資治通鑑晉紀三十九 安皇帝 義熙 十一年 415年

春正月:劉裕、司馬休之討伐を開始

  • 丙辰、魏主拓跋嗣は柔然遠征から平城へ帰還した。
  • 晋では太尉劉裕が司馬休之の次子・司馬文宝と兄の子・司馬文祖を捕えて死を賜り、あわせて司馬休之討伐の兵を起こした。
  • 朝廷は劉裕に黄鉞を加え、荊州刺史を兼ねさせた。
  • 庚午、大赦が行われた。
  • 丁丑、吏部尚書謝裕を尚書左僕射とした。
  • 辛巳、劉裕は建康を発し、中軍将軍劉道憐に留府の監督を命じた。政務は大小を問わず劉穆之が決裁し、高陽内史劉鍾には石頭の守備と冶亭駐屯を命じた。

荊州側の離反と韓延之の返書

  • 司馬休之の府司馬張裕、南平太守檀範之は情勢を見て建康へ逃げ帰った。
  • 雍州刺史魯宗之は、自分もいずれ劉裕に容れられないと疑い、子の竟陵太守魯軌とともに挙兵して司馬休之に呼応した。
  • 二月、司馬休之は上表して劉裕の罪を並べ、兵を整えて対抗した。
  • 劉裕はひそかに司馬休之の府の録事参軍韓延之を味方に引き入れようとしたが、韓延之は返書でこれを厳しく拒絶した。司馬休之の忠誠を称え、譙王司馬文思の件を口実に兵を興したのは不当だと非難し、劉裕の過去の行動まで引いて、その意図は天下の人々の知るところだと断じた。
  • 劉裕はその手紙を見て嘆息し、配下に「人に仕えるとはこのようでなくてはならぬ」と語った。
  • 韓延之は、劉裕の父の名を避けて自らの字を改め、子に「翹」と名付けて劉氏に臣従しない姿勢を示した。

北方・辺境の動き

  • 瑯邪太守劉朗は二千余家を率いて魏に降った。
  • 庚子、河西の胡人劉雲ら数万戸も魏に降った。
  • 劉裕は参軍檀道済・朱超石に歩騎を率いさせて襄陽方面へ出し、江夏太守劉虔之には三連に屯して橋を架け、兵糧を集めて待機させた。
  • ところが檀道済らの到着が遅れるうちに、魯軌が劉虔之を急襲し、これを殺した。

破冢の敗戦と劉裕の渡江

  • 劉裕は娘婿の徐逵之を前鋒として、蒯恩・王允之・沈淵子らを江夏口から進ませた。
  • 徐逵之らは破冢で魯軌と戦ったが敗れ、徐逵之・王允之・沈淵子は戦死した。蒯恩だけは軍を保って踏みとどまり、魯軌もついに攻め落とせず退いた。
  • 劉裕は馬頭に進んでいたが、この敗報を聞いて激怒した。
  • 三月壬午、諸将を率いて自ら長江を渡ろうとし、峻岸に陣した司馬文思・司馬休之の軍四万に対した。兵は登れず、劉裕みずから甲冑を着けて先登しようとした。
  • 主簿謝晦が抱きとめると、劉裕は剣を抜いて脅したが、謝晦は「天下に私がなくとも、公がいてくださらねばならぬ」と諫めた。
  • 建武将軍胡藩が遊撃兵を率いており、劉裕は彼に先登を命じた。胡藩は岸に刀を突き立てて足場を作り、身を躍らせてよじ登った。後続も続き、ついに晋軍は岸上に展開して奮戦し、司馬休之の軍は総崩れとなった。

江陵陥落と司馬休之らの逃亡

  • 晋軍は江陵を攻略した。
  • 司馬休之と魯宗之は北方へ逃れ、魯軌は石城に残った。
  • 劉裕は趙倫之・沈林子に石城攻撃を命じ、さらに武陵内史王鎮悪に水軍で司馬休之らを追わせた。
  • そのころ建康では、数百人の群盗が夜に冶亭を襲って都が震えたが、劉鍾がこれを平定した。

