資治通鑑晉紀三十九 安皇帝 義熙 十二年 416年

正月:北魏巡行と晋・後秦・西秦の動き

  • 春正月甲申、魏主拓跋嗣は豺山宮へ赴き、戊子に平城へ帰還した。
  • 晋では太尉劉裕に兗州刺史、都督南秦州を加え、都督州数は二十二州に及んだ。世子劉義符を豫州刺史とした。
  • 後秦王姚興は魯宗之に兵を与えて襄陽を侵させようとしたが、到着前に魯宗之は死去した。その子魯軌が兵を率いて侵入したが、雍州刺史趙倫之がこれを破った。
  • 西秦王乞伏熾磐は後秦の洮陽公姚彭利和を漒川で攻めたが、沮渠蒙遜が石泉を攻めて救援したため、乞伏熾磐はいったん沓中まで退いた。
  • 二月、乞伏熾磐は曇達を石泉救援に向かわせ、蒙遜も撤兵した。ここに至って両者は和親を結び、長年の交戦をひとまず収めた。

姚興病篤し、後秦宮中で政変

  • 姚興は華陰へ赴き、太子姚泓に監国させ、西宮に入らせたが、病が重くなって長安へ戻った。
  • 黄門侍郎尹冲は、姚泓が郊外に迎えに出たところを殺そうと企てた。
  • 姚泓は父の病を聞いて迎えに出ようとしたが、宮臣たちは、今出れば前にも進めず後ろにも退けず、身の危険と国家の危機があると諫めた。姚泓は孝とはまず身を全うして社稷を安んじることだという説に従い、出迎えを中止した。
  • 尚書姚沙弥は、いっそ乗輿を奉じて広平公姚弼の邸に移り、宿衛兵を呼び集めて太子勢力を圧する策を尹冲に勧めたが、尹冲は姚興の生死が未確定なのを恐れて実行しなかった。
  • 姚興は帰宮後、太子姚泓に録尚書事を命じ、東平公姚紹・右衛将軍胡翼度に禁中の兵を掌らせ、歛曼嵬に姚弼邸の甲仗を収めさせた。

姚興崩御と姚泓即位

  • その後、姚興の妹の南安長公主が見舞ったが応答がなく、幼子耕児は兄の南陽公姚愔に「すでに崩じた」と告げた。
  • 姚愔は尹冲とともに甲士を率いて端門を攻めたが、歛曼嵬・胡翼度らが門を閉じて防戦した。
  • 賊方は門や屋根をよじ登って馬道に達したが、姚泓のもとでは太子右衛率姚和都が東宮兵を率いて馬道南に入ったため、姚愔らは進めず、ついに端門に火を放った。
  • 姚興は病身をおして前殿に出、姚弼に死を賜った。禁兵は姚興の姿を見て歓喜し、相次いで賊に向かった。姚和都も背後から攻撃し、姚愔らは大敗した。
  • 姚愔は驪山に逃れ、建康公呂隆は雍へ逃れ、尹冲とその弟も姚泓のもとに走った。
  • 姚興は東平公姚紹・姚讃・梁喜・尹昭・歛曼嵬を内寝に呼んで遺詔を授け、翌日死去した。
  • 姚泓はしばらく喪を秘して南陽公姚愔・呂隆・尹元らを誅し、その後に発喪して皇帝位に即き、大赦して永和と改元した。
  • 姚泓は斉公姚恢に安定太守呂超を殺させたが、姚恢はためらいがちで、これを見た姚泓は姚恢にも二心ありと疑った。姚恢はこれを恐れ、ひそかに兵を集めて後の反乱の伏線をつくった。

李閏・邢望方面の反乱

  • 姚興は偶陵に葬られ、文桓皇帝と諡され、高祖と廟号された。
  • かつて姚興が安定に移した李閏羌三千戸は、姚興の死後、酋党容が叛いた。姚泓は姚讃に討たせて降し、豪酋は長安へ移し、その他は李閏へ帰した。
  • 北地太守毛雍は趙氏塢に拠って叛いたが、東平公姚紹が討って捕えた。
  • そのころ姚宣が李閏を守っていたが、参軍韋宗は、新帝の威徳がまだ定まらぬ今こそ深慮すべきであり、邢望の険要に拠れば覇業の基となると説いた。
  • 姚宣はこれに従い、三万八千戸を率いて李閏を棄て、南の邢望へ保した。諸羌も李閏に拠って叛いた。
  • 東平公姚紹は進撃して諸羌を破り、姚宣が罪を謝して来ると、これを殺した。

