正月・二月 北魏と夏
- 春正月辛酉、北魏は大赦して神瑞と改元した。
- 辛巳、北魏主拓跋嗣は繁畤へ行幸し、二月戊戌に平城へ戻った。
- 夏王赫連勃勃は魏の河東・蒲子を侵した。
- 庚戌、拓跋嗣は豺山宮へ赴いた。
- 北魏の并州刺史婁伏連は、夏が吐京に置いていた護軍と守兵を襲って殺した。
司馬休之と劉裕の緊張
- 司馬休之は江陵にあって江漢の民心をかなり得ていた。子の譙王司馬文思は建康にいて、凶暴で軽侠を好んだため、劉裕はこれを憎んでいた。
- 三月、有司は文思が国吏を私刑で打ち殺したと奏上し、朝廷はその党を誅したが文思本人は赦した。
- 司馬休之は謝罪して解任を願ったが許されなかった。
- 劉裕は文思を休之のもとへ送り、自ら厳しく訓戒させようとしたが、休之は廃嫡を願う上表をしただけで、文思を殺さなかった。これにより劉裕は不快感を深めた。
- 江州刺史孟懐玉が、豫州六郡を兼督して休之に備えることになった。
後秦の政争激化
- 夏五月辛酉、北魏主は平城に還った。
- 後秦の後将軍歛成が叛羌を討ったが敗れ、罪を恐れて夏へ逃れた。
- 姚興が病むと、妖賊李弘と氐の仇常が貳城で反乱を起こした。姚興は病身をおして出征し、仇常を斬り、李弘を捕えて帰還した。
- 左将軍姚文宗は太子姚泓に寵愛されていたが、広平公姚弼がこれを憎み、怨言があると讒訴したため、姚興は姚文宗を死に追いやった。
- ここから群臣は姚弼を恐れて顔色をうかがうようになり、姚弼は親党の尹冲を給事黄門侍郎、唐盛を治書侍御史とし、機密を握る側近をみな自派で固めた。
- 右僕射梁喜・侍中任謙・京兆尹尹昭は機会を見て姚興に、姚弼には太子を奪おうとする志があり、陛下の寵愛がかえって彼を危うくしている、左右を遠ざけ権限を削ぐべきだと諫めたが、姚興は応じなかった。
- 大司農竇温・司徒左長史王弼はひそかに姚弼を太子に立てるよう勧めたが、姚興は従わず、しかし罪にも問わなかった。
- 病勢が重くなると、姚弼は数千人をひそかに集めて乱を企てた。姚裕はその様子を藩鎮の諸兄に知らせたので、姚懿は蒲阪で、姚洸は洛陽で、姚諶は雍で兵を整え、長安に赴いて姚弼を討とうとした。
- その最中に姚興の病がやや快方に向かい、征虜将軍劉羌が泣いて実情を訴えた。梁喜・尹昭も姚弼を罰するよう求めたため、姚興はやむなく姚弼を尚書令から免じ、将軍・公として邸に帰した。諸王もそれぞれ兵を解いた。
- 姚懿・姚洸・姚諶・姚宣が入朝すると、姚興は初めは会見を拒んだが、姚裕のとりなしで諮議堂に引見した。姚宣らは涙ながらに姚弼の危険性を説いたが、姚興は自分で処置すると言って聞き入れなかった。
- 撫軍東曹属姜虬も上疏し、姚弼の逆心はすでに明白で、寵愛から国乱が起きているのだから、凶党を散らして禍の根を断つべきだと諫めた。姚興はこれを梁喜に見せ、「天下人がみな我が子を口実にしている」と漏らしたが、なお決断しなかった。
南涼滅亡
- 唾契汗・乙弗などの部が南涼に叛いた。
- 南涼王傉檀はこれを討とうとしたが、孟愷は、連年の飢饉に加え、南に熾磐、北に蒙遜を控え、民心も安定しない今、遠征は後患を残すから、西秦と講和して兵食を整えるべきだと諫めた。傉檀は従わなかった。
- 傉檀は太子虎台に、蒙遜は遠く去っていて急には来られず、警戒すべきは熾磐だけだが兵は少なく防ぎやすいから、楽都を慎んで守れと命じ、自ら騎兵七千で乙弗を襲った。大勝して馬牛羊四十余万を得た。
