まではまだしも、君主とその兄を殺し、しかも上流の重地を押さえている以上、古今を照らせば無事に済むのは難しいと率直に答えた。
  • 謝晦は最初出発をためらったが、石頭城を振り返って「ようやく難所を離れられた」と喜んだ。
  • 徐羨之は司徒、王弘は司空となり、傅亮は開府儀同三司を加えられ、謝晦と檀道済もそれぞれ進号した。
  • 文帝は当初、政務や刑獄については旧来どおり徐羨之・王弘の二公に委ねる方針を示した。
  • 王曇首・王華を侍中に任じ、朱容子を右衛将軍とし、近臣層を固めた。
  • また、母の胡婕妤を章皇后と追尊し、弟たちの義恭・義宣・義季を王に封じた。義宣は石頭を鎮した。

到彦之・謝晦の相互牽制

  • 徐羨之らは到彦之を雍州へ出したかったが、文帝は認めず、中領軍に徴して軍政を委ねた。
  • 到彦之が襄陽から南下すると、すでに荊州へ着いていた謝晦は自分が越えられるのではと恐れた。だが到彦之は歩いて江陵へ赴き誠意を示し、馬や名刀を贈ったため、謝晦は大いに安心した。

北魏と柔然、吐谷渾、宕昌、夏

  • 柔然の紇升蓋可汗は、北魏太宗の死を聞いて六万騎で雲中に侵入し、盛楽宮を破った。北魏の世祖は軽騎で急襲し、数重に包囲されても平然としていた。柔然側の有力者於陟斤が射殺されると、紇升蓋は退いた。
  • 劉絜は北魏主に、柔然は必ずまた来るから秋の収穫後に大軍で討つべきだと進言し、皇帝もこれを認めた。
  • 九月、文帝は袁氏を皇后に立てた。
  • 十月、吐谷渾威王阿柴が死去した。阿柴は臨終にあたり、緯代らの諸子に慕璝を主君として奉ずるよう命じ、一本の矢は折れても束ねた矢は折れないことを示して、兄弟協力の必要を説いた。慕璝はその後、流民や氐羌諸種を受け入れて勢力を増した。
  • 十二月、北魏は長孫翰・尉眷らを北伐させ、皇帝自身も柞山に屯した。柔然は北へ逃れ、北魏軍は大きな戦果を得て帰還した。
  • 宋では営陽王の母張氏を営陽太妃とした。
  • 林邑王范陽邁が日南・九徳を侵した。
  • 宕昌王梁弥忽は子の弥黄を北魏へ入朝させた。宕昌は羌の別種で、西域へ通じる広い地域に諸部が散在する中、最も強大な部族だった。
  • 夏では、赫連勃勃が太子赫連璝を廃して少子の酒泉公赫連倫を立てようとしたため、璝が七万で北伐した。倫は敗死し、兄の太原公赫連昌が璝を襲って殺し、統万へ帰還した。勃勃はこれを喜び、赫連昌を太子に立てた。
  • 赫連勃勃は自国を誇り、都城の四門に「招魏」「朝宋」「服涼」「平朔」といった名を付けた。