後秦の内紛と夏・西秦・北方諸勢力

  • 後秦では広平公姚弼が姚宣を讒言し、姚宣の司馬権丕も自己保身のために姚宣の罪を誣告した。姚興は姚宣を杏城で捕えて獄に下し、姚弼に三万を与えて秦州を守らせた。
  • 尹昭は、姚弼と皇太子の不和を憂え、強兵を外に持たせる危険を諫めたが、姚興は従わなかった。
  • 夏王赫連勃勃は杏城を攻め落とし、守将姚逵を捕え、兵二万人を坑殺した。
  • 河西王沮渠蒙遜は西秦の広武郡を奪ったが、西秦王乞伏熾磐は将を派して浩亹で迎撃し、さらに勒姐嶺に拠った河西軍も破って、蒙遜の軍勢を退けた。
  • 河西地方では飢饉のため胡人が上党に集まり、白亜栗斯を単于に立てて建平と改元し、司馬順宰を謀主として魏の河内を侵した。

四月:劉敬宣暗殺

  • 四月、魏主拓跋嗣は公孫表ら五将に白亜栗斯討伐を命じた。
  • 青・冀二州刺史劉敬宣のもとでは、参軍司馬道賜・辟閭道秀・部将王猛子らが、劉敬宣を殺して広固に拠り、司馬休之に呼応しようとした。
  • 乙卯、王猛子は劉敬宣を殺害したが、文武官属はただちに反撃し、司馬道賜ら一党をすべて斬った。

五月:司馬休之ら、後秦へ亡命

  • 己卯、魏主は北巡した。
  • 西秦王乞伏熾磐の子・乞伏元基は長安から逃げ帰り、尚書左僕射に任じられた。
  • 丁亥、魏主は大寧に赴いた。
  • 趙倫之・沈林子は石城で魯軌を破った。司馬休之・魯宗之は救援できず、魯軌とともに襄陽へ退いた。
  • しかし魯宗之の参軍李応之が門を閉ざして受け入れなかったため、甲午、司馬休之・魯宗之・魯軌・譙王司馬文思・新蔡王司馬道賜・梁州刺史馬敬・南陽太守魯範らはみな後秦へ逃れた。
  • 魯宗之は民心を得ていたので、多くの士民が境外まで護送した。王鎮悪らは国境まで追って引き返した。
  • 先に司馬休之らは後秦・北魏に救援を求めており、後秦の姚成王・司馬国璠は南陽まで、魏の長孫嵩は河東まで来ていたが、敗報を聞いて引き返した。

後秦での司馬休之処遇と晋朝の論功行賞

  • 司馬休之が長安に着くと、後秦王姚興は揚州刺史に任じ、襄陽を侵擾させようとした。
  • 侍御史唐盛は、符讖によれば司馬氏は河洛を回復する運命にあるとして、兵権を外に持たせる危険を説いたが、姚興は天命があるなら人力では防げないとして司馬休之を外任させた。
  • 晋では劉裕に太傅・揚州牧を加え、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名の特典を与えた。
  • 劉道憐を都督荊・湘・益・秦・寧・梁・雍七州諸軍事、驃騎将軍、荊州刺史とした。
  • 劉道憐は貪婪で才が乏しかったため、劉裕は謝方明をその長史・南郡相とし、府中の政務をすべて彼に裁断させた。

河西・夏・西秦の外交と湟河争奪

  • 益州刺史朱齢石は河西王沮渠蒙遜に使者を送り、朝廷の威徳を諭した。
  • 蒙遜は舎人黄迅を返使として送り、劉裕が中原を平定するなら自らは右翼となって戎虜を駆逐したいと上表した。
  • 夏王赫連勃勃は御史中丞烏洛孤を蒙遜に送り、同盟を結んだ。蒙遜も弟の漢平を夏に遣わして盟約を結ばせた。
  • これに対し西秦王乞伏熾磐は三万を率いて湟河を急襲した。漢平は司馬隗仁を夜襲に出して熾磐を破ったが、撤退しかけた熾磐を長史焦昶・将軍段景がひそかに招き入れたため、城は再び攻められた。
  • 焦昶・段景は漢平に降伏を勧め、隗仁は百余の壮士と南門楼を守って三日抗戦した末に捕えられた。段暉の諫めで処刑は免れた。
  • 熾磐は匹達を湟河太守とし、乙弗窟乾を降し、その三千余戸を得て帰還し、出連虔を嶺北都督・涼州刺史、謙屯を鎮軍大将軍・河州牧とした。
  • 隗仁は西秦に五年留められたのち、段暉の再度の取りなしで姑臧へ帰ることを許された。