二月:劉裕、後秦征討を決断

  • 二月、晋では劉裕に中外大都督を加えた。
  • 劉裕は厳しく軍を整え、後秦遠征の準備を進めた。
  • 詔して劉裕に司州・豫州刺史を兼ねさせ、その世子劉義符に徐州・兗州刺史を兼ねさせた。
  • 琅邪王司馬徳文は、出征に際して帝陵を修敬したいと願い出て、朝廷はこれを許可した。

四月から六月:北魏改元、劉裕の官位増加、夏の侵攻

  • 四月壬子、魏は大赦して泰常と改元した。
  • 西秦の曇達らは上邽で後秦の秦州刺史姚艾を破り、その民五千余戸を枹罕へ移した。
  • 五月癸巳、晋では劉裕に北雍州刺史を兼ねさせた。
  • 六月丁巳、魏主拓跋嗣は北巡した。
  • 并州の胡人の数万部落が後秦に叛き、平陽に入って匈奴の曹弘を大単于に推した。
  • 攻められた姚成都は、後秦の征東将軍姚懿が蒲坂から討って曹弘を捕え、長安へ送った。豪右一万五千部落は雍州へ移された。
  • 氐王楊盛は祁山を攻め落とし、秦州へ迫った。後秦の姚平が救援に向かうと、楊盛は退いた。
  • だが姚平と上邽守将姚嵩がこれを追うと、夏王赫連勃勃が騎兵四万で上邽へ急襲した。姚嵩は竹嶺で楊盛との戦いに敗れて戦死した。
  • 赫連勃勃は二十日ほどで上邽を落とし、秦州刺史姚軍都と将士五千余人を殺し、城を壊した。さらに隂密を攻めて姚良子以下一万余人を殺し、子の赫連昌を雍州刺史として鎮守させた。

安定・雍城争奪

  • 後秦の征北将軍姚恢は安定を棄てて長安へ逃げ帰った。
  • 安定の胡儼ら五万戸は城を挙げて夏に降った。赫連勃勃は羊茍児に鮮卑五千を与えて安定を守らせた。
  • さらに赫連勃勃は雍城の後秦鎮西将軍姚諶を攻め、姚諶は鎮地を捨てて長安に逃げた。勃勃は雍を占拠して郿城一帯を掠めた。
  • 後秦では東平公姚紹と征虜将軍尹昭が歩騎五万を率いて迎撃し、赫連勃勃は安定へ退いた。
  • しかし胡儼は門を閉ざして夏軍を拒み、羊茍児とその鮮卑兵を殺して、再び安定を後秦に降した。
  • 姚紹はさらに馬鞍阪で赫連勃勃を破り、朝那まで追って帰還した。
  • 楊盛もまた甥の楊倦を陳倉まで進めたが、歛曼嵬に撃退された。
  • 赫連勃勃はさらに一族の赫連提を池陽に送ったが、後秦の姚裕らに追い返された。

秋七月:魏の大猟、劉裕の北伐準備

  • 秋七月、魏主は牛川で大猟を行い、殷繁水を臨んで帰還し、戊戌に平城へ着いた。
  • 八月丙午、大赦があった。
  • 寧州から太尉劉裕に琥珀の枕が献上された。劉裕は琥珀が金瘡に効くと知って大いに喜び、これを砕いて北征将士に分け与えた。

劉裕の出征体制と劉穆之の留守政務

  • 劉裕は世子劉義符を中軍将軍・太尉留府監とし、劉穆之を左僕射・監軍中軍二府軍司として東府に入らせ、内外を統轄させた。
  • 徐羨之を劉穆之の副とし、朱齢石に宮城守衛、劉懐慎に京師守衛、張裕に留州事を任せた。
  • 劉穆之は朝政と軍需の双方を巧みに処理し、判断は迅速で滞りがなかった。来客や訴えが群がっても、目・手・耳・口を同時に働かせるようにして事務をさばいた。
  • また賓客との談笑を好み、暇があれば自ら文書を写して校訂した。生活は豪奢であったが、みずから「その他のことで公に背くことは一毫もない」と語った。
  • 張邵は劉裕に、もし劉穆之に不幸があれば誰が代われるかを今のうちに考えるべきだと諫めたが、劉裕はその点は劉穆之と張邵に委ねると言った。