- これを聞いた熾磐は楽都急襲を考えた。群臣は反対したが、焦襲は、傉檀は近い危険を捨てて遠い利をむさぼっている、今その西帰路を断てば虎台孤立の城は座して取れると説いた。熾磐は従い、歩騎二万で楽都を襲った。
- 虎台は城に拠って守った。尉粛は、外城は広く守りにくいので、国人は内城に集め、自分たち晋人が外で戦うべきだと進言した。だが虎台は熾磐を侮り、さらに晋人が異心を抱くのを疑って、豪望や有能者をみな城内に閉じ込めた。
- 孟愷は、敵は虚を突いて内地へ侵入し、国は累卵の危うさにあるのに、恩に報いようとする者を疑うのかと泣いて諫めたが、虎台は聞かなかった。
- 一夜のうちに城は潰れ、熾磐は楽都へ入った。捷虔に騎兵五千を与えて傉檀を追わせ、謙屯を都督河右諸軍事・涼州刺史として楽都に置き、禿髪赴単を西平太守、趙恢を広武太守、王基を晋興太守として各地に配置した。虎台と文武・百姓一万余戸は枹罕へ移された。
- 河間の褚匡は北燕王馮跋に、旧郷長楽の族党は東方を望んで帰附を待っていると進言し、馮跋はこれを許した。褚匡は馮買・馮睹とともに長楽から五千余戸を率いて和龍に帰った。
- 契丹・庫莫奚も燕に降り、馮跋はその君長を帰善王に任じた。
- 馮跋の弟馮丕は高句麗に避難していたが、召し戻されて左僕射・常山公となった。
柔然の政変
- 柔然可汗斛律が燕へ娘を嫁がせようとした際、兄の子歩鹿真は、幼い娘を遠くに出すのではなく大臣樹黎らの娘を媵とすべきだと進言したが、斛律は許さなかった。
- 歩鹿真は樹黎らに、斛律がその娘を遠国に送ろうとしていると告げ、恐れた樹黎らと共謀して夜、穹廬の外で斛律を捕え、娘ともども燕へ送った。歩鹿真は自立して可汗となり、樹黎が補佐した。
- かつて社崘が高車を併呑した際、叱洛侯が案内役となった恩があって大人に取り立てられていた。だが歩鹿真と社拔がその家で放縦にふるまい、叱洛侯の妻が「叱洛侯は大檀を主に立てようとしている」と密告した。
- 大檀は社崘の季父僕渾の子で、西境にいて人望を得ていた。歩鹿真は叱洛侯を攻めて自殺させ、さらに大檀を襲ったが、逆に敗れて捕えられ、社拔とともに殺された。
- 大檀は自ら可汗に立ち、牟汗紇升蓋可汗を号した。
- 斛律は和龍に着くと、馮跋は上谷侯の爵を与え、遼東に館して客礼で遇したうえ、娘を昭儀とした。
- 斛律は帰国を願い、重兵は不要で三百騎あれば敕勒国人が迎えに来ると言った。馮跋は単于前輔万陵に三百騎を率いさせて送らせたが、万陵は遠役を嫌い、黒山で斛律を殺して帰った。
- 大檀もまた燕へ馬三千匹・羊一万を献じた。
六月以後 北魏・南涼の終末
- 六月、泰山太守劉研らは流民七千余家を率い、河西胡の劉遮らも一万余家を率いて北魏に降った。
- 戊申、拓跋嗣は豺山宮に赴き、丁亥に平城へ帰った。
- 楽都陥落の報を受けた南涼王傉檀は、妻子が熾磐に捕えられた以上、乙弗の資をもって契汗を取り、妻子を贖い戻したいと兵に呼びかけたが、兵の多くは逃げ帰った。追撃に出した段苟も帰ってこなかった。
- 将士が離散すると、樊尼・紇勃・洛肱・陰利鹿だけが残った。
- 傉檀は、かつて蒙遜も熾磐も自分に臣従したのに、今さら彼らに身を寄せるのは恥だと嘆いたうえで、樊尼らには北方の旧衆を率いて蒙遜を頼れと命じ、自分は年老いて他に行く先もないから、妻子に会って死ぬほうがよいとして熾磐に降った。陰利鹿だけは最後まで付き従った。
