正月 改元と洛陽方面
- 春正月己亥朔、大赦して景平と改元した。
- 辛丑、南郊で祭祀を行った。
- 北魏の于栗磾が金墉を攻め、癸卯、河西太守の王涓之は城を棄てて逃げた。北魏は于栗磾を豫州刺史として洛陽に鎮させた。
- 北魏の主は恒嶽へ南巡し、のち鄴に至ったが、記事の前後には日付上の齟齬がある。
蔡廓の吏部尚書辞退
- 己未、豫章太守の蔡廓を召して吏部尚書にしようとした。
- 蔡廓は傅亮に対し、人事が自分に一任されるのでなければ拝命できないと言った。
- 傅亮が徐羨之に伝えると、徐羨之は黄門侍郎・散騎侍郎以下は蔡廓に委ねるが、それ以上はともに議すべきだとした。
- 蔡廓は、それでは徐干木の黄紙文書の末尾に署名するだけの役だとして、拝命しなかった。
- 後の論では、蔡廓は制度上の理を知らぬわけではなく、暗主と難局のもとで人事の要衝に立つことを避けたのだと評された。
青州戦線の危機
- 庚申、檀道済は彭城に進軍した。
- 北魏の叔孫建は臨淄へ入り、各地の城邑はみな風の前に崩れるように降った。
- ただし青州刺史の竺夔だけは、住民を東陽城へ集め、入城しない者には山険に拠らせ、田畑の穀物も刈り払わせて、魏軍に糧を得させなかった。
- 済南太守の垣苗も部衆を率いて竺夔に合流した。
- 刁雍は鄴で北魏の主に会い、青州の民はみな自分の威信を知っているから、自分を派遣すれば助けになると申し出た。北魏の主は青州刺史に任じ、騎兵を与えて募兵させた。雍は五千人を得て土民を慰撫し、租を送らせて軍用に充てた。
二月 北魏長城・宋太皇太后崩御
- 二月戊辰、北魏は赤城から五原まで二千余里にわたる長城を築き、戍卒を置いて柔然に備えた。
- 丁丑、宋の太皇太后蕭氏が死去した。
- 河西王・蒙遜と吐谷渾王・阿柴は、ともに使者を送って入貢した。
- 庚辰、蒙遜を都督涼・秦・河・沙四州諸軍事、驃騎大将軍・涼州牧・河西王とし、阿柴を督塞表諸軍事・安西将軍・沙州刺史・澆河公とした。
三月 蕭太后葬送と虎牢攻防
- 三月壬子、孝懿皇后を興寧陵に葬った。
- 北魏の奚斤・公孫表らは虎牢を攻め、北魏の主も鄴から援兵を送った。
- 毛徳祖は城中に地道を七丈掘り、六路に分けて包囲の外へ通じさせ、敢死士四百を率いた范道基らを潜出させて敵の背後を襲わせた。魏軍は驚いて数百級を失い、攻城具も焼かれた。
- 魏軍は散ってもすぐ再集結し、いよいよ攻勢を強めた。
- 奚斤は虎牢を離れて歩騎三千で許昌の李元徳らを攻め、これを敗走させ、潁川人の庾龍を潁川太守として許昌に置いた。
- 毛徳祖は公孫表と大戦し、朝から晡に至るまで戦って魏兵数百を殺したが、奚斤が許昌から戻って挟撃すると大敗し、千人余を失って再び籠城した。
- 北魏の主はさらに一万余を白沙渡から南岸へ渡し、濮陽南に屯させた。
項城防衛と朝議
- 朝廷では、項城は魏に近すぎて高道瑾の少兵では支えられないとし、劉粹に命じて彼を寿陽へ召し返し、沈叔狸も進軍していれば呼び戻すべきだという議論が出た。
- 劉粹は、魏軍はまだ虎牢攻めに専念して南下しておらず、今や項城を放棄すれば淮西諸郡の支えがなくなると上奏した。沈叔狸もすでに肥口まで進んでいるので退くべきでないとした。
- ちょうど李元徳が敗残兵二百を率いて項城へ着いたので、劉粹は高道瑾の援軍とし、その敗走の罪を許すよう求めた。朝廷はこれを許した。