八月:劉裕、建康を発して後秦へ進軍

  • 丁巳、劉裕は建康を発した。
  • 王鎮悪・檀道済に歩軍を率いさせ、淮・淝から許昌・洛陽へ向かわせた。
  • 朱超石・胡藩には陽城へ、沈田子・傅弘之には武関へ向かわせた。
  • 沈林子・劉遵考には水軍を率いさせ、石門から汴水に出て黄河に入り、王仲徳には前鋒諸軍を督して鉅野から黄河へ入らせた。
  • 劉穆之は王鎮悪に、関中攻略の大任を託すと励まし、王鎮悪は「関中を取れなければ二度と江を渡って帰らぬ」と誓った。

留府での不安と魏の対胡戦

  • 劉裕出征後、青州刺史檀祇は広陵から勝手に兵を率いて滁方面に進み、亡命者を討つと称した。
  • 劉穆之は変事を恐れて軍を遣わそうと議したが、張邵は、兄の檀韶が江州にあり、弟の檀道済が北伐軍の主力である以上、疑いの形を見せればかえって危険だとして、慰労の使者を送って様子を見るべきだと勧めた。劉穆之はこれに従った。
  • 先年、魏主が公孫表に白亜栗斯討伐を命じた際、本来は洛陽の後秦守将に通報して河南岸を備えさせるはずだったが、公孫表は胡人の内部分裂を見て独断で攻め、大敗した。
  • そこで魏主は、秋も深まり農事を妨げたくない中、胡人討伐をどうすべきか群臣に問うた。崔宏は、兵不足ではなく統率不備が敗因であるから、威望ある大将を少数騎兵とともに派遣すれば足りるとした。
  • 相州刺史叔孫建が最適任とされ、中領軍として公孫表らを督し、九月戊午に劉虎・司馬順宰を大破して斬り、その衆十万余口を俘虜にした。

劉裕、彭城到着。王華の起用

  • 劉裕は彭城に着き、徐州刺史を兼ね、王玄謨を従事史とした。
  • かつて王廞が敗れた際、沙門曇永はその幼子王華を衣襆持ちの奴と見せかけて連れ歩き、津の検問を欺いて救った。赦免後、王華は父の生死も定かでないまま、布衣・粗食で交遊も断ち、十余年仕えなかった。
  • 劉裕はその賢を聞き、王廞の喪をあらためて発して王華に服喪を許し、喪が明けると徐州主簿に辟召した。

晋軍、許洛方面で連勝

  • 王鎮悪・檀道済は後秦領に入り、行く先々で勝利した。
  • 後秦の将王苟生は漆丘を挙げて王鎮悪に降り、徐州刺史姚掌も項城をもって檀道済に降った。
  • 各地の屯守は風を望んで帰服し、新蔡太守董遵だけが降らなかった。
  • 檀道済は新蔡を攻め落として董遵を捕え、これを殺した。さらに許昌を落とし、潁川太守姚垣・大将楊業を捕えた。
  • 沈林子は汴水から黄河に入り、襄邑の董神虎が千余人を率いて降ったので、太尉劉裕はこれを参軍に任じた。
  • 沈林子と董神虎は倉垣を攻め落とし、後秦の兗州刺史韋華を降した。
  • しかし董神虎は勝手に襄邑へ帰ったため、沈林子は軍令違反としてこれを殺した。