- 傉檀は、親族も大臣もみな去ったなかで、忠義を全うしたのは陰利鹿ただ一人だと感嘆した。
- 南涼の諸城はみな熾磐に降り、ただ尉賢政のいる浩亹だけが固守した。熾磐は、楽都は落ち、妻子もこちらにいるのに、なぜ一城を守るのかと説いたが、尉賢政は、厚恩を受けて国の藩屏となった以上、主君の存亡がわからぬうちは降れない、利に動いて任を忘れる者を王も用いまいと答えた。
- 熾磐が虎台の手書きまで示して降伏を勧めると、尉賢政は、太子でありながら父と国を捨てた者に倣うことはできないと退けた。やがて傉檀が左南に着いたと聞いて初めて降伏した。
- 熾磐は傉檀を郊外まで迎え、上賓として遇した。
- 秋七月、熾磐は傉檀を驃騎大将軍・左南公とし、南涼の文武をその才能に応じて叙用した。
- しかし一年余りののち、熾磐は人を遣わして傉檀を毒殺させた。左右が解毒を勧めたが、傉檀は「この病をどうして治す必要があろうか」と言って死んだ。諡は景王であった。
- 虎台もまた熾磐に殺された。傉檀の子保周・賀、俱延の子覆龍、利鹿孤の孫副周、烏孤の孫承鉢は河西王蒙遜のもとへ奔り、のちには北魏へ移って、それぞれ爵位を与えられた。拓跋嗣は賀の才を愛し、同源のよしみから源氏の姓を賜った。
北魏の対外使節
- 八月戊子、北魏主は馬邑侯陋孫を後秦へ、于什門を燕へ、悦力延を柔然へ使わせた。
- 于什門は和龍に着いても、馮王が出て詔を受けるまでは入らないと言い張った。馮跋は人に引き立てて入らせたが、于什門は拝礼せず、首を押さえつけられても、賓主の礼は尽くすが無理強いされるいわれはないと言った。
- 馮跋は怒って幽閉し、降伏させようとしたが、于什門は屈しなかった。衣冠が破れ、しらみが湧くほどになっても新しい衣冠を受け取らなかった。
- 北魏主は博士王諒を平南参軍として、平南将軍・相州刺史尉太真の書を劉裕に届けさせ、通好を図った。尉太真は尉古真の弟である。
- 九月丁巳朔、日食があった。
熾磐、秦王を称す
- 冬十月、河南王熾磐は再び秦王を称し、百官を置いた。南涼を併せたことで国号を強めた形である。
- 燕王馮跋は夏と和親し、赫連勃勃は御史中丞烏洛孤を燕へ送って盟約に臨ませた。
北魏の吏治監察
- 十一月壬午、北魏主は使者を諸州に巡行させ、守宰の資産を調査し、家から持参したものでない財物はすべて記録して贓物とした。
- 西秦王熾磐は妃の禿髪氏を皇后に立てた。禿髪氏は傉檀の娘である。
十二月 柔然侵入と各地の事件
- 十二月丙戌朔、柔然可汗大檀が北魏へ侵入した。丙申、拓跋嗣は自ら北征し、大檀を走らせ、奚斤らに追撃させたが、大雪に遭い、兵士には凍死者や指が落ちる者が多く出た。
- 河内の司馬順宰が自ら晋王と称したが、魏軍は討ってもすぐには平定できなかった。
- 燕の遼西公馮素弗が死去した。馮跋は葬儀に七度も臨んだ。
- この年、司馬国璠兄弟が数百人を率いて淮をひそかに渡り、夜のうちに広陵城へ入った。青州刺史檀祇は広陵相を兼ねており、賊兵はそのまま庁事に迫った。檀祇は驚いて出戦し、矢傷を受けて引き返したが、左右に「五更まで打鼓せよ。賊は夜明けを恐れて逃げる」と命じた。果たして司馬国璠の兵は逃走した。
- 北魏では、博士祭酒崔浩が拓跋嗣に『易』と『洪範』を講じ、天文・術数の占断も多く当てたため、非常に寵任され、軍国の密議にも参加するようになった。
- 夏王赫連勃勃は夫人梁氏を王后に立て、子赫連璝を太子とし、さらに諸子を各公に封じた。