北魏主の東進と公孫表の死
- 乙巳、北魏の主は韓陵山で狩りをし、汲郡を経て枋頭へ進んだ。
- 毛徳祖はかつて公孫表と旧知であったため、その関係を逆手に取り、表と通じているように見せかける密書を奚斤に悟らせた。奚斤はこれを疑い、北魏の主へ告げた。
- 以前から公孫表は太史令の王亮を軽んじており、王亮は虎牢東の不利な地に屯営したのは表の失策だと奏していた。北魏の主は術数を好んでいたこともあり、かねての不満とあわせて夜中に帳中で公孫表を絞め殺させた。
- 乙卯、北魏の主は霊昌津から黄河を渡り、東郡へ進んだ。
東陽城の籠城戦
- 叔孫建は三万騎で東陽城を圧迫した。城内の兵はわずか千五百ほどだったが、竺夔と垣苗は死力を尽くして守り、ときに奇兵を出して北魏軍を破った。
- 魏軍は城を十余里にわたって囲み、大いに攻城具を整えた。竺夔は四重の塹壕を掘ったが、魏軍はその三重まで埋め、撞車で攻めた。
- 竺夔は地道から兵を出し、大麻の綱で撞車を引き倒して壊した。魏軍はさらに長囲を築いて攻め、城はしだいに崩れ、兵は死傷し、ついに落城寸前にまで追い詰められた。
檀道済の救援と北魏撤退
- 檀道済は彭城まで進んでいたが、司州・青州の双方が危急で兵が足りず、しかも青州のほうが近く、竺夔の兵も弱かったため、王仲徳とともに急行することにし、あらかじめ命令を出した。
- 甲子、劉粹は李元徳に許昌を襲わせ、庾龍を斬らせた。李元徳はそのままとどまり、当地の租糧を徴収して守りを固めた。
- 北魏の主が孟津に至ると、于栗磾は冶阪津に浮橋を造った。
- 乙丑、北魏の主は西へ渡り、河内へ向かった。
- 娥清・周幾・閭大肥らは湖陸まで進み、高平の民が屯集して射撃すると、これを撃破して諸県を荒らし、数千家を滅ぼして万余人を掠め去った。兗州刺史の鄭順之は湖陸で兵が少なく、出撃できなかった。
- 北魏の主は并州刺史の伊楼抜を奚斤の援軍として虎牢へ送った。毛徳祖はなお奮戦し、多くの魏兵を殺したが、将士は次第に減っていった。
- 四月丁卯、北魏の主は成皋に至り、虎牢の汲水路を断ったのち、洛陽へ赴いて石経を見、嵩高山を祀らせた。
- 叔孫建は東陽城の北城を三十歩ほど崩したが、刁雍がすぐ入城すべきだと勧めても従わず、攻め落とせなかった。
- 檀道済らの接近を聞くと、刁雍は、南朝軍は突騎を恐れて車を連ね函陣を組むから、大峴以南の狭路で伏撃すれば必ず破れると献策したが、叔孫建は軍中に疫病が多く、これ以上の持久は損だとして退却を決めた。
- 己巳、檀道済は臨朐に到着した。壬申、叔孫建らは営や器械を焼いて退いた。檀道済は東陽に至ったが食糧が尽き、追撃できなかった。
- 竺夔は東陽城は損壊して守れないと判断し、不其城へ移って鎮した。
- 叔孫建は東陽から滑台へ向かい、道済は王仲徳を尹卯に向かわせ、自らは湖陸に留まった。だが仲徳が着く前に魏兵はすでに去っていたため、仲徳は引き返して道済と合流した。
- 刁雍は尹卯に留まり、譙・梁・彭・沛の民五千余家を二十七営に編成して支配した。
蠻部・伊吾・西秦の対魏姿勢
- 蠻王の梅安が渠帥数十人を率いて北魏へ入貢した。
- 江淮から巴蜀にかけて広がる諸蠻は、晋末の動乱でしだいに勢力を増し、伊闕以南の山谷にも満ちるほど北へ移っていた。
- 河西の世子・政徳は晋昌を攻め落とし、唐契と弟の唐和、甥の李宝は伊吾へ逃れて遺民二千余家を集め、柔然に臣従した。柔然は唐契を伊吾王とした。