後秦朝廷の防衛論争

  • 後秦の東平公姚紹は、晋軍はすでに許昌を越え、安定も孤立して救いがたいので、安定の鎮戸を内地に移して京畿を充実させれば精兵十万を得られると主張した。晋と夏が同時に攻めてきても国を保てるが、そうしなければ晋は豫州を、夏は安定を奪ってしまうと危機感を示した。
  • 左僕射梁喜は、斉公姚恢には威名があり、安定の鎮人は赫連勃勃と深い血讐があるから守り抜くはずだと反論した。もし安定を失えば、夏の騎兵はたちまち郿に至るので、むしろ今は関中兵力を削らず晋に備えるべきだと述べた。
  • 姚泓は梁喜に従った。
  • しかし懿横は密かに、姚恢は広平公の変で忠功があったのに厚賞もなく、外では死地に置かれ、内では朝権にも与れず、不満が募れば京師の災いになりかねないから召還して慰撫すべきだと進言した。
  • 姚泓は、もし姚恢に逆心があるなら召還はかえって禍を早めるだけだとして、これにも従わなかった。

滑台事件と魏・晋の交渉

  • 王仲徳の水軍が黄河に入り、滑台に迫ると、魏の兗州刺史尉建は恐れて兵を率い、城を捨てて北岸へ逃れた。
  • 王仲徳は滑台に入り、「晋はもともと布帛七万匹をもって魏に通行を願うつもりだったのであり、守将が勝手に城を棄てるとは思わなかった」と宣言した。
  • 魏主拓跋嗣はこれを聞き、叔孫建・公孫表に河内から枋頭へ向かわせ、自らも黄河を渡って尉建を斬り、その死体を河に投じた。
  • さらに王仲徳軍に向かって侵攻の真意を尋ねさせると、仲徳の司馬竺和之は、晋は河から洛陽へ入り山陵を清掃するだけで、魏を侵す意図はなく、滑台は空城を借りて一時休んでいるにすぎない、両国の友好を損なう必要はないと答えた。
  • 拓跋嗣は太尉劉裕にも問わせ、劉裕は、洛陽は晋の旧都であり、そこを羌が占拠し、また桓氏・司馬休之兄弟・魯宗之父子ら晋の害となる者を後秦が受け入れているため、これを討とうとしているだけだと弁明した。
  • 魏の河内鎮将于栗磾は勇名があり、黄河沿いに砦を築いて備えた。劉裕は彼に書を送り、黒い矟を好むことから「黒矟公麾下」と宛名した。魏ではこれを受けて于栗磾に黒矟将軍の号を与えた。

十月:北魏の対燕戦と洛陽救援の失敗

  • 冬十月壬戌、魏主は豺山宮へ赴いた。
  • かつて北燕の将庫傉官斌は魏に降ったのち再び叛いて燕に帰っていたが、魏主は延普に濡水を渡らせてこれを討たせ、斬った。
  • そのまま幽州刺史庫傉官昌、征北将軍庫傉官提も攻めて斬った。
  • 晋軍の進撃を受けて、後秦の陽城・滎陽の二城も降り、晋軍は成皋まで進んだ。
  • 後秦の征南将軍陳留公姚洸は洛陽を守っており、長安に救援を求めた。
  • 姚泓は閻生に騎兵三千を率いさせて救援させ、姚益男に歩卒一万を与えて洛陽防衛を助けさせ、さらに并州牧姚懿を陜津に屯させて声援とした。

洛陽城内の対立と姚洸降伏

  • 趙玄は姚洸に対し、晋軍は強く味方は少ないから、各地の戍兵を収めて金墉城に拠り、西方の救援を待つのがよいと進言した。洛陽が陥ちなければ晋軍も容易に西へ進めないという見立てであった。
  • しかし司馬姚禹はひそかに檀道済と通じ、主簿閻恢・楊虔もその党で、彼らは趙玄を憎み、「方面を任された殿下が城にこもって弱さを見せれば朝廷の叱責を受ける」と姚洸に吹き込んだ。
  • 姚洸はこれを信じ、趙玄に千余を率いさせて柏谷塢を守らせ、石無諱を鞏城へ出した。
  • 趙玄は、忠言を用いず奸人に誤られるなら後悔するだろうと言って泣いた。
  • その後、成皋・虎牢も相次いで晋に降り、檀道済らは長駆して進んだ。石無諱は石関まで来て逃げ帰った。
  • 毛徳祖が柏谷で趙玄と戦い、趙玄は十余創を受けても座して大呼した。司馬蹇鑒は刃を冒して趙玄を抱いて泣き、ともに戦死した。
  • 姚禹は城を越えて檀道済に奔り、甲子、檀道済は洛陽に迫った。丙寅、姚洸は降伏した。
  • 晋軍は後秦兵四千余人を得た。これを皆殺しにして京観を築こうという議論もあったが、檀道済は、今は罪を討ち民を慰める時だとして、全員を釈放した。これにより夷夏ともに感悦し、帰附する者が非常に多くなった。
  • 閻生・姚益男は洛陽陥落を聞いて進軍をやめた。
  • 己丑、朝廷は高密王司馬恢之を兼司空として五陵を修謁させ、守衛を置いた。
  • 劉裕は毛脩之を河南・河内二郡太守、行司州事として洛陽守備に当てた。
  • 西秦王乞伏熾磐は王松寿を馬頭に鎮させ、上邽の後秦を圧迫した。