夏から秋:魏の巡行と日食

  • 戊午、魏主は濡源から上谷・涿鹿・広寧を巡り、秋七月癸未に平城へ帰還した。
  • 西秦では曇達を尚書令、王松寿を秦州刺史とした。
  • 辛亥朔、日食があった。

八月以降:劉裕帰還、魏の遷都論争

  • 八月甲子、劉裕は建康へ帰還した。太傅・州牧は固辞したが、その他の加官は受けた。
  • 豫章公世子劉義符を兗州刺史とした。
  • 丁未、謝裕が死去し、劉穆之が尚書左僕射となった。
  • 九月己亥、大赦が行われた。
  • 魏ではここ数年、霜害と旱魃が続き、雲中・代郡の民が多く飢え死にした。
  • 太史令王亮・蘇坦は讖書にもとづき、都を鄴に移せば豊かになれると進言した。
  • これに対し崔浩と周澹は、飢え対策としては一時しのぎになるが、長久の計ではないと反対した。南遷すれば旧都平城が手薄となり、屈丐や柔然に狙われ、また北方騎兵の機動力という魏の強みも失われると論じた。来春になれば乳酪や菜果で飢えをしのげるから、極貧の者だけ山東三州へ移して食を求めさせるべきだとした。
  • 拓跋嗣はこれに同意し、特に貧しい国人を定・相・冀の三州に移して食を求めさせ、周幾を魯口に鎮させて安撫した。さらに籍田を耕し、農桑を奨励した。翌年、豊作となって民は富み安んじた。

後秦の広平公姚弼事件

  • 夏の赫連建が後秦の平涼太守姚軍都を捕え、新平に侵入したが、広平公姚弼は龍尾堡でこれを破えた。
  • しかし姚興の病が重くなると、姚弼は病と称して入朝せず、邸宅に兵を集めた。
  • 姚興はこれを聞いて怒り、姚弼の党である唐盛・孫玄らを捕えて殺した。
  • 皇太子姚泓は、兄弟間の不和は自分の責任だと涙ながらに訴え、自分を処罰してもよいから国家を安定させてほしいと願った。
  • 姚興は姚讃・梁喜・尹昭・歛曼嵬らと協議し、姚弼を殺してその党与を厳しく追及しようとしたが、姚泓の強い請願により姚弼とその党は赦された。
  • 姚泓は以後も姚弼を以前どおりに遇し、恨みを表に出さなかった。

魏の熒惑占と後秦衰亡の前兆

  • 魏では太史が、熒惑が匏瓜の宿に見えたのち忽然と見えなくなったと奏上した。占法では、こうした場合はまず童謡や妖言が起こり、その後に危亡の国へ災いが及ぶとされた。
  • 拓跋嗣は名儒十余人を召して議論させたが、崔浩は、熒惑が隠れた日が庚午の夕から辛未の朝にかけての二日であり、庚・午はいずれも当時の後秦に関わり、辛は西方を示すから、熒惑は長安の姚興の国に入ったはずだと断言した。
  • その場では多くが信じなかったが、八十日余り後に熒惑は東井に現れ、長く留まった。やがて後秦では大旱となり、昆明池も涸れ、童謡や流言が広まって民心が不安となった。のちに後秦が滅ぶと、人々は崔浩の見識に服した。

冬:魏と後秦の婚姻、西秦・北燕・交州

  • 十月壬子、後秦王姚興は娘の西平公主を魏へ送り、魏主は皇后の礼で迎えようとしたが、金人鋳造の占いが成就しなかったため、皇后ではなく夫人とし、それでも非常に寵愛した。
  • 辛酉、魏主は沮洳城に赴き、癸亥に平城へ帰った。十一月丁亥、再び豺山宮に赴き、庚子に帰還した。
  • 西秦王乞伏熾磐は曇達らに騎兵一万を与えて南羌の彌姐・康薄于を赤水で攻め、これを降した。王孟保を略陽太守として赤水に鎮させた。
  • 北燕では孫護の弟たち孫伯仁・孫叱支・孫乙拔が功臣でありながら不満を漏らしたため、燕王馮跋は三人を殺し、さらに孫護を慰撫のため高位に上げたが、孫護も不満を抱いたので毒殺した。
  • 遼東太守務銀提も功臣でありながら辺郡に出されたことを怨み、外叛を謀ったため、馮跋はこれも殺した。
  • 林邑が交州を侵したが、州の軍がこれを打ち破った。