- 西秦の乞伏熾磐は群臣に、宋は江南を有し、夏は関中に強いが、いずれも恐れるに足りず、代々英武の君をいただき賢者を用いる北魏こそ真に事えるべき国だと語り、恒代の北に真人が出るという讖を根拠に、国を挙げて魏に従う決意を示した。
- そこで尚書郎の莫者阿胡らを北魏へ遣わし、黄金二百斤を献じ、夏討伐の方略も伝えさせた。
閏月~五月 虎牢陥落
- 閏月丁未、北魏の主は河内へ赴き、太行山を越えて高都に至った。
- 叔孫建は滑台から西へ戻り、奚斤とともに虎牢攻めに合流した。
- 虎牢は二百日包囲され、一日として戦わぬ日はなかった。精鋭はほとんど戦死し、魏軍は増える一方だった。
- 北魏軍は外城を壊すと、毛徳祖は内側に三重の城を築いて防いだ。敵はそのうち二重まで破壊し、徳祖は最後の一城にこもって昼夜戦った。将士は眠れず眼病に苦しんだが、徳祖は恩でこれを撫し、離反は起こらなかった。
- このとき檀道済は湖陸、劉粹は項城、沈叔狸は高橋にあったが、いずれも魏軍の強さを恐れて前進しなかった。
- 丁巳、北魏は地道を掘って虎牢の井戸水を抜いた。井は深く、地形も険しく防ぎにくかった。城中では人馬が渇き、負傷者も血が出ぬほど衰弱し、飢疫も重なった。
- 己未、虎牢は陥落した。部将たちは毛徳祖を抱えて脱出させようとしたが、徳祖は城とともに死ぬと誓い、身だけ生き残ることを拒んだ。
- 北魏の主は徳祖を生け捕りにせよと命じ、豆代田がこれを捕えて差し出した。
- 城中の将佐はみな捕虜となり、ただ参軍の范道基だけが二百人を率いて南へ突破して帰った。
- 北魏側も疫病で兵の二、三割を失ったが、奚斤らは司・兗・豫の諸郡県をほぼ平定し、守宰を置いて撫民に当たらせた。
宋朝内部の猜疑
- 虎牢など境土を失ったため、徐羨之・傅亮・謝晦は上表して自らを弾劾したが、詔で不問とされた。
- 徐羨之の兄の子・徐珮之は呉郡太守で、しばしば政務に関与し、王韶之・程道惠・邢安泰・潘盛らと結んで党をなしていた。
- そのころ謝晦は長く病で客にも会えなかったため、徐珮之らは仮病で何かを企てているのではと疑い、徐羨之の意向だと称して傅亮に詔を書かせ、謝晦を誅そうとした。
- 傅亮は、自分たち三人は同じく顧命を受けた身であり、互いを殺すことなどできない、もし強行するなら自分は冠を脱いで宮門から歩いて去るだけだと拒んだ。そこで計画は止んだ。
六月~九月 北魏・河西の諸事
- 五月、北魏の主は平城へ帰った。
- 六月己亥、魏の宜都文成王・穆観が死去した。
- 丙辰、北魏の主は北巡して参合陂に至った。
- 秋七月、宋では帝母の張夫人を皇太后とした。
- 北魏の主は三会屋侯泉へ赴いた。
- 八月辛丑、馬邑で灅水の源を観た。
- 柔然が河西を侵すと、河西王蒙遜は世子の政徳に迎撃させたが、政徳は軽騎で進みすぎて戦死した。蒙遜は次子の興を世子に立てた。
- 九月乙亥、北魏の主は宮へ帰り、奚斤を平城へ呼び戻し、留守兵を虎牢に置いた。また娥清・周幾を枋頭に駐め、司馬楚之の率いた戸口を汝南・南陽・南頓・新蔡の四郡として再編し、豫州に付した。
冬 西宮拡張・西秦宮中の陰謀
- 冬十月癸卯、北魏では西宮の外垣を広げ、周囲二十里とした。
- かつて秃髪傉檀が死んだのち、河西王蒙遜はその旧太子・虎台を誘い、番禾・西安二郡を与え、兵を貸して西秦を攻め父の仇を報じさせると持ちかけた。虎台は内心これに応じたが、計画は漏れて中止となった。
- 西秦王熾磐の后は虎台の妹で、熾磐は変わらず厚遇していた。后は密かに虎台へ、秦は本来一族の仇であり、婚姻はただその時の便宜にすぎない、父王が死に際して復讐を禁じたのは子孫を救うためであって、子として仇に臣妾して報復を思わぬわけにはいかぬと説いた。
- そこで武衛将軍の越質洛城と結んで熾磐を弑そうとしたが、后の妹で熾磐の左夫人となっていた者が計画を知って密告した。
- 熾磐は后と虎台ら十余人を殺した。
十一月~十二月 北魏太宗の死
- 十一月、魏の周幾が許昌を攻め、許昌は陥落し、潁川太守の李元徳は項城へ逃げた。
- 戊辰、魏は汝陽を包囲し、汝陽太守の王公度も項城へ奔った。
- 劉粹は将の姚聳夫らを派遣して項城を援け守らせた。
- 北魏は許昌城を平らにし、鍾城も壊して境界の標識とし、軍を返した。
- 己巳、北魏太宗が崩じた。年三十二。
- 壬申、皇太子の拓跋燾が即位し、大赦した。これが世祖である。
- 十二月庚子、明元帝を金陵に葬り、廟号を太宗とした。
- その母の杜貴嬪には密皇后の尊号を追贈した。
- 長孫嵩以下の爵位を一斉に進め、盧魯元を中書監、劉絜を尚書令とした。
- 尉眷・劉庫仁ら八人に東西南北の四部を分掌させた。尉眷は尉古真の弟の子である。
- 河内鎮将の羅結を侍中・外都大官とし、三十六曹を統括させた。羅結は百七歳でも精神明晰で衰えず、忠実篤実で信任が厚く、後宮の出入りまで任された。百十歳でようやく退隠を許され、その後も朝廷の大事には馬を飛ばして意見を求められ、さらに十年して死んだ。
崔浩と寇謙之
- 左光禄大夫の崔浩は、経術・制度に精通し、朝廷の礼儀・軍国の詔勅に関わらぬものはないほどだった。
- 老荘を好まず、そうした書は人情に合わぬ虚妄で、老子が礼を学んだ孔子の師でありながら、どうして先王の法を乱す書を作るはずがあるかと論じた。仏法もまた信じなかった。
- 世祖即位後、側近が崔浩を中傷したため、いったん公位で帰第させられたが、帝はその賢を知っていたので、疑義があるたびに召し出して諮問した。
- 崔浩は容貌が白く美しく、自らを張良に比し、古を考える学ではそれ以上だと自負していた。
- 隠退後は服食養生の術を修めた。
- 嵩山の道士・寇謙之は、張道陵の法を継ぐ天師と自称し、老子から辟穀・軽身の術や二十巻の科戒を授かり、さらに老子の玄孫という神人李譜文から図籙真経六十余巻を授かったと称した。そこには北方を輔けて太平真君を世に出す法もあるとされた。
- 朝野の多くはこれを疑ったが、崔浩だけは寇謙之を師としてその術を受け、上書して、古代の河図洛書以上に、今日は神人が直に手筆を示しているのだから、世俗の常識で軽んじてはならないと強く薦めた。
- 北魏の主は喜び、嵩岳に玉帛・牲牢を奉じて祭り、寇謙之の弟子たちを山から迎え、平城東南に天師道場を築かせた。五層の壇を設け、道士百二十人に衣食を給し、毎月数千人規模の法会を開いた。
- 史論では、老荘・神仙・符水呪禁が本来は別系統であるのに、寇謙之がそれらを混合したことを誤りとし、崔浩のように仏老を退けながらこうした神異だけを信じたのは不可解だと評している。臧文仲が海鳥の爰居を祀った故事を引き、術を選ぶことの慎重さを戒めている。