十一月から十二月:宋公策と姚懿の反乱

  • 十一月甲戌、魏主は平城へ帰還した。
  • 劉裕は左長史王弘を建康へ帰し、朝廷に九錫を求めさせた。留守を預かる劉穆之は、北から来る意向が自分を経ずに進んだことを恥じて心労し、病を発した。
  • 十二月壬申、朝廷は劉裕を相国・総百揆・揚州牧とし、十郡を封じて宋公に封じ、九錫の礼を備え、位を諸侯王の上に置いた。征西将軍・司州・豫州・北徐州・雍州刺史は従前どおりとした。劉裕はこれを辞退した。
  • 西秦王乞伏熾磐は使者を送り、後秦攻撃に功を立てたいと申し出たので、劉裕はこれを平西将軍・河南公に任じた。

姚懿、蒲坂で帝号を称す

  • 後秦の姚懿の司馬孫暢は、長安を襲って東平公姚紹を誅し、姚泓を廃して自ら代わるよう姚懿に勧めた。姚懿もこれに同意した。
  • 姚懿は河北の夷夏に穀を配って私恩を売ろうとしたが、左常侍張敞と侍郎左雅は、国難の際に国の本たる穀を勝手に散じるのは許されないと諫めた。
  • 姚懿は怒って二人を笞殺した。
  • 姚泓はこれを聞き、ひそかに姚紹と相談した。姚紹は、姚懿は浅薄で、計画の主は孫暢だろうから、まず孫暢を徴し、姚讃らを要地に配して備えるべきだと述べた。
  • そこで姚讃・司馬国璠・虵玄を陜津に、姚驢を潼関に置いた。
  • 姚懿はついに挙兵して帝を称し、州郡に檄を飛ばした。匈奴堡の穀を運び、蒲坂の鎮人に給しようとした。
  • 寧東将軍姚成都はこれを拒み、姚懿が下手に誓っても従わなかった。姚懿は王国に甲士数百を率いさせて攻めたが、姚成都はこれを捕えた。
  • 姚成都は檄文を回して、姚懿は近親の身で国難を救わず、かえって非望を図るのは三祖の霊にも見放される行為だと糾弾した。諸城にも兵と糧を募った。
  • 姚懿も諸城に出兵を求めたが応じる者はなく、臨晋の数千戸だけが応じた。
  • 姚成都は河を渡って臨晋の叛者を破り、安定の郭純ら鎮人もまた挙兵して姚懿を包囲した。
  • 東平公姚紹が蒲坂に入って姚懿を捕え、孫暢らとともに誅した。

北魏の官人死去と丁零の反乱鎮圧

  • この年、魏の衛将軍・安城孝元王叔孫俊が死去した。魏主拓跋嗣は深く惜しみ、その妻桓氏に「生前に栄をともにしたのなら、死後に憂いもともにできるか」と問うた。桓氏は自ら首をくくり、夫と合葬された。
  • 丁零の翟猛雀は吏民を駆り立てて白澗山に入り、反乱を起こした。
  • 魏の内都大官張蒲と冀州刺史長孫道生がこれを討った。道生はすぐ攻めようとしたが、張蒲は、吏民は猛雀に脅されただけで本心から叛いたのではない、今いっしょくたに討てばかえって官軍に抗して団結するから、まず猛雀に与しない者は罪に問わぬと諭せば離反すると主張した。
  • 道生が従うと、数千家が降って旧業に復した。翟猛雀は百余人とともに逃走し、張蒲らが追って斬った。
  • 左部尚書周幾は残党を追い詰め、すべて